第二話【チャンス】

「朝比奈」


 自分の頭の上から降りてくる声に、美緒は顔を上げる。

 視線の先には誰よりも見なれた、遊佐修平がいた。同じ中学三年生だというのに自分よりもかなり高い身長に少し美緒は嫉妬してしまう。中学一年当初は同じくらいの身長だったが、160センチで止まってしまった美緒と違って、遊佐は180に届こうとしている。更には、まだ成長は止まっていないようだった。女子の中では身長が高めの美緒だったが、あと10センチ高くなって170センチにもなれば、大分バドミントンのプレイにも幅が出るのではないかと思ったものだ。一緒に練習している間に身長を吸い取られたのではないかと、割と真面目に妬んだこともある。

 見上げて視界に入った顔は、緊張で赤らんでいた。今まで試合でも見せたことがないような表情で美緒を見てくる遊佐。自然と美緒も体が硬直する。


「あのな、俺と付き合って欲しい」


 緊張を見せている割には、言葉はスムーズに出てきた。その意味を分からないほど美緒も空気を読まないわけではない。ただ、正面から認めるのが嫌で「練習に?」ととぼけようとする。それも、遊佐の言葉の方が早く、タイミングを消された。


「お前のこと、好きなんだ。女の子として」


 遊佐の言葉をかわすことができない。バドミントンでも相手の嫌なところを的確に、素早く突いていくのが遊佐は特に上手い。まさか他の分野でも威力を発揮するとは、と美緒はため息をつき、遊佐は大げさに慌てた。ちょうど周囲には誰もおらず、返答をするしか道はなさそう。美緒は決めて、今、心の中にある素直な気持ちを告げた。


「ありがと。付き合うかどうかは……試合終わったらにして」


 遊佐にとっては告白をしたことや、礼を言われたことが嬉しいのか、返事は後で、で納得したらしく、満面の笑みを見せて去っていく。

 目の前にある浴場への暖簾を潜って。

 一人、浴場の入口に取り残された形になる美緒は、もう一度ため息をつくと男湯と女湯を隔てる壁を軽く殴る。


(タイミング、悪すぎでしょ)


 怒っても仕方がない思いが渦巻いたままで、美緒は浴場へと入っていった。


 

 * * *



(ほんと、遊佐のバドミントン馬鹿……)


 昨日の出来事を思い出して、美緒は顔が熱くなる。告白されたことでの照れが入っていたが、ほとんどは現状を把握していない遊佐への怒りだ。美緒が全国を目指す理由はどうあれ今日から試合だというのに、自分の告白で美緒が動揺して調子を崩す可能性を考えたことがないのかと。


(多分……何も考えてないよね)


 自分で答えを出し、ため息を吐く。

 遊佐にとってはバドミントン以外は飾りのところがある。何度となく一緒に練習をしたが、夏場も冬場も、平日も休日も中学指定のジャージを着ていた。美緒は記憶をたどって、一度も私服を見たことがないことに気づき、何度目になるか分からないため息をつく。

 浅葉中は制服だが、指定のジャージならば着て登校してもよい。一時間目に体育があると着替えるのが面倒とジャージ登校も珍しくない。それでも制服は別に持ってきていて体育の後には着替えていたものだが、遊佐は最初から最後までジャージ。中に着たシャツを替えるだけ。制服を着ていたのは終業式など制服を着てくるように言われた日だけだ。

 それだけ自分にも周囲の視線も気にせずに、着替える時間も食事をする時間も削ってバドミントンに捧げてきた男が、自分を好きになって告白してくる。その変化についていけない。

 何にせよ、試合が終わった後にちゃんと考えて返事をするつもりだった美緒だが、それまでの間にあとどれだけ遊佐と会話するのか。それが一番頭が痛い。当人の姿を目にすることがなければ最初から排除して試合に臨みやすい。だが、自分達の地区からの代表は四人しかいないのだから一緒にいることが多くなるのは必然だ。

 今の、美緒の状況のように。


「朝比奈。食べるかこれ。高山がくれたんだ」


 隣に座った遊佐がクッキーを差し出してくる。視線を遊佐から更に横に移すと、通路を挟んで隣に座っている高山ゆかりの姿が見えた。バスで会場までは二十分ほどかかる。同じホテルに泊まっていた美緒達四人は、バドミントン協会が用意したマイクロバスに乗っていた。いくつかのホテルを回って美緒達のような地区の代表を乗せて、目的地に向かう。既に見たことのある顔、ない顔が何人も見えている。

