第七話【痛み】

「ポイント。トゥエンティワンエイティーン(21対18)。マッチウォンバイ、朝比奈。浅葉中」


 審判の声に美緒は深くため息をついた。試合の終わりと共に拍手がシャワーのように美緒と千坂へと降り注ぎ、二人を包み込む。立ったままの朝比奈と違い、千坂は両手を床について項垂れていた。体を支える両手が震えているのが美緒にも見えて、何かが違えば自分がその姿になっていたと思って体を震わせた。

 それほどまでに、今回の勝利は遠かった。第一ゲームを21対13で取り、このゲームを終えるまでに男女のシングルスダブルスを含めた全てのベスト4を決める試合が終わっていた。一つの試合が長引けば、当然あとのスケジュールに影響が出てくる。

 大会側は男女の決勝戦をほぼ同じタイミングで行うことにしていたため、結局は美緒達の試合が終わるまで進行は中断。自然と他の選手達が美緒達の試合を見に来ていたことによる、拍手のシャワーである。


(これで……去年を、越えた)


 拍手の音を聞きつつ、美緒は思いを馳せる。

 去年自分が進んだ先にあった到達点に辿り着いた。後は、今まで目指してきた目標に進むだけ。そうすれば、全国出場が決まる。

 視線を前に戻すと、審判が美緒と千坂に握手をするように求めていた。試合後の脱力感で全く気づかない自分に、美緒は苦笑する。久しくここまで消耗していなかったと思い返し、美緒は歩き出す。


「――っ」


 前に踏み込んだ左足に痛みが走る。そこまで強くはなかったものの、よろめきそうになった。相手にも、おそらく試合を見ていたであろう対戦相手にも気づかれないように装いながら美緒はネット前へと歩き、千坂と握手を交わした。


「ありがとうございました」


 千坂の目には涙。ふと、去年の自分を思い出す。ベスト4を賭けたこの試合で負けた時、こんな顔をしていたかもしれないと。涙を浮かべていてもそれを極力否定して、流さないようにこらえる。次の対戦は高校以降かもしれないが、絶対に負けないという意志を込めた瞳。少しだけ長く、美緒は千坂の手を握っていた。その時間に千坂が不思議に思って首を傾げたところで、試合中に何度も届いていた声がまた届く。


「千坂ー! お疲れさん!」


 その声に千坂の顔が崩れる。呆れるような。それでいて、落ち着くような。そんな何かに触れた顔。

 美緒は自然と顔をほころばせつつ、手を離してコートから出た。もう後ろは振り向かない。千坂のことを徐々に頭から消しつつ、代わりに思いを巡らせるのはベスト4の先。

 約束の場所への最後の扉だ。

 フロアを横切って外に出る。コートがあるフロアの外側。共用スペースにはちらほらと人が見える。美緒は人気がない場所を探して歩いていく。無表情を装っていたが、額には試合で流れたものとは異質な汗が流れていた。やがて死角になっている場所に辿り着き、そこに備え付けられている椅子に腰掛ける。そこでゆっくりと息を吸い、吐いた。


「――痛ぅ」


 美緒は左足のふくらはぎを両手で触り、揉みほぐし始める。試合の途中から痛みだした左ふくらはぎ。途中で何度か痛みに顔を歪ませたが、千坂には気づかれなかった。もしも持久戦が得意な相手に弱点を知られたら。そう思うと、今更ながら美緒はぞっとする。だが、今は過ぎたことよりも先のこと。


(どうして左が……?)


 右足首を回してみると、特に痛みはなかった。いつも試合を重ねると多少痛いように思えているのに、今回に限っては全く問題はない。逆に左足のふくらはぎが痙攣し、痛みを発している。美緒はひとまず両手でゆっくりと揉んでみた。少しして痛みが和らいだことで美緒はほっとする。


(大丈夫。そこまで酷い痛みじゃない)


 ほっとすると、次に襲ってきたのは寒気。

 汗が冷えたかとラケットバッグの中に入れておいたジャージの上をとりあえず着るも、また体が震える。室温はそこまで低くはない。外の暑さを体感させまいと涼しく設定はされているが、低すぎれば選手にとって悪影響ということは体育館の事務も分かっているのだろう。図書館など他の公共施設に比べて気温は高い。


(違う……これは……)

「お、武者震いしてる?」


 自分の心の声を読まれたように感じて、美緒は頭を上げた。そこにいたのは遊佐。いつものように明るい笑みを美緒へと向けているが、今回はその中に何か陰りが見えた。


(……もしかして、心配してくれてるの?)


