第15話 肺②

 肝臓だけで”これ”なのだから、他の臓器が揃ったらどんなに素晴らしいことになるだろう。



 誘拐犯・比良古賀肝太ひらこがかんたが最初に思ったのは、まずそんな類のことであった。

 この五年間、彼はずっと快楽殺人鬼に感謝していた。それは自分に臓器を提供してくれたことだけでなく、『生まれ変わらせてくれた』ことへの感謝だった。少なくとも彼は本気でそう信じていた。


 四十代で肝硬変を患い、医者に死を宣告されてからの数年間、比良古賀ひらこがは本当に生きた心地がしなかった。大好きなアルコールも油モノの食べ物も全て禁止され、精進料理のようなものを細々と食べていた毎日。病室に閉じこもりっぱなしで、外を出歩くこともなくなった。暗い部屋の中で一人、自分は一体何のために生きているのかと自問自答を繰り返している時に、は急に現れた。


 それが”左目”だった。

 

 突然現れた謎の人物に『自分の仲間になれ』と言われた時は流石さすが比良古賀ひらこがも面食らったが、”左目”が彼に提示した条件は実に魅力に溢れていた。比良古賀ひらこがの治療には、肝臓移植が不可欠であった。だが移植手術は臓器を待つ患者の『順番待ち』で溢れかえっていて、彼も医者から手術は二年先、三年先になると宣告されていた。『順番待ち』の間に亡くなった患者も少なくはない。

 ”左目”はそんな比良古賀ひらこがに対し、億を超える莫大な資金を用意するから海外で手術を受けて欲しい、と頼んできた。


「ただし、移植する肝臓二つはこちらで用意させていただく」

「…………」

「なぁに、怖がる必要はない。 ……と言っても、無理な話かもしれないが」


 ぽかんと口を半開きにし、言葉を失ったままでいた比良古賀ひらこがを前に、”左目”はさも可笑しそうにくっくっ、と嗤った。


「ちょっとした”実験”に付き合ってもらいたいだけなんだ。君にとっても、決して悪い話じゃないだろう?」

 ……後になって、”左目”の言っていた実験とは『臓器に宿された記憶』を患者に再現するなどと言う、どう考えても荒唐無稽なものだと知った。だが”実験”は無事成功した。言うまでもなく、比良古賀自身が術後今までにない衝動に駆られ、自分の中でもう一人別の誰かが暴れ回っているのを感じた。比良古賀には、が心地良かった。


 まるで獣じみた、ただただ本能に任せて突き動かされる”生きること”への衝動。

 貪るように肉を喰らい、赴くままに破壊したいと言う感情。


 今まで我慢の日々を強いられてきた比良古賀には、それがとても新鮮だった。

 自分は快楽殺人鬼よって病気を治すだけでなく、新たな人格を与えられ真にことができたのだ。


「……ってなあぁ! 分かったら大人しく心臓置いてけ!!」

「…………」


 暗がりの中で叫ぶ誘拐犯の話を、シュウはだがほとんど聞いていなかった。



 誘拐犯が人質解放の場所として指定したのは、郊外の古びた廃工場の一角だった。そこに、明智ヒカル一人で来いと名指しで指示があった。

「気をつけろよ」

「はい」

 シュウが姉に扮して工場に乗り込む前、猪本が神妙な顔をして彼に声をかけた。シュウはゆっくりと頷いた。彼にも分かっていた。逃走手段の用意など、何一つ指示されていない。つまり誘拐犯の目的は『ヒカルを殺せればそれでよし』と言う、およそ常人の理解できるものではなかった。


