風の辿り着く場所

紅月赤哉

本編

第一話【夢】

 朝比奈美緒が目を開いて最初に思ったのは、自分を取り巻く景色がぐにゃりと歪んでいることだった。自分の姿を見下ろすと、いつも通りの自分がいる。どこも欠けていなくて、不確かでもない。同じ歳の女子より少し小さい胸。代わりに引き締まった、スポーツに向いた身体。

 寝巻き代わりにしている学校のジャージと白いTシャツという、飾り気のない姿。

 上から下まで今の朝比奈美緒だ。

 そこまで確認できて、美緒はこれが夢だと気がついた。自分は薄暗いぐにゃりとしたところに立っている。

 目の前には大きな鏡。そこには自分が映っていた。鏡の中にいる自分は、今よりも幼い。栗色の髪の毛は肩の後ろまで伸びた今より短く、肩口よりも短いショートカット。更には、刺々しい雰囲気を醸し出していた。その雰囲気を出している意味を美緒は覚えている。中学入学から今までの間にほぼ消えていたが、当初は周りに壁を作っていた。

 最初は隠していたけれども、ある時を境に前面に押し出すことになってしまい、一瞬即発の事態になったこともある。

 しかし、その出来事が徐々に壁を消すきっかけとなった。


(そうだ……これは……中一の、頃)


 小学校卒業と同時に神奈川から北海道にある街に引っ越してきた。誰も友達がいない状態からのスタートだったが、強い意志で目指す目標があったために一人でも全く気にならなかった。

 鏡の中の自分は当時の部長と向き合っている。特別な会話を交わしたわけでもなく、まだ心を開かずに去っていく。今の自分を作る転換点になった記憶が見えていた。

 そこで鏡面が揺らぎ、今度は別の映像が映った。

 更にほんの少しだけ若い自分。涙で顔をくしゃくしゃにしている。周りにはなにも映らず、ただ過去の自分が必死に何かをこらえている様だけが映し出された。それを鏡を通して見ている自分は、過去の自分と同じなのか。それくらいの違和感を美緒は覚えていた。


『……ぃに……な……る……』


 何かを過去の自分が言う。それは嗚咽によるものより、ノイズが入って美緒の耳には届かない。何度も何度も少女は繰り返し、同じ言葉を言っていた。

 そこから徐々に徐々にはっきりとしていく言葉。ノイズ混じりでも美緒の耳にそれは届く。


『絶対に、全国大会に出る。だから――』


 言葉の続きを聞く前に、美緒の意識は急に闇に飲み込まれた。



 * * *



「……ぁ」


 見上げると白い天井がそこにあった。美緒はベッドの上に横になったまま、白い天井から少しずつ視線を周りに移す。明かりの光量は少な目に設定されている。どうやら寝る前に自分で調整したらしい。自分がうたた寝をしていたことはすぐに思いだしたが、まだ頭がぼんやりとしていた。


(なんか夢見てた気がするけど……なんだっけ)


 夢を見たことは覚えていたが、見た内容はもう覚えていなかった。何か懐かしいものだったことだけは引っかかっている。目に違和感があり指先で触れてみると、かすかに濡れていた。涙が出るようなことだったかと少し考えてみるも、やはり思い出せず、美緒は体を起こして背伸びをする。そして今の状況を一つ一つ確認していった。

 自分は誰か。

 朝比奈美緒。浅葉中バドミントン部三年生。

 ここはどこか。

 全道大会の開催地。そこのホテルの一室。

 どうしてここにいるのか。

 明日からバドミントンの全道大会に出場するから。


(あれ……あと、なんだっけ)


 部屋に備え付けられた置時計の時刻を見ると夜十時を回ろうとしていた。意識を失ったのは、記憶が正しければ九時頃だったため、約一時間寝ていたことになる。寝る前に何かがあった気がしたが、まだ覚醒しきっていないのか思い出せてはいない。学校指定のジャージとTシャツに着替えていたところを見ると、このまま寝ても良いように着ていたに違いなかった。

 その時、枕元に置いてあったスマートフォンが震えた。マナーモードにしていたために震えるだけだが、ベッドに伝わる振動音に気づいて手に取ると、画面には部活の仲間の名前。通話モードにして耳元に当てると、大声が美緒の耳を貫いた。


