第9話 クローズド・サークル

「大丈夫よ、シュウちゃん」


 あれは確か、中学に上がる前の最後の冬休みだっただろうか。

 姉と僕が、両親に連れられて遊園地に行った時のこと。二人で観覧車に乗った僕らは、ゴンドラが空高く運ばれたところで、突然機械のトラブルに巻き込まれた。閉じ込められてしまったのだ。軽快な音楽は鳴り止み、キラキラと輝いていた色とりどりの電飾は、力を失ったかのように明かりを消していった。窓から差し込む西陽が、ゴンドラの中に不穏な影を作った。地上数メートルの高さで宙ぶらりんになった僕らは、不安げに顔を見合わせ、ひたすら機械の復旧を待っていた。


「お姉ちゃんがついてるから」

 姉が僕の隣に身を寄せて、ニッコリとほほ笑んだ。

 もう小学生も卒業するというのに、僕はそれまでの楽しげな雰囲気は何処へやら、急に萎んだ風船のようになってしまった。風にゴンドラが揺らされるたび、僕は心臓をぎゅっと掴まれたような気分になった。無駄だと知りつつも、僕はできるだけゴンドラを揺らさないように、顔を真っ赤にして腰の辺りに力を込めた。右手に握りしめていた食べかけのアイスクレープが、重力に負けてボトリと床に落ちる。姉がそれをハンカチで拭き取って、ブルブル身を震わせる僕に、茜色のセーターを脱いで貸してくれた。いつもは強気でしっかり者で、そのくせこの頃は僕を犬みたいに扱い始めた姉も、この時ばかりは溶けたアイスクリームみたいに優しかった。


 今にして思えば、あの時、姉だって僕と同じように不安だったはずだ。

 いつ復旧するかもわからない、空中で止まった観覧車の中。徐々に西の空に沈んでいく夕陽を眺めながら、僕は少し涙目になって姉の肩に顔を埋めた。姉は僕の頭をポンポンと撫でながら、ゆらゆらと揺れるゴンドラの中でそっと僕を抱き寄せた。


「心配いらないわ。お姉ちゃんが、守ってあげるからね」


□□□


 これでよし。


 A川は運んできた死体を地中深くに埋め、ようやく肩の荷を下ろした。

 額に流れる大量の汗をタオルで拭いながら、ホッとため息をつく。それから、誰にも見られていないだろうかと慌てて辺りを見渡した。車の通りもほとんどない、夜の山の中。周辺に広がる雑木林には、風に揺らされ草木の擦れる不気味な音が広がってはいるものの、およそ人の気配は感じられなかった。油断は禁物だが、一安心には違いない。A川はもう一度死体を埋めた地面を見つめ、それから駆け足で山道の脇に停めてあったバンに戻った。


 どうせ遅かれ早かれ、死体は発見される。

 A川はそう思っていた。現実はそんなに甘いもんじゃない、と。殺害した借金取りにも、家族や仕事仲間はいるだろうし、失踪届を出されたらたちまち警察が捜査にかかる。一応、周囲を断崖絶壁に囲まれた、人も住んでいないような寂れた山奥を必死にネットで検索して、死体を運びはした。だが、素人がいくら知恵を絞って死体を隠したところで、だ。所詮付け焼き刃のその場しのぎにしかならず、およそミステリー小説や二時間サスペンスのように上手くは行かないだろう。


 だからその間に、彼はできるだけ遠くに逃げることにした。できれば数年……いや、数ヶ月でもいいから死体が発見されるのが遅れてくれれば、その間に借りた金で整形したり海外に逃げることもできる。


「……あれ?」

 暗がりの中、バンに戻ったA川は、異変に気付き顔色を曇らせた。車が妙に右側に傾いている……慌てて下を覗き込むと、右のタイヤがいつのまにかパンクしていた。来た時はどうともなかったはずだが、元々オンボロだったからとうとう破れてしまったのだろうか。それにしても、何もこのタイミングで……思わぬ事態に舌打ちしながら、A川はバンの扉を開けようと運転席に近づいた。


「うわッ!?」

 その瞬間。

 A川は面前から激しい衝突に合い、その場に尻餅をついた。運転席の扉が、中から乱暴に開かれたのだ。

「なんだ……ッ!?」

 彼は驚いて目を見開いた。ここへは、誰にも喋らずに一人でやってきたのだ。混乱する頭の中で、A川は呆然と扉の向こうからのっそりと現れた人物の影を見上げていた。


「よお」

「……!」

 A川は絶句した。月明かりの逆光で、顔はよく見えない。思ったより細身で、若い声だ。

 ただその目は異様にギラついて、嗤っているのが分かった。その人物は運転席に我が物顔で腰掛けたまま、右手に握りしめた巨大な槌を、A川にも見えるようにゆっくりと掲げた。

「ひッ……!?」

 A川は悲鳴を上げ、急いで立ち上がると転がるように逃げ出した。A川の倒れていた場所に、勢いよくハンマーが振り下ろされた。鈍い音とともに、地面が土埃を上げ抉れる。見知らぬ搭乗者は運転席から飛び降りると、そのまま何も言わず彼に襲いかかった。


「う……うわあああああッ!?」

 人気のない山の中にA川の悲鳴が木霊した。彼は後ろを振り返ることなく闇雲に道を走り続けた。今のは、なんだ。一体誰……借金取りの仲間だろうか。もしかして、もうA川がB迫を殺したのを知って、報復に来たのだろうか? ふと遠くの空から、パラパラと響くヘリの音がA川の耳に届いた。まさか、もう警察に通報されたのか? 自分を探しているのか? 