 なぜ誘拐犯はそこまで姉に固執するのか。

 班目京香の一件から、ヒカルシュウに隠しているような雰囲気だったが、それはシュウにとってそこまで重要ではなかった。


 ただ、姉の命が狙われていると言うこと。

 そして、自分が姉を守ると言うこと。

 それだけが、今のシュウにとって大事なことだった。


 それに人質が取られている以上、無下にする訳にも行かない。そこでシュウは女装し、姉の代わりに指定された廃工場に出向くことに決めた。


「…………」 

 シュウは25Mメートルプールくらいの大きさの廃工場の中を素早く見渡した。何に使うかも分からない機械が、ごちゃごちゃとそこら中に並んでいる。かくれんぼするにはもってこいの場所だ。ところどころ天井には穴が空き、隙間からどんよりとした雨雲に覆われた空模様が見え隠れしていた。


 シュウは視界の端に、四十代くらいのラフな格好の中年男性と、制服姿の少女を捉えた。恐らくあれが犯人と人質だろう。犯人は軽く迷路になった工場の一番奥に陣取って、出刃包丁を人質の首筋に当てがっていた。人質は手錠をかけられた両腕を天井に掲げ、目隠しをされたままブルブルと小刻みに震えていた。その横で下卑げびた笑みを浮かべる犯人と向かい合い、シュウはゴクリと生唾を飲み込んだ。


 工場の周りにはすでに大量の警察官が配置されている。突入のタイミングは、人質の安全が確保できてからと決められていた。


「大人しくしろォ! 人質がどうなってもいいのかぁ!?」

「…………」

 誘拐犯がおチャラけた調子でそう叫ぶのを、シュウは無表情のままじっと押し黙って聞いていた。犯人の右手に握られた刃物が、時折反射してキラリと光った。

「くく……分かる。俺には分かるぞお……!」

 誘拐犯が嬉しそうに舌なめずりした。

? アイツから、臓器をもらった。お前と俺は、匂いがする……」

「悪いけど……」

 シュウがやれやれとため息をつき、『探偵コート』の胸ポケットに手を突っ込んだ。誘拐犯の顔に一気に緊張が走った。男は乱暴に人質の胸ぐらを掴み叫んだ。


「オイ、動くな! テメェ、状況がちゃんと分かってんのか!?」

「あなたと一緒にしないでくれますか?」


 シュウはそう呟くと、胸ポケットから取り出した煙幕を思いっきり誘拐犯に向けて投げつけた。


□□□


「煙幕か!?」


 その様子をモニターで見守っていた老人が、唸り声を上げた。瞬く間に煙に包まれていく映像を前に、老人はずり落ちた眼鏡を右手で直し、急いでスマホを手に取った。相手が通話に出ると、老人は上ずった声で一気に捲し立てた。


「”膵臓”か? マズイ、”肝臓”がやられた。見破られたかもしれない」

「ダサいコードネームだなァ、オイ」

「!?」


 突然後ろから声をかけられ、老人は急いで振り返った。すると、そこには先ほど映像に映っていたはずの、胸にサラシを巻いた明智ヒカルの姿があった。ヒカルはモニター室の扉に背中を預けながら、腕を組み不敵な笑みを浮かべていた。老人は椅子に座ったまま、呆然とした顔でヒカルを見つめた。


「よお」

「どうしてここが……」

「おかしいと思ったんだよ、話を聞いた時。誘拐されたにしちゃあ……”ショッピングモールで買い物中に襲われた”のに、監視カメラにはその様子が映ってない。そんなことがあり得るか? このご時世に、今時一人一台はカメラ持ってそこら中で振り回してるような時代によォ」

 ヒカルがそう言って老人の手にしていたスマホを指差した。言葉を失っている老人に、ヒカルはゆっくりと部屋の中に入ってきた。


「それでなくても商業施設は監視カメラでいっぱいだ。被害者自身が協力して、積極的にカメラに映らないようにでもしなきゃ……今回の事件は成り立たねえ」

 老人の視線が一瞬出口に泳ぐのを、ヒカルは見逃さなかった。

「『狂言誘拐』だ。でっち上げだよ。人質の佐織むすめさんは犯人と結託して、今回の誘拐騒ぎを企てた。そうだろ? 父親の、池谷轍さん」

「!」


 ヒカルの言葉に、池谷が顔を強張らせた。それからヒカルのズボンのポケットから突き出ていた警棒をじっと見つめた。


「屋敷の者は……」

「安心しろ。全員無事だ」

 すると、扉の向こうからヌッと巨大な影が現れ、猪本がゆっくりと姿を現した。猪本の後ろには大量の警官たちがずらりと並び、資産家・池谷家の屋敷の地下室はあっという間に人で埋め尽くされてしまった。池谷は一度真っ白になってしまったモニターを振り返り、それから観念したように握り締めていたスマホを下ろした。