 そう思って、美緒は少し頬を染める。苦しい試合が終わった後で気が緩んでいるのかもしれないと、美緒は気を引き締めようとする。しかし、先に動いたのは遊佐だった。急に美緒の前にしゃがむと、左足を掴む。


「きゃっ!?」

「じっとしてろって。左足、痛いんだろ?」


 美緒に二の句を告げさせずに、遊佐はマッサージを始めた。足首を何度か回し、ふくらはぎの形を優しく変える。痛い箇所をただ押すだけの自分のマッサージとは違って、遊佐の押した所から疲れが霧散していくように美緒には思えて、思わず吐息を漏らす。


「……ふぅ」


 美緒の吐息に顔を上げた遊佐は顔を赤らめてまた俯く。その様子を見ていると更に美緒は恥ずかしくなって顔を背けた。徐々に冷えてくる体と反比例するように顔は熱くなっていった。


「……上手いんだね」


 場を繋がなければ息苦しいと、美緒は口を開く。いつものように何か会話をしていればこの空気も消えてくれるはずだと。それでも、第一声は弱々しくなった。遊佐相手に緊張している自分を改めて自覚する。


「ああ。怪我はやっぱり怖いからな。本読んで、どうマッサージしたら楽になるかとか研究してる」

「へぇ……私なんて全然考えてなかった……。よく右足首怪我してるのに」

「朝比奈はバドミントンだけってところあるからなぁ。勉強もできるんだし、もう少し興味広げた方がいいぞ」

「ありがとって言ったほうがいいのそれ。地味に馬鹿にしてない?」

「誉めてるから」


 会話をすると緊張も減る。その間も優しく左ふくらはぎを包んでいる遊佐の両手を感じると、心の中に暖かさが広がっていく。だからこそなのか、美緒の口から自然と言葉が出ていた。


「ねえ。なんで私のこと、好きなの?」


 それまで動いていた空気が止まる。

 遊佐は一瞬だけ手の動きを止めたが、すぐにマッサージを再開した。そして、美緒は。


(……なんか凄い台詞言っちゃったな)


 自分の発言にいよいよ顔全部を真っ赤にしてしまう。

 もしも他に聞いた人がいればどんな風に捉えるのか。むしろ遊佐はどう捉えたのか。


(嫌な女みたいに思われちゃうかな……どうなんだろ)


 何かを遊佐に言ってほしいために口を開きかける美緒だったが、相手からの言葉の方が早かった。


「よく分からんわ。いつの間にか好きになってたし。どこが好きかって具体的なのもない」

「……なにそれ。何か好きなところがあって相手を好きになるんじゃないの?」


 答えは分からなくてもなにかしら答えがある。そう思って尋ねたのに肩すかしを食らった気分で、美緒は気落ちする。そしてその自分に驚く。そんな内心の動揺を余所に、遊佐は言葉を連ねていく。


「一年の頃から一緒に練習してただろ。その頃は全く勝てなくてさ。勝ってやる! って毎回挑んでさ。だから勝てた時は嬉しくてさ。そうこうしてるうちに好きになってた」

「……凄く雰囲気だよね」

「ああ。でも、理由があるとしたら」


 遊佐は一度言葉を止めて顔を上げると美緒の目をじっと見つめる。その視線の強さに美緒はたじろぐ。体が緊張して、マッサージされていた左足も堅くなる。それを感じたのか、遊佐は視線の強さを弱めた。


「朝比奈のバドミントンへの思いの強さ、かな」


 それもまた雰囲気ではないか、と美緒は口に出そうとした。しかし、記憶の中にある似た感情と結びついて、それは間違いではないのかもしれないと考える。

 古い記憶。

 今の自分はまだ幼いが、更に幼かった頃。昔から積み重ねた体験、記憶の中で得た一つの思い。美緒にも確かに思い当たる節があった。


「よし。じゃあ次、右足のシューズ脱いで」

「なんで?」

「テーピングするから」


 遊佐の言葉にとりあえずシューズを脱ぐ。しかし右足首は特に痛くないため、美緒には理由が分からない。ただ、今の遊佐には素直に従おうという気になっていた。


(……ほんと、私も雰囲気に流されやすいかも)


 遊佐と練習してきた記憶。それは部活仲間の域を出ることはなかったが、おそらくは家族の次に一緒にいた仲間だろう。平日の部活も。休日も。部活がない日もたまには市民体育館に行って練習をした。クラスの友達と遊ぶこともせず、バドミントンと勉強だけに費やしてきた。それだけ費やしてなお、今までいけなかったのかと思うとまた気分が沈んできたが、遊佐の言葉に引き戻された。


