第4話 発火トリック②
A野は玄関を閉めるなり乱暴に靴を脱ぎ捨て、狭い廊下をひたひたと歩いた。
廊下を進むとすぐ右手に、カーテンの締め切られたリビングが見えた。半開きになった扉から、食べかけのコンビニ弁当や床に転がったペットボトルの空が覗いている。A野は独身であった。放っておいたらそのうち虫が湧いてしまうだろうが、今のA野には、部屋を片付ける気力もなかった。
「大丈夫……大丈夫だ」
暗がりの中、やつれた顔をしたA野が胸に手を当て独り言ちた。
トリックは無事成功した。乾電池で作った自作の発火装置も、証拠は全て、事件とともに燃えてしまったはずだ。自分が疑われることも想定の範囲内だった。死んだBヶ原社長を自分がよく思っていなかったことは、会社の人間なら誰でも知っている。今日も一人、探偵を名乗る茶髪の少女にしつこく付きまとわれはしたが……結局捜査は何も進んじゃいないはずだ。トリックは完璧だ。最終的には、警察も事故と判断せざるを得ない……。
A野は廊下の突き当たりにある書斎に直行し、そこでようやく肩の荷を下ろした。
最近は外に出ると自然と警戒心が強まって、なかなか心が休まらなかった。いくら自信があるとは言っても、今日のように周りをウロチョロされるのは心地の良いものではない。一人きりになれるこの書斎が、唯一の憩いの場だった。ため息をつきながら、A野が書斎の電気をつけようとした、その時だった。
「よお」
「!」
突然暗がりの中から聞き慣れぬ声が聞こえてきて、A野は思わずその場で飛び上がった。誰もいないはずの書斎に、先客がいたのだ。普段A野が腰かけている椅子に、もぞもぞと大きな影が蠢いていた。A野はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて気を取り直し掠れた声を絞り出した。
「誰だ……!?」
「アンタがBヶ原社長を殺した犯人か」
「!」
椅子に座った人物はA野の方を振り向きもせず、そのまま単刀直入に切り出した。若い女の声だった。十代か、二十代前後の女だろうか。カーテンが締め切られていて、顔がよく見えない。A野は必死に自分の記憶を手繰り寄せたが、あいにく声の主に心当たりはなかった。A野は声の主の
「それにしても上手いこといったもんだなァ」
「!」
暗闇の中、侵入者が感心したような声を出した。
「事件が起こる前、社長の家に出入りしていたのは彼の家族と、会社の幹部数名のみ。仕事の話の間に、アンタはBヶ原社長の家に仕掛けを施したんだ。乾電池に銀紙でも、古くなった携帯電話の発熱でも、どこの家庭にでもあるもので犯人はいくらでも火の元を作り出せた。たとえ六〇〇キロ離れた場所にいながらでも」
「バカな……」
ようやく落ち着きを取り戻したA野が、姿の見えない声の主に反論した。
「誰だか知らんが、突然人の家に上がり込んで、一体何を言い出すかと思えば。私は犯人じゃない」
椅子に座った影は、A野の方を振り向く素ぶりすら見せなかった。A野はスイッチのひもに手をかけた。
「それに何だい? 乾電池に、携帯電話だって?」
「そうだよ。サバイバルなんかで火を起こす時に良く使われる手さ」
「そんなバカな。仮にだよ、乾電池とか携帯電話とか、そんなチャチなもので火を起こしたとしても、そんなんで彼の家全体を燃やせるか? そりゃあいくらなんでもバクチすぎるだろう。逃げられたり消防車を呼ばれたりするリスクを考えないなんて、よっぽど間抜けな犯人じゃないか」
「……やけに饒舌だな。自己紹介はそれくらいで満足か?」
「アンタは誰だ!? いい加減にしないと警察を呼ぶぞ!!」
A野が影に向かって怒鳴った。
「私? 私は探偵だよ」