「お前が”膵臓”と呼んでいた、屋敷の使用人も逮捕した。自家用ヘリコプターで、後で誘拐犯を迎えに行く予定だったのか? お生憎だったな」

「…………」

「さあ、話してもらおうか」

 猪本ががっくりと項垂れる池谷の前に立ちふさがり、静かに唸った。

「お前は、お前らは何者だ? なぜ明智くんの心臓を狙っていた? なぜこんな回りくどいことを……」

「…………」


 池谷は項垂れたまま首をもたげヒカルを見上げた。全員が黙って見守る中で、池谷はやがてポツリと切り出した。

「復讐だよ」

 池谷の毒々しい目が、ヒカルを貫いた。

「俺は、俺たち家族は……五年前、快楽殺人鬼・に妻の命を奪われたんだ!」


□□□


「クソ……ッ!」

 白煙スモークに包まれた後、比良古賀ひらこがは防戦一方を強いられていた。まず初撃で下から思いっきり右腕を蹴り上げられ、持っていた凶器を手放さざるを得なかった。それから頭部、首筋、みぞおち、肝臓、金的……と、相手は寸分の狂いもなく急所を狙って特殊警棒を振り回してきた。日頃の運動不足が祟ったのか、比良古賀ひらこがは為す術もなくその場に崩れ落ちた。


「て、テメェ……なんでそんなに強いんだッ!?」

「あなたが弱すぎるだけじゃないですか?」

 倒れ込む比良古賀の背中にのしかかり、シュウは呆れたようにポツリと言葉を零した。比良古賀ひらこがが気絶したことを確認し、ゆっくりと顔を上げたところで、

「!」

 シュウは先ほどまで犯人の隣で縛られていたはずの、人質の姿がいなくなっていることに気がついた。


「まさか……」

 急いで『突入可能』を知らせるボタンを押そうとしたシュウの、その肩を一瞬熱いものが貫いて行った。思わず手のひらから離れたボタンは、カラカラと音を立てて床を転がった。

「ッ!?」

 後を追うようにすぐさま襲ってきた激痛に、シュウは膝をついた。見ると、肩口からどろりと生暖かい血が流れ出してきていた。自分が『撃たれた』のだと気がつくまでに、数秒かかった。


「”心臓”……ではないな」

「!」

 背中から冷たい声が聞こえてきて、シュウは床にひれ伏しながらも、何とか力を振り絞りそちらを見た。

「整形でもしてるのか? よく似た顔だ。影武者か?」

「……ッ!」

 やがて白煙スモークが晴れ、だんだんと視界が鮮明クリアーになってきた。


 そこにいたのは、先ほどまで手足を縛られていたはずの少女だった。

 少女は手に持ったサイレンサー付きの小銃をくるくると弄びながら、積み上げられた機材の上に腰かけていた。少女は床を這いつくばるシュウの様子を興味深げに観察していた。少女は、少女の左目は、まるで違う生き物のようにピクピクと動き回ってシュウを睨んでいた。


「お前は誰だ?」


 オッドアイの少女が、無表情のまま静かな口調でシュウに尋ねた。

「お前こそ……ッ!」

 肩口から溢れてくる血を抑えながら、シュウもまた必死の形相で機材の上の少女を睨んだ。

「お前こそ誰だ……ッ!?」

?」

 シュウの問いかけに、制服姿の少女は自分の左目を指差し、ニコリともしないで答えた。


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