 混乱を極めた頭では、考えが散らかってまとまらなかった。どちらにしろ、ここにいては危ない。A川は背筋を凍らせた。先ほどの一撃を思い出し、彼はは涙目になりながら山道を下った。


「ハァ……ハァ……!」

 息を切らし、自分の乗って来たバンから遠く離れようとするA川の目に、信じられないものが飛び込んで来た。

「な……!?」

 山道の途中、断崖絶壁を繋ぐ古いつり橋が、ロープを切断され二つに落とされていた。

「なんだこれは……!?」

 途切れた橋の前で息を切らしながら、A川は目を丸くした。来た時は確かにかかっていたはずなのに、何故このタイミングで……いや。

「アイツか……!」

 A川は苦虫を噛み潰したような表情で唸った。あの、バンに乗っていた謎の襲撃者。誰だか知らないが、アイツの仕業に違いない。自分を……出口のない環境クローズド・サークルを作り出しているのだ。人を殺しておいてなんだが、およそマトモな人間のすることとは思えなかった。 


「よお……」

「!」

 後ろからジャリっと砂を踏む音がして、A川は慌てて振り返った。あぜ道の隣、生い茂った草むらの陰から、両手にハンマーを構えた人物が此方を睨んでいるのが見えた。襲撃者に追いつかれたのだ。

「ま……待ってくれ!」

 退路を断たれたA川が、じりじりと後ろに下がりながら必死の形相で叫んだ。

「お、俺が悪かった……ッ!」

「よぉく分かってんじゃねえか」

「金なら返す……だからッ!」

「だから?」

「だから……ッ」

 

 草むらから姿を現した人物を見て、A川は再び目を丸くした。女……出て来たのは、彼の予想とはまるでかけ離れた人物だった。まるで柳の枝のように線の細い女が、巨大なハンマーを両手に握りしめA川を睨みつけていた。月明かりに照らされた彼女の真っ白な肌が、暗がりの中ぼんやりと浮かんで見えた。A川はその場に膝を付き、教会で祈りを捧げる神父のように両手を握りしめ、目に涙を浮かべ襲撃者に懇願した。


「殺さないで……」

「死ねッ!!」

 有無を言わさず、彼女が両手に構えたハンマーを振り上げた。耳をつん裂く爆発音。それからガツン! という衝撃とともに、A川の視界は真っ黒になり、彼の意識はそこで途絶えた。最後に彼が見たのは、夜の空の下白目を剥いて嗤っている若い女……まるで殺人鬼のような顔をした襲撃者の姿だった。


□□□


「間に合った……!」


 パラパラとプロペラの音が鳴り響くヘリの中で、シュウはホッとため息をついた。彼の隣に座っていた所長が、麻酔銃を構えたままグッと親指を立てて見せた。


「命中!」

「すごい……流石です、所長」

 シュウは背もたれに体を預け冷や汗を拭った。眼下では、麻酔銃によって昏倒されられたシュウの姉・ヒカルと、もう一人の男性が崖の近くで倒れ込んでいた。

「それにしても……」


 ヘリの扉を閉め、早雲はやもと刻印された麻酔銃を下ろし、所長がシュウに人懐っこい笑みを浮かべた。

「まさか橋を落とすだなんてね。普通、それって犯人の役割でしょうに……最近のヒカルちゃん、どんどん過激になっていってない?」

「所長こそ、銃の腕前がそんなにすごいだなんて知りませんでしたよ」

 崖の上でヒカルと犯人が相見えるまさにその瞬間。間一髪のところで、夜空に浮かんでいたヘリから、北条はやもの狙撃が炸裂した。シュウと所長を乗せたヘリは、崖に倒れた二人を回収するためゆっくりと高度を下げていった。

「急いで! そのまま病院へ!」

「プライベートヘリに麻酔銃って……所長って、何者なんですか?」

「へへん。見直した?」


 隣でガッツポーズを取るはやもに、シュウが少し疲れた顔をしつつ笑みを向けた。それからヘリは無事昏睡状態になった二人を回収し、再び夜空へと舞い上がった。


「シュウくんの言う通りだったね……ヒカルちゃん、やっぱり犯人を追ってたんだ」

「ええ……」

 ヘルメットを外しながら、所長がブロンズヘアを掻きあげた。

「大丈夫? シュウくん、顔真っ赤だよ?」

「大丈夫です。 ……高所恐怖症なんですよ、僕」

「無理してキミまで乗らなくても良かったのに……」

 心配そうに表情を曇らせるはやもに、シュウは頭を振った。シュウが隣に目を向けると、先ほどまでハンマーを振り回していた姉が穏やかな寝顔を見せていた。その表情は先ほどの鬼気迫るものとは打って変わって、まるで子供のようだった。ヘリが高度を上げ、パラパラと大きな音を立てながら、夜の空を切り裂いて進んでいった。


「……今度は僕が守るからね、姉さん」

 シュウは小さな声で一人そう呟き、寝静まる姉に自分のコートをかけて上げた。それから憂いを帯びた目で姉を見つめ、彼女の髪をそっと撫でるのだった。

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