『あー! やっと通じた! 美緒、いままでどうしてたの!? やっぱり……OKしちゃったの!? 遂に!』

「……えーと、あゆ。何が」


 唐突に大声を上げてきた通話相手に頭が痛くなる。言葉から察するに、起きてから忘れている何かに関することだろうと推測して、会話のとっかかりを掴むために問い返した。すると更に大きな声でまくし立ててきた。


『何がって! 美緒からメール来てから散々メールや電話したのにぜんぜん繋がんないんだもん。やっぱりスマホを部屋に置いて出かけてたんでしょ!』

「……えーと、ごめん。今、寝て起きたんだけど……寝る前の記憶がいまいち曖昧なんだ。長旅で疲れたからかもだけど……」


 だから大きな声を出さないでほしい、と暗に言ってみたが、あゆ――宮越歩(みやこしあゆむ)はそんな言葉の裏を読むことなく「えー!」と驚いて声を出す。その時にはすでに美緒は耳を話していて、画面に映る名前を真正面から見ながらマイクに向けて話していた。


「だから。六時間も電車に揺られてたら、眠くなるって。で、私、何メールしたんだっけ」

『……もー。とぼけてるようじゃないから言うけど……遊佐に告白されたってメールしてきたじゃない。忘れたってことは嘘だったの?』


 宮越の言葉を脳内でゆっくりと繰り返す。

 ユサニコクハクサレタ。

 遊佐に告白された。

 脳内で何度か呟くと、霧がかかっていたところが完全に晴れた。本来なら強烈に残っていてもおかしくない出来事。忘れていたのは、思い出したくなかったからかもしれない。美緒は胸の奥にモヤモヤとしたものが溜まっていくように感じる。


「あー。そうだよ。本当だよ。嘘じゃないってば」

『そう? 分かった。信じてあげましょう。それにしてもあの遊佐がねぇ』


 電話の向こうの宮越は、信じられないものを見た時のような雰囲気を醸し出しつつ言う。それは美緒も同じ気持ちだったので特に言葉は挟まないでおく。

 美緒の所属する浅葉中バドミントン部から全道大会に出場しているのは二人だ。

 女子の朝比奈美緒と男子の遊佐修平。共にシングルスの選手として、自分達の地区の予選から更に一つ大きな地区大会を経て、ここまで来た。

 一年の時から既に頭角を現していた二人は周囲の部員の中でも頭一つ飛び抜けており、部活で試合形式での練習もよく二人で行った。お互いに強くなりたいという欲求から、休日も市民体育館で打ち合っていたほどだ。

 家族を除けば、最も同じ時間を共有した異性と言えるだろう。そのために彼の中で恋愛感情が芽生えたのかと、目覚めた頭が回転して考えていた。


「信じられないけどね。バドミントン馬鹿だと思ってたのに」


 尊敬の念を込めて美緒は言う。

 単純に人間として、美緒は遊佐のことを尊敬していた。バドミントンのことを朝から晩まで考えて集中する。その探求心、熱意は傍にいてとても心地よかった。いくら強くなるためとは言え、人間として苦手な相手と一緒にいることは美緒にも出来ない。他の部員もやや呆れてバドミントン馬鹿と呼ぶが、美緒はその称号を呼ぶ度に何となく嬉しく思っていた。

 そのように愛すべきバドミントン馬鹿が、自身のことを恋愛対象として見ていて、付き合ってほしいと告白された。それはあまりに非現実的で、疲れも相まって上手く考えられなかった美緒は女子で一番仲がいい宮越へとメールをしたのだった。その後、睡魔に耐え切れず寝てしまったというのが、今までの流れ。


『で、付き合うの?』

「んー。試合が終わった後で言うって返しておいた」

『即答で断るんじゃないんだ』

「私ってそんなに冷たい?」

『一時間前に告白されたのに忘れるって冷たいと思うけど』


 宮越の返答に言い返せない。

 正確には二時間前。電車での長旅を終えてホテルに入り、食事を終えた。あとは地下にある浴場で疲れをほぐして早めに寝る。その流れに従って美緒は浴場へと向かった。その途中で遊佐と出会い、明日への意気込みなど何気ない会話を続けて浴場前に着いたところで、遊佐の口から「好きなんだ。付き合ってほしい」と発せられた。