 その状況でバラけて乗るわけにもいかず、更には同じ学校同士での割り当てに自然と落ち着いた。


「ありがと、高山」


 高山は笑って手を振る。美緒達とは別の中学で、パートナーの栄塚美保と共にダブルスの地区三位で全道大会に出場してきた。

 まず自分達の市内とその周囲を含んだ地区の予選で削られ、更に学区の異なる市を含んだ、より大きな全地区予選で人数が削られる。二度の振るい分けを抜けてきただけに、他の中学というのは関係なく仲間意識が自然と出来上がっていた。

 特に美緒達以外の代表は以前から強豪だった滝河二中と翔栄中という二校で占められているため、自分達が異端というような状況であり、仲が良くなるのも当たり前のことなのかもしれない。


(そんな時なのに気まずくなるようなことして……遊佐の馬鹿)


 また遊佐への怒りを確認しつつ、窓から外を見る。

 朝の八時を回っており、太陽も日差しを徐々に強くする。北の大地の更に北にいるため、地元よりは日光は弱そうだった。バドミントンは室内競技であり、競技の性質上、空調が使えない。それだけに室温が高くなる。更に外の気温が高ければひどい状態になるのは明白だった。だからこそ、あまり日中でも気温があがらない場所なのはありがたい。


「いやー、今日も明日も明後日も気持ちよく試合できそうだな。朝比奈」

「……そうだね」


 遊佐の言葉に、多少緊張が感じ取れる。どうやらタイミングが悪かったとは理解しているらしい。普段もあまり多くは話さず、たいていは遊佐から来るバドミントンに関係した話題に相づちを打ったりアドバイスや質問などをしていたが、今日は朝から挨拶しただけで気のない返事しかしてない。美緒が不機嫌なことに気づいただけかもしれないが、それならそれで話しかけてこないだろうと、美緒は放っておいた。

 遊佐はそれから何度か話しかけようとする素振りを見せており、美緒も外を見ながらそれに気づいていた。しかし分からない振りをしている内に、遊佐は諦めて腕を組んで目を閉じた。どうしようもなくなり眠るしかなくなった遊佐の様子を横目で見て、美緒は面白くなって微笑む。気が利かないバドミントン馬鹿。それだけに微笑ましい。自分と同年代というよりは弟を見るような心地で美緒は遊佐を視界に入れる。


(背丈とか、顔は男らしいんだけどね)


 窓枠に器用に頬杖を突いて外を見るのを再開する。だが、それも長くは続かなかった。

 視線を真横からもう少し前に移すと、先に体育館が見える。

 明らかに今回の会場。自分達の戦いの場。

 美緒にとっては全国へと挑む最後のチャンス。


(そう。最後のチャンス。中学での)


 体が震え、喉が渇く。今から緊張をしていては持たない。そう思って美緒は高山からもらったクッキーを口に入れた。乾いた喉には張り付いて少し食べづらかったが、それを克服しようと試行錯誤することでそれまでの緊張がどこかに逃げていく。やがてバスは体育館の傍の信号まできたところで、運転手が会場にもうすぐ着くことをアナウンスした。


「いよいよか」


 遊佐の目が開く。美緒の目に映るのは、これから始まる試合に胸を高鳴らせる、いつもの遊佐の姿。先ほどまで、告白の後遺症でどこかよそよそしかった遊佐とは異なる。男子にも大事だろう告白のことを忘れてしまうほどに集中する。


「そうだね。頑張ろう」


 今のモードの遊佐には何も遠慮することはない。美緒は素直に頑張ろうと告げる。遊佐も一つ頷いて、バスのフロントからもう見えている体育館を見据えていた。

 バスは青信号の下を通り、体育館に着く。

 扉が開くと共に乗客がゆっくりと順番に降りていった。その流れに逆らわずに降りた美緒達は少し入り口から離れて、まず背筋を伸ばす。遊佐は特に唸り声をあげた。180に届く身長とそれに見合った体格はマイクロバスの席の小ささには窮屈だったらしい。ようやく解放された体からは試合への闘志が沸き上がっている。


「あんまり最初から気負いすぎるなよ」


 一番最後に降りてきた引率者が遊佐に告げる。浅葉中バドミントン部顧問――庄司は高山と栄塚含めた四人の引率としてこの場所に立っていた。


「これから三日間。戦いきれるようにしないとな」

「はい!」


 遊佐はいきなりの大声で返答する。美緒も高山、栄塚も耳を押さえるほどだ。庄司は慣れているのか嘆息して「でかい声出すな」と注意する。それから庄司を先頭に体育館へと入った。

 全道大会ともなると、予め自分達の待機スペースが決められている。これが地区予選や全地区予選ともなると早いもの勝ちで陣地を奪い合う。出場校によって極端に人数が分かれることからの措置だろう。