「探偵だって?」
黒いシルエットが暗闇の中でもぞもぞと蠢いた。
「今日の子の知り合いか? 証拠もなしに、私を捕まえに来たのか?」
「いやァ」
次第に余裕をなくしていくA野の声に、椅子に座った人物が楽しそうに嗤った。
「捕まえに来たんじゃねえ。ぶっ●しに来たんだ」
A野が紐を引っ張り、書斎の電気をつけた。途端に部屋中がパッと明るくなり、白光の下に姿を現したのは……。
「何だ……!?」
椅子の上に座っていたのは、人間……ではなく、人一人分の大きさの透明な
次の瞬間、ポリ袋は大きな音を立てて燃え出した。
□□□
「A野さん!?」
突然家の中から甲高い悲鳴が聞こえ、シュウは顔を上げた。
いくら呼び鈴を鳴らしても応答がないので、今日は仕方なく帰ろうかとしていたところだった。シュウはドアノブに手を伸ばした。力強く引いて見るが、一軒家の扉はビクともしない。彼はスカートを翻し、急いで家の裏手へと回った。
「A野さん!? 大丈夫ですか、A野さん!?」
玄関から右側に位置する軒下の窓は、カーテンが全て締め切られていた。シュウが軒下に回っている間にも、家の中からはくぐもった悲鳴が聞こえ続けていた。
「どうしよう……?」
シュウはキョロキョロと辺りを見回した。閑静な住宅街の一角にあるA野の家の周りには、同じく一軒家が立ち並んでいるものの、誰も悲鳴に気付いた様子はない。彼は意を決して、閉じられた窓ガラスを地面に落ちていた木の棒で叩き割った。
「A野さん!!」
粉々に砕かれた窓の隙間から手を伸ばし、閉じられていた鍵を開ける。家の中は、電気すら付いていなかった。中に上がると、シュウを待っていたのは大量の食べかすや飲みかけのペットボトルのゴミの山だった。
「なんだこれ……」
シュウは悪臭に思わず顔をしかめ、口元を手で押さえた。大量のゴミの間には、小さな
「……!!」
部屋に群がった大量のゴキブリたちの表面が、まるで蛍のようにオレンジ色に光っていた。体に火をつけられたゴキブリは家中を所狭しと走り回り、カーテンや机など、部屋中の様々なものに引火して回っていた。シュウはその光景に思わず立ちすくんだ。
「ぎゃああああっ!?」
「A野さん!」
半開きになった扉の向こうから再び悲鳴が聞こえ、シュウは我に返った。足場に気をつけながら廊下へと出ると、そこには大量の虫に群がられ、腰を抜かしたA野が倒れ込んでいた。
「ぎゃああああああああッ!! 来るな、来るなあッ!?」
火のついたゴキブリに群がられたA野が、服の端を焦がしながら絶叫した。シュウは一瞬躊躇したが、慌ててA野に駆け寄ると、持っていた木の棒で叩き、彼に群がった虫たちを追い払った。
「A野さん、急いで! 逃げましょう!!」
「うあああ……ヒィ、ひいぃッ……!?」
虫は追い払っても追い払っても、奥にある小部屋から大量に湧き出てきた。小部屋の中はあっという間に火の手が周り、さらに虫が暴れ回るものだから、家中のあちこちに火が燃え移り手がつけられなかった。このままではものの十分と立たないうちに家は全焼してしまうだろう。半ばパニック状態に陥ったA野の肩を担ぎ、シュウは急いで玄関へと向かった。A野の体には、まだたくさんの燃える虫がくっついていた。
「はぁ、はぁ……!」
シュウが鍵を開け、転がるように玄関から脱出すると、外には大量の消防車が待っていた。騒ぎを聞きつけて、誰かが呼んでくれたのだろうか? シュウは群がり続ける虫たちを懸命に払いながら、A野を担ぎ何とか家の外に飛び出した。
「A野さん、しっかりして! 何があったんですか?」
「ぅ……」
顔面蒼白になったA野が、地面に降ろされ唇をわずかに動かした。