 その時の記憶が完全によみがえると頬が熱くなる。全く恋愛対象として見ていなかった相手だが、ストレートに好意を寄せられると照れる。美緒も恋愛にうつつを抜かさずバドミントンだけを見てきたとはいえ、年頃の女子。周りの恋愛話は嫌でも耳に入ってくるし、多少は羨ましいとも思っていた。

 しばらく会話が空いたことで宮越は美緒へと言う。


『なーに、美緒。思い出してる?』

「そんなこと……まあ、あるけど。でも人間として好きだけど異性としてはどうかな、って感じだから。すぐ断るってことはないかな」

『美緒もまんざらでもないんだ』

「私だって一応、女子中学生だし。あゆみたいに彼氏とか欲しいよ」

『ははっ』


 スマートフォンの先にいる宮越の笑い声に自然と美緒は頬が緩む。

 会話のキャッチボールが楽しいと思えるようになったのはいつだったか、美緒は電話の中でも振り返る。

 北海道に転校してきて、友達は誰もいなかった。その当初はバドミントンで強くなり、全国大会に出ることだけを目標にしてきたため、寂しくはなかった。むしろ、自分の練習の時間を取られてしまう邪魔なものとさえ思っていた。しかし、先輩達や教師と触れ合ううちに、バドミントンの強さ以外の大事なことが見えるようになっていった。その中で、特に宮越は同じ学年のバドミントン部員として、いろいろなことを支えて貰っていた。美緒のわがままを誰よりも受け止めてくれた友人。一番の友人と言って良い存在だ。


『ま、それはまた聞くとして。もう少しだね。全国まで』


 宮越の言葉のトーンが一つ下がる。美緒もベッドに寝転がり、天井を見上げて、また右耳にスマートフォンを近づけた。


「うん。あゆ達がサポートしてくれたおかげ。バドミントンだけに集中させてくれたから、私はここまでこれたんだと思う」

『部長の仕事は大変だったわよぉ。帰ってきたら桃華堂のイチゴパフェよろしくぅ』

「はいはい」


 わざとらしい猫撫で声で好物のイチゴパフェを要求してくる宮越。部活の帰りに寄った喫茶店で目の前で食べているのを何度も見ていた。よく飽きないものだと美緒は思い返す。

 代々浅葉中のバドミントン部の部長や副部長といった主要な役職は、部で最も強い選手が就くことになっていた。だが、美緒の代は皆が「美緒にバドミントンだけをやらせてあげたい」という意志の下で役職を分けあった。部の運営などの仕事を皆が分担して行ったおかげで、美緒は三年になってからバドミントンだけに集中し、実力を上げてここまで来ることが出来たのだ。感謝してもしきれないこと。

 それだけに、美緒の心には痛みがずっと残ったままになっている。

 その『痛み』についてタイミングよく宮越から言葉が出てきた。


『結局、教えてくれなかったけどね。全国に行きたい理由、今度帰ったら教えてね』

「うん……あ、そうだ」


 後ろめたい気持ちを無理やりかき消すようにして話題を変える。

 美緒は立ち上がり、ラケットバッグのところへと歩み寄った。片手で器用にジッパーを開けると、ピンク色の包装紙に包まれた四角い板のようなものが入っていた。電車に乗る前に見送りにきた部員達を代表して宮越が美緒に手渡したもの。移動中は控えて後で見ようと決めていたが、移動疲れからすっかり忘れていた。


「ごめんね。出るときに貰ったの、今から開けてみるから」

『あ、ほんと~。力作だよ』


 電話口の宮越はとても嬉しそうな声音ではしゃいでいる。片手で包装紙を繋ぎ止めているセロテープを剥がし、ゆっくりと紙を開くと色紙が入っていた。中には中央に「行けるぞ! 全国!」と書かれ、その言葉の周りには部員達のメッセージが数多く記してあった。女子だけではなく男子からもある。同じものを遊佐にも渡しているのを見ていたため、おそらくは遊佐のほうには女子からのメッセージがあるのだろう。