 庄司含めて五人は、同じ全地区代表である滝河二中の陣地の隣に座った。団体はダブルス二組とシングルス一つ。合計五人。控えも含めればもう少し人数がいて、にぎやかになる。絶対勝つと意気込む滝河二中のメンバーを横目で見つつ、美緒達は早速準備に入った。

 初日はシングルスメイン。二日目はダブルスメイン。三日目は両方でのベスト8から優勝者まで決めるという順番で試合は行われる。その意味では高山と栄塚の出番は次の日だが、線審には最低一人必要のため、二人の初日はそのサポートだ。美緒も遊佐も実績を考えれば初日で敗退は考えづらいため、助力が必要になるだろう。


(去年も、ここにいたな。なんとか戻ってこれた)


 中学二年時のインターミドル。

 開催場所も出場順位も異なるが、美緒は全道大会に出場していた。ベスト4をかけた試合で、当時第一シードの一学年上の選手とぶつかり、その実力差に敵わず負けた。

 中学入学当時から全国で一位、二位と上位であり続けた存在で、当時の美緒の実力では勝つために穿つ小さな穴もない壁だった。結局、その年のインターミドルはその選手が制覇したため、後から仕方がないと慰められたものだった。


(今の私は、強くなった。一年前よりも。順位も三位から一位に上がった。勝てなかった人たちはもういない。十分、勝てる)


 自分は勝てると言い聞かせる。

 実際、美緒達の学年が中心となってからは、美緒は北海道内でトップレベルのプレイヤーとなった。二つ上、一つ上の怪物もいなくなった今、順当にいけば美緒に勝てるプレイヤーはそうはいない。それでも美緒の不安が消えなかったのは、癖になっている右足首の怪我だ。

 一年前のインターミドルが終わり、新たな世代が中心となったジュニア大会。美緒が北海道で最も強いならば、全国大会に進めるはずだった。しかし、ジュニア全道予選は三位に終わり、全国大会出場の条件である二位以内をクリアできなかった。準決勝で試合中に足首が痛み、上手く動けなかったために負けてしまったのだ。


(全国が絡むと痛み出すんだから……悔しいな)


 中学一年時はインターミドル地区予選の出場が決まった直後に、美緒は右足首を怪我して出場を断念した。

 それから何度か、気をつけていてもどうしても痛めてしまい、今に至る。練習の時ならばまだしも、試合直前や試合中に痛めるとどうしようもない。何度も味わってきた苦い思いを払拭すべく、美緒は両頬を包み込むように張る。


(足の痛みになんて負けてたまるか!)


 頬の痛みが思ったよりも痛く、美緒は涙目になってしまう。考えごとをしている内に庄司の姿はなくなり、他三人は屈伸するなど軽いストレッチを始めていた。美緒も慌てて立ち上がり胸を逸らすなどしてバスで固まった体をほぐしていく。少し時間が経ったところで庄司が帰ってくると今日から三日間のプログラムを四人に手渡した。美緒は受け取ってすぐに女子シングルスを確認する。

 自分の位置は第三シード。ジュニア予選の成績が反映されているのだろう。

 第一シードも第二シードも、別の機会に勝ったことのある選手。ノーシードでも今まで出場してきた全道大会で要注意と思った選手を一通り確認し終えて、美緒はまたため息をついた。


(本当に、運がないだけなのかも)


 順当に行けば全国に行ける。そんな考えがぶり返す。

 どうしても大事な時に足の痛みが自分を引っ張る。今回も繰り返すのではないかと不安になる。


「どうした? そんなため息ついて」


 庄司が美緒のため息に気づいて声をかける。美緒は素直に「順当に行けば全国にいける」と思っていたことを告げた。すると庄司は「なるほど」と一度納得した後で少しだけ厳しい声で美緒を諭す。


「そうかもしれないな。だが、朝比奈は勝てない。それだけだ。順当にいかせる実力がないからだ。油断するなよ。相手の選手だけじゃなく、自分の体もまたライバルだ」

「……最後に自分に負けてるから勝てないってことですか?」

「本当のところは朝比奈が見つけるんだ」


 庄司がそう言ったところでアナウンスが鳴る。全道大会の開会式。これから三日間、全国に向けて選手達が自分の全てを賭けて挑む。

 遊佐達が先にフロアへと向かい、美緒も追いかけようとした。その背中に庄司が声をかける。


「いいか。忘れるな。ここには、お前が順当に勝てる相手は、この会場には一人もいない」


 その言葉に自分がどれだけ慢心していたのかと美緒は気づく。庄司は美緒自身に言った意味を噛みしめて美緒は「分かりました」と庄司に答えてから遊佐達の後を追った。

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