第10話 交換殺人
「ただいまァ……」
シュウが自宅の扉を開けた瞬間、彼の後頭部をガツンと殴る衝撃が襲った。
「うわッ!?」
彼は思わず前につんのめり、慌てて後ろを振り返った。玄関先、真っ暗な彼の足元に、昨日まではなかった巨大なタライが転がっている。シュウは面食らい、尻もちをついたまま呆然と玄関に転がるそれを見つめた。
「な……何?」
どうやら玄関の上に紐が括り付けられており、扉を開けると自動的に落ちてくる仕組みのようだった。身に覚えのないタライと落下装置を見上げながら、シュウはポカンと口を半開きにした。すると、
「ピッ」
と音がして、今度は床が後ろに動き始めた。
「な……何だッ!?」
いつの間にか、玄関先の狭い廊下にベルトコンベアのような板が敷かれてある。シュウは目を丸くした。トレーニングジムにある、ランニングマシンだろうか? 誰かがシュウの家の床を勝手に改造し、動く床を
「うわあぁッ!?」
明かりの点いたリビングへと到着すると、先ほどの玄関と同じように、天井に仕掛けられた大量のボレーボールやサッカーボールがシュウの元へと降ってきた。
「うぐぅ……!」
ボールの山に埋もれシュウが呆然としていると、視界の端によく見知った顔が映った。
「よぉ。おかえり」
「姉さん……!」
シュウはリビングにひっくり返ったまま、ニヤニヤと笑みを浮かべる姉のヒカルを見上げた。
「この程度の罠に引っかかっちまうだなんて、ちょっと探偵として用心が足りないんじゃネエの?
「来てたんだ……」
炬燵に潜り込んでモグモグと蜜柑を平らげる姉を見て、シュウはようやく安堵のため息をついた。リビングの隅に置かれた小型のテレビから、華やかな音楽とともにドッと笑い声が上がった。アパートを借りて一人暮らしを始めたシュウの元に、ヒカルが遊びに来ていたのだ。
「言ってよ!」
「ちょっと驚かせてやろうと思ってな」
「驚くなんてモンじゃないよ。自宅に帰ったらいきなりタライやらボールが降って来て。挙句床が全自動に変わってるだなんて、用心してても絶対思いつかないよ」
「ちょっと機械に強い知り合いがいてなァ」
ヒカルはいそいそと炬燵から出て来て、呆れた表情を浮かべる弟に這い寄った。
「ほれ。蜜柑食え」
「むぐ……もごもご……ゲホ、ガハッ!」
ヒカルはシュウが身動きが取れないのをいいことに、彼の口に大量の蜜柑を皮ごと押し込んだ。途端にシュウは噎せ返った。ヒカルが楽しそうに笑った。
「ゲホ、ゴホッ……姉さん、何やってるの?」
「実はな。こないだまで、とある殺人事件の犯人を追ってたんだが……」
シュウは涙目になりながら頷いた。その殺人事件というのは、元々シュウが追っていたものだ。そこに暇を持て余していたヒカルが割って入って、危うく犯人が姉の斧で真っ二つにやられそうになった。無事逮捕で終われたことは、不幸中の幸いと言っていいだろう。部屋中に柑橘系の匂いを漂わせ、ヒカルが先を続けた。
「猪本のオッサンに聞いたらさ、ソイツが取り調べで面白いこと言ってたらしいんだよ」
「面白いこと?」
「ああ。【交換殺人】って知ってるか?」
ヒカルがシュウに顔を近づけ、その目を覗き込みいたずらっぽく白い歯を見せた。
「【交換殺人】って……あれでしょ? 【自分の殺したい相手を全然知らない人と交換して、捜査を撹乱する】っていう……」
「そう。【誰かを殺したいモン同士が集まって、お互いのターゲットを交換する】。そうすると、警察は動機が分かりにくいし、依頼主もアリバイが作りやすいんだよ。ネットじゃ【闇サイト】なんてモンもあって、一体どこまで本気なのか、この手の依頼は裏でいくらでも飛び交ってる」
ヒカルがポイっと蜜柑を一切れ口に含んだ。シュウは目を丸くした。
「まさか……こないだ捕まえた犯人が、交換殺人を依頼されてたってこと?」