「いつこんなの書いてくれてたの……? 全然気づかなかった」

『美緒がその場にいない時を見計らってねぇ~』


 宮越はいたずらが成功した子供のような反応をする。それが悔しいやら嬉しいやら、美緒は自然と浮かぶ笑みと楽しい気持ちに身を委ねる。後でゆっくりメッセージ自体は読むとしてまずは全体を眺めようと視線を巡らせていくと、ある一点で止まった。


「……あゆ。これ……」

『あ、もしかして見つけた?』


 ありえないはずのもの。全く予想していなかったメッセージが書かれてあり、美緒は言葉を失った。


【夢を叶えてね! 寺坂知美】


 卒業した一つ上の先輩からのメッセージがそこにあった。他にも全員ではないが、既に高校に進んでいる部の先輩達からのメッセージが書かれていた。


「さすがに先輩は女子だけになったけど、何人か書いてくれたよ。先輩達にはいろいろ迷惑かけたからさぁ……こういうので一緒に応援してもらえたらって思ってたんだ」


 迷惑をかけたのなら自分が一番かけた、と言いかけて止めておく。自分が言っても嫌みになるかもしれないと。

 美緒が入部した時点で、当時の三年を除けば美緒が一番強かった。三年がインターミドルを終えて部から卒業した後は、当時の性格も相まって二年には生意気な、扱いづらい後輩だったろう。紆余曲折はあったとしても、そんな美緒を最後までちゃんと後輩として扱ってくれたのだ。

 寺坂知美、という文字を丁寧に指でなぞってから、呟くように言う。


「あゆ。ありがと。結構マジで感動してる」

『あはは。……あ、そろそろ寝た方がいいよね。長電話しちゃった』


 宮越の言葉に時計に目をやると起きてからほぼ一時間が過ぎていた。明日は少し早めに起きてストレッチなど体をほぐす予定だっただけに寝るにはギリギリのタイミングだ。


「じゃあ、切るね。ありがとね」

『いいよ~。試合も遊佐のこともいつでもメールで連絡してきて!』

「はいはい。おやすみ」

『おやすみ~』


 宮越が先に電話を切り、美緒はスマートフォンをベッドの横に置く。充電の為のケーブルを取り付けてから一度背伸びをし、ベッドに横たわった。仮眠をする前に既に歯磨きなど寝る準備はすませてある。後は明日を迎えるだけ。


「夢、か」


 前部長からの言葉。

 美緒の夢。それはつまり、全国大会に出ることを指している。

 最初から公言していたことは、いつしか夢として認識されているのだろう。同学年にも、きっと後輩にも。

 胸の奥にまた痛みが走る。

 中学一年から――正確には小学校六年の終わり頃から――全国大会出場を目指してきた。

 それは夢ではなく目標。目標というよりも約束。

 小学校六年生の美緒が交わした約束だ。

 そのために部の仲間達に迷惑をかけているのに、結局は理由を話していない。別に話す義務はないのだろう。だから周りも無理には聞いてこなかった。

 いつからだろうか、と美緒は思い返す。

 自分が過去に交わした約束が重荷になってきたのは。

 仲間達にそれを言わないことが辛くなってきたのは。

 隠す必要もなかったのかもしれない。しかし、言うには自分でも上手くまとめられなかった。自分が過ごし、経験してきた小学生時代を上手くまとめなければいけないし、更に名前のない思いもまた、説明しないといけない。自分の中にある感情を整理できず、整理する手間をバドミントンにかけてきた結果、罪悪感を胸に秘めることになった。

 更に問題なのは、約束もまた色あせてきたことだ。

 自分が泣いた日の記憶は、少し前ならば映像も声も鮮明に思い出せた。だが、徐々に映像に霞がかってぼやけていき、声もノイズが走って聞き取りづらくなっていった。代わりにすぐ浮かんでくるのは浅葉中バドミントン部で過ごした仲間達の顔や日々。

 変わっていく自分が、変わらない過去の自分を押しだしていく。必死で「変わらない自分」を繋ぎ止めるために、仲良くなってもどこかで仲間達に線を引いていたのかもしれない、と美緒は思い返す。


(駄目だ……今はもう、寝よう……あした……がんばろう……)


 一度、頭をリセットして美緒は目を閉じた。思考したことで脳が疲れたのか、急速に意識が闇に消えていく。

 朝比奈美緒。十五歳。

 最後のインターミドルへの挑戦が、始まる。

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