「朝比奈は無意識に右足をかばってるから、左足に負担をかけるんだよきっと。だから、テーピングしておけば気持ち的にも楽になるかなと思ってさ」

「なるほどね……」


 靴下を半分下ろされて足首にテーピングを巻かれる。それがジャージのポケットに入っていたということは、元々どこかで美緒にテーピングをするつもりだったのだろう。


(恋愛感情かはまだ分からないけど……付き合うとしたら、遊佐以外いないのかもね)


 ぼんやりとその考えが思い浮かんだ時。

 過去からの悲鳴が響いた。


『絶対に会いに行くから!』


 瞬間、体を硬直させる。遊佐もいきなりの動きに驚いて、テーピングを中断して美緒に視線を向けた。


「大丈夫か? 痛かった?」

「べ……別に。なんでも……ない……ありがと。続けてくれる?」


 冷や汗をかき、途切れ途切れで言う美緒は明らかに様子がおかしかったが、遊佐は手早くテーピングの残りを片づけると靴下まで戻す。それから立ち上がって、背を向けた。


「先に行ってるからな。もう少し休んだからこいよ。遅いと先生とか高山達が心配するぞ」

「うん。分かった」


 軽く手を拭って遊佐を送り出す。その背が壁で見えなくなったところで、美緒は自分の後ろの壁に寄りかかった。

 急な記憶の揺り戻し。目を閉じて、瞼の裏に広がるのは、一組の男女の姿。

 しかし、格好も、顔も、輪郭がぼやけて形にならない。ただそこに、自分が心から大切にしていた二人が立っているとだけ分かる。


(もう三年ちょっと、か)


 小学校六年の三月に離れて、今年で四年目。会いに行くには遠い距離。更に携帯電話での写真のやりとりも、ここ一年は全くしていない。最後にもらった写真もほぼ同じ時間見ていなかった。

 バドミントンや今の仲間達との生活で、更新されない過去は徐々に記憶の片隅に追いやられていく。それを自覚したのはいつだったかと、美緒は振り返る。

 入学当初からしばらくの間は鮮明な記憶と共にバドミントンを強くなろうとだけしていた。友達も何もいらず、ただバドミントンだけがあればいい。そう思って日々を過ごしていた。

 環境がよかったのか、入学当初から部の中では二番目に強く、一番強い人は遙かに上の実力だったため、たくさんのものを盗もうと挑み続けた。


(多分、あの時から、かな)


 転機は三年生の実力者達が引退した後。一度、美緒はバドミントン部を辞めようとしたことがあった。自分が最も強くなってしまい、更に大きな成長の見込みがなくなったため、中学での全国は諦めて高校から全国に出ようと、部から離れてどこかのクラブで練習をさせてもらおうと考えていた。

 それを止めたのが、当時二年生で部を引き継いだ部長だった。自分は部に必要だと、必死になって賭を挑んできた。賭に美緒は破れて部に残り、皆と共に強くなる道を選んだ。

 その結果が、今に繋がっている。


(みんなといなければ……バドミントン部にいなければ。中三で全国を狙えなかったんだよね)


 バドミントンとだけ一緒にいた時よりも、たくさんのことを美緒は考えた。他の部員達のレベルアップが自分のそれに直結することから、急いで考えなければいけなかった。ただ自分が上手くなるよりも、他人をレベルアップさせる方が難しい。試行錯誤していく中で仲間達が上手くなっていくのが、まるで自分のことのように嬉しくなっていく。最初は戸惑っていたその気持ちも、年を経て二年のインターミドルの後に部を引き継いだ時には普通の感情になっていた。

 その戸惑いは、心の奥でいつも美緒にちくりとした痛みを与える。

 塗り返られていく過去はとても大切なものだったはず。

 大切なものならば、永遠に残るはず。

 なのに、それが掠れていく。消えていく。

 残ったのは交わした『約束』だけ。


(大丈夫……遊佐がマッサージしてくれた。テーピングまでしてくれた。あとは、私が勝つだけ)


 深呼吸を繰り返し、徐々に心臓を宥めていく。

 だが、鼓動は収まらない。

 いつもは少しだけの痛みが、いつまでも続いていく。

 勝ち進む度に。約束に近づくほどに、肥大化した過去が美緒を覆っていく。


「大丈夫……大丈夫だから」


 いつしか声が出ていることにも、美緒は気づかない。

 準決勝は、刻一刻と近づいてきていた。

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