「見知らぬ、ビニールが……いきなり燃え出して……! 中に、大量の虫が……!」
「虫?」
シュウは眉をひそめ、燃え続けるA野の家を振り返った。辺りはすっかり消防車のサイレンと、集まった人たちの悲鳴や怒声に塗れ騒がしくなっていた。喧騒の中、消防隊員たちが太いホースを担ぎ、開け放たれた玄関から中に鎮火作業へと向かっていた。
「そうか……犯人は発火装置と一緒にゴキブリを用意してたんですね。確か、過去にカラオケ店で同様の事故が起きた、って記事を見たことがあります。誤って虫に引火して、店が全焼した事件……」
「……ッ!」
「どこの家庭にもいておかしくないもの……燃やされたゴキブリが部屋中を暴れ回って……被害者は逃げる暇もなく、家は一瞬で燃え上がったんだ」
シュウは自分でそう話しながら、その時の光景を思い浮かべて背筋をゾッと凍らせた。シュウは震えるA野に向き直った。
「だから言ったじゃないですか。
「そ、そんな……!」
A野の座り込んだ足元で、体に火をつけられたゴキブリが粘り強い生命力でまだもぞもぞと蠢いていた。ゴキブリは触角や細い四肢は燃えやすいが、体の部分は燃えにくく、約七〇度まで耐えることが出来る。まだ信じられない、と言った顔で、A野は全身をブルブルと震わせていた。それは自分が使ったトリックを暴かれたことへの驚きなのか、それともそのトリックを自ら使われたことに対する驚きなのか、シュウには判断がつかなかった。しばらくまともに口を聞けそうにないA野をそばに置いて、シュウは仕方なく警察と、それから姉に連絡を入れた。
『おう。どうした?』
「姉さん。たった今A野さんの家が、燃えたよ」
『そうか』
受話器の向こうで、ヒカルがあっけらかんと応対した。
「消防車を呼んだのは、姉さん? ……来るのが、あまりに早すぎる」
『それで、A野はどうなった? 自供したか?』
「…………。まだ、だけど……今日僕にA野さんのことを付けさせたのは、まさか僕に気をそらさぜておいて、その間に彼の家に侵入するため?」
『オイオイ、
シュウの咎めるような口調に、ヒカルが嗤った。
『証拠でもあんのか? 全部燃えちゃったんだろ?
「……危うく、僕も死ぬとこだったよ」
『助かってよかったな。じゃ』
ヒカルがそう言うと、通話は一方的に切られた。シュウはしばらく液晶画面の『通話終了』の文字を見つめていたが、やがて諦めたように深くため息をついた。
「A野さん」
「!」
シュウは両手で肩を抱えるA野を振り返った。
まだ小刻みに震え続けるA野に、彼は優しく諭すように言った。
「悪いことは言いません。自供するなら今です」
「……!」
「そうすれば、
「ひッ……!」
シュウはそれからA野の家を振り返った。燃え盛る一軒家はあらかた鎮火されてはいたものの、
□□□
「ごっそさん。ありがとな」
「毎度」
カフェ・『よもぎ』で、三杯目のパフェを食べ終わったヒカルがようやく席を立った。代金を払い、満たされた表情で店の外に出ようとするヒカルに、レジで会計をしていた白髪混じりの老人がぼそりと呟いた。
「あんまり無茶しよると、後で痛い目に遭うぞ」
「あン?」
ヒカルが扉に手をかけ後ろを振り返った。老人はレジ前で黙々と受け取った札束を数えながら、丸メガネの奥でその細い目を鋭く尖らせた。
「ほどほどに、の。一線を越えたら、たちまち
「……パフェ美味かったよ。おじいちゃん、ありがとっ」
渋い表情を崩さない老人に、ヒカルがにっこりと可愛らしくほほ笑んだ。『よもぎ』のボロボロになった扉が軋んだ音を立て、古い鈴が揺られてからんころん、と鳴った。
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