「そのまさかだよ。そんでだ、そいつが誰か別のやつに依頼してたターゲットってのが……」
「…………」
ヒカルは再び、握り締めすぎて潰れかけた蜜柑をシュウの口に押し込んだ。
「
「ムゴォ……!!」
シュウは驚いて目を見開き、そのクリクリっとした目の中に蜜柑の汁が流れ混んで来た。思わず暴れる弟をヒカルが馬乗りになって押さえつけた。
「ゲホ……! な、なんで僕が……!?」
「まぁ探偵なんて言うなれば犯罪者相手にする商売だからな。他人の揉め事にちょっかい出そうってんだから、知らず知らずのうちに恨み辛みの一つや二つ買ってるわな」
ヒカルがシュウの上から彼を眺め、一人納得したように頷いた。
「な、何……?」
「それに、お前カワイイもんな」
「……へ?」
「顔も
「まさか……」
姉の言い草にシュウは眉をひそめた。
「姉さん……僕に成り代わって、ここでその交換殺人の犯人を待ってたわけ?」
「そうだよ」
姉がニヤリと笑みを零し、シュウの部屋の奥を指差した。
「機械好きの拷問マニアに頼んでな。ちょっと部屋を改造させてもらった」
「ちょ……」
そこでようやくシュウは、いつの間にかリビングに持ち込まれていた大量の機材が目に入った。手錠、目隠し、紐、スタンガン、鞭……。
「これ、何!?」
「こりゃ嘘発見器だ。ここに座った奴が嘘をつくと、電気がビリビリって……」
「そうじゃなくて!」
リビングを埋めつくさんばかりに運び込まれた仰々しいモノの数々に、シュウはあんぐりと口を開けた。シュウの知らない間に、壁には十字架がかけられ、窓際には三角木馬が並べられていた。
「いらないよ、こんなの! 誰かに見られたらどうするんだよ!」
開け放たれたカーテンの向こうからは、部屋の中の様子が丸わかりだった。アパートの向かいに立つビルから、何人かの会社員たちが、チラチラとこちらを覗き見ていた。
「ダメだって! 絶対アブナイ奴って思われちゃうじゃん!」
「女装までしといて今更何言ってんだ」
ヒカルが炬燵の上から蟹用の細長いスプーンを手に取った。
「ホントは、例の犯人が来たら
「色々って」
「先にシュウが帰って来ちまうとはな。来い。待ってる間、耳掻きしてやる」
「やめてぇ!」
光る銀のスプーンの先を見て、シュウの顔からサッと血の気が引いた。
「それ違う奴! 姉さんそれ耳掻きする奴じゃない、蟹の奴!」
「暴れるな。鼓膜が破けるぞ」
「助けてぇ! せめて、カーテン閉めてから……ッ!」
「大人しくしろ!」
「いやぁああ!!」
慌てて起き上がろうとするシュウの顔面を、ヒカルがその細い両手で鷲掴みにして押し倒した。やがて狭いアパートから、若い男の悲鳴と、女の笑い声がいつまでも響き渡った。
□□□
「それで……どうだったの?」
『ええ。所長の言う通りでしたよ』
電気の消された事務所の奥で、机の上に置かれた固定電話の画面が妖しく緑色に光っていた。
『例のA島兄弟を拷問した人物。事件発生当時、A島邸の近くで
「そう……警察にも当然、目撃者の談は上がってるのよね?」
固定電話のすぐそば。早雲と刻印されたキーホルダーを人差し指でくるくると回しながら、椅子に座った人物が深くため息を漏らした。
『ええ。すでに解決した事件の後始末とあって、足取りは決して軽くはないようですが……』
「ありがとう、タカトラちゃん。続けて」
『それから所長の仰られていた通り……二人が監禁されていた部屋から、その人物のものと思われる唾液や毛髪も発見されました』
「…………」
『発見されたDNAを鑑定したところ……染色体は
受話器の向こうで一瞬間が空き、微かに息を飲む音が聞こえた。
「どうやら犯人は、
《第二幕に続く》
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