第5話 時刻表トリック
「ダメだ……全然わからないや」
梅干しのように顔中のシワを寄せていたシュウは、そう呟いて、持っていた本を放り出し机の上にその身を投げ出した。さっきから脳みそが熱暴走を起こしたみたいに、意識が朦朧として考えがまとまらない。すると、机に顔を押し付けていたシュウの右ほほに突然冷たいものが押し付けられた。
「何見てるの?
「あ……所長」
そこにいたのは、顔なじみの女性だった。冷やされたペットボトルを伝う水滴がシュウのほほを濡らし、彼は思わず飛び起きた。シュウとヒカルの勤める、探偵事務所の所長。彼の上司である。見た目からして、三十歳前後だろうか。所長と呼ばれたその女性は胸元の開いた派手なドレスに、煌びやかなイヤリングやネックレスを揺らし、疲れた顔を見せる
「
「ええ……まあ」
シュウが頷いた。『所長』は空いていたシュウの隣の席に腰掛けると、彼の体にひっつくように身を寄せた。シュウは少し照れたようにほほを紅く染め、先ほどまでにらめっこを続けていた本を手繰り寄せた。
「これ……『時刻表』なんです」
「時刻表?」
「ええ、東海道の。今度、姉が担当している事件の重要参考資料なんですけど……」
「まあ、お姉さんの事件をお手伝いしてるのね」
シュウは『JR時刻表・三月改定号』と書かれた本を掲げた。所長は目を丸くした。
「頑張るわねえ。もう、朝よ」
「いえ、別に……」
シュウがふと辺りを見渡すと、開け放たれた、窓から眩しい朝の光が彼のいるラウンジにまで差し込んできていた。
「その格好で、ずっとここにいたの?」
所長が半ば呆れたように、リクルートスーツ姿のシュウをジロジロと眺め回した。すぐ近くから香水と、お酒の残り香が漂ってきて、シュウは身を仰け反らしたりして失礼にならないよう必死で足腰に力を込めた。
「えと……今回の姉の事件、この時刻表を使ったトリックなんですけど……」
「うんうん」
「容疑者はアリバイを主張してて、本来事件が起きた当日には現場にいることはできないと言ってるんです。この時刻表が、それを証明してるって。”どんなに頑張っても、東京から静岡まで最低一時間はかかる”って」
「そうなの?」
「僕も本当にそうなのか、昨日からずっと調べてたんですけど……」
シュウはそう言って、眠たそうに赤く腫らした目を擦った。
「乗り換えとか、在来線の組み合わせとか……色々時間を計算してるんですけど、確かに容疑者の言う通りなんですよ。でも姉は、時刻表を一目見て『彼が犯人に違いない』って」
「なるほどね。じゃあ、抜け穴があるんだ。その時刻表に」
「みたいなんですよ……でも”03西”とか、”42平”とかずらっと並んでて、もう何が何だかさっぱり。だんだん暗号みたいに思えてきちゃって……」
嘆くシュウの顔をみて、所長は思わず苦笑いを浮かべた。
「どうやって姉さんは、この時刻表からアリバイトリックを見破ったんだろう……」
「ねえ、
所長は、彼女もまた徹夜明けなのか、ボサボサになったブロンズヘアをかきあげ机の上に寝そべるように細い両腕を投げ出した。それからシュウの目を下から覗き込んで、静かに口を開いた。
「あんなコトがあったから……お姉さんが心配なのはもちろん分かるけれど」
「…………」
「でも、あんまり他の人の事件にばっかりかまけてて、自分の担当が疎かになっちゃったら本末転倒よ」
「それは……もちろん」
甘えるような口調とは裏腹に、所長の、仕事に対する厳しい物言いにシュウは思わず姿勢を正した。所長は口元に静かな笑みを携えたまま、夢でも見るような顔つきでシュウにトロンとした視線を投げかけた。
「
「そう……そうですね」
『果たして本当にそうなんだろうか』と、喉まで出かかった言葉を飲み込んで、シュウは表情を引き締めて頷いた。
「じゃ、私もう行くわ」
シュウが黙ったままでいると、所長はパッと立ち上がった。
「何かあったら、いつでも相談してね」
「ありがとうございます」
手をひらひらと振りながら、所長は軽やかな足取りでエレベーターの扉の向こうへと消えて行った。シュウは、事務所にある一階のラウンジに一人取り残されたまま、しばらく立ち上がって所長の後ろ姿を眺めていた。やがて緊張から解き放たれたシュウは、所長からもらったペットボトルの天然水を一口飲んだ。喉を流れていく冷たい飲料が、徹夜で振り絞ったシュウの脳みそを少しだけ潤してくれる。彼は再び机に座りなおし、件の時刻表と向かい合った。
今から始発で東京駅を経つとして、静岡まで新幹線で約一時間半。
「えーと……”6:33発”の”こだま631号名古屋行き”が”7:52着”で79分だけど、”7:03発”の”ひかり461号岡山行き”が”8:03着”で所要時間は60分だから、こっちの方が……あーもう!」
果たして自分が辿り着くまで、容疑者は無事姉の魔の手から逃げ
何とかしてこの時刻表から時間短縮トリックを見破り、急いで静岡に駆けつけなければ、犯人の命が危ない。
ずらっと並ぶ無機質な数字の列にシュウは軽く頭痛と目眩を覚えつつ、急いで『探偵コート』を羽織り、事務所のラウンジから最寄りの駅へと向けて走り出すのだった。
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