苔
ナナシイ
苔
苔
ナナシイ
目を覚ますと、辺り一面深い緑に包まれていた。よくよく目を凝らしてみると、その緑は全て苔であった。
私が今まで眠っていた寝台、部屋の中央に置かれた丸机、隅の一角を占める衣装ダンス、冷蔵庫、テレビ……。あらゆる家具がその原型を留めながらも、緑の苔に覆われている。壁や床も、一面苔びっしりである。
私は困惑した。何故このようなことになっているのか皆目見当もつかない。このような苔は、昨日まで一つもなかったのである。
私は寝台から降り、自分の体を眺めた。苔は自分の体には生えてはいなかった。ジャージとシャツにわずかに付着した苔を払ってから、私はまず出口に向かった。
部屋の出口たる扉もまた、苔に覆われていた。どうやら苔は分厚く繁殖しているようで、取手の痕跡も無い。どうにかこうにか取手を掘り出そうと、私は取手があった場所の苔を取り除き始めた。
指でつまんで引くと、苔は簡単に剥がれて行った。緑の霞がポロリポロリと床に落ちていく。しかし、何という事だろうか。苔は剥がした先からまた生えてきた。私が剥がして生じた凹みに、周囲からすっと苔が伸び、元の厚みに戻ってしまうのである。何度剥がしても、同じであった。
私は扉であった場所を蹴りつけたが、その衝撃は苔が全て吸収した。私の足には何の痛みも残らず、苔の柔らかな感覚だけが残った。
辺りを見回し別の出口を探したが、部屋の壁は一部の隙もなくびっしりと苔に埋められている。窓から出ることも叶わない。
どうやら私は外に出られなくなったらしい。これでは仕事に行くことも出来ない。今何時だろう。壁にかけてあった時計も苔に埋もれているようであった。
所在なく部屋の中をぐるりぐるりと歩き回った。
苔に覆われた照明からは僅かに光が漏れ、室内はほのかに明るかった。
苔に覆われたからだろうか。部屋の中はほのかに暖かい。
私はふと電話の存在を思い出した。電話があった場所を見ると、そこには電話の形をした苔の塊があった。私はその苔の塊から、苔を剥がしにかかった。電話周りの苔も簡単に剥がれて行った。この部分の苔は薄いのか、すぐに電話本体が見えた。苔の再生もゆっくりとしたものであった。私は素早く苔を剥がしていった。
やがて、完全な黒電話の姿が現れた。電話に着いた苔を全て除くと、苔がまた生えてくるということもなくなった。
私は一安心して、ダイヤルを回した。
まずは職場にかけよう。
――ガチャ。
「はいこちら事務所ディスタンクシオン。」
「松田です。田中さん、所長は居られますか。」
「ああ、松田さんですか。少々お待ちください。」
しばし待つ。
――ガチャ。
「もしもし、所長です。松田君、どうしました?」
「あのぉ、申し訳ないんですが、今日出勤することが出来なさそうです。」
「出来なさそう、とはどういうことで?」
「それがそのお、目が覚めると、部屋が苔に覆われていたんです。出口も全部塞がれいて、まず外に出ることが出来なさそうなんです。」
「苔、苔ですか。いつ出てこれそうです。
「わかりません。」
「ところで松田君、B715に関する書類は出来ていますか。」
「ええ、私のデスクの引き出しの中にあります。」
「よろしい、よろしい。直、船の出向時刻。我らは万象を乗り越え東の先へと向かう。再度我らの船へ乗船することを祈る。」
――ガチャン。
次は部屋から出なければならない。一人で脱出することは不可能に思えた。助けを呼ぶのが得策だろう。
ダイヤルを回す。
―――――。
「わたくしでございます。ただいま電話に出ることができません。豊穣なる愛と共に、またのご訪問をお待ちしております。」
―――ガチャン。
私の彼女は出なかった。まだ寝ているのだろうか。
ダイヤルを回し次にかける。
―――ガチャ。
「はいもしもし。どちら様?」
「永田か? ああ、俺だ、松田だ。」
「おお、我が友よ。お前から掛けてくるとはなんと珍しきこと。どうしたというのだ。遂に例の彼女にフラれたか?」
「いや、そんなことはない。」
「ふむ。ならばどうしたというのだ。……ふむ、苔?苔に部屋が覆われ部屋から出られぬと。おお、我が友よ。遂にお前も腐海の底に堕ちられ申したか。苔、苔、苔、いかなる狂気が我が友を自らの殻へと押し込めたというのだ。ああ、万感なる記憶の日々よ、全ての苔を焼き払い、我が友を地獄の底より救い給え。」
「永田、お前の狂言回しに付き合っている暇はない。本当に苔が我が部屋を覆っているのだ。」
「本当、誠、真実。いかなる意味でお前はそれを用いるというのか。結構、お前の目に苔が映るなら、それもまた真実となろう。十全たる意志は苔となりお前を覆うのだ。」
「何を言うか。我が意志は常にこの地を脱することを望んでいるとも。」
「ならば火がお前の救い。苔は焼かねばならぬ、ならぬのだ。」
「火?」
「苔を焼け。焼き払え。救済の炎がその緑を取り払い、汝の道は開かれよう。」
「焼き払おうにも、火元は全て苔に覆われている。どうすることもできぬのだ。助けに来てくれ。」
「否、否。内に向かえ。内に向かえ。ああ、ピストンは今日も運動す。点火の火花は既に散らされた。道化師の役目はここまで。もう、行かねばならぬ。」
――ガチャン。
どうやら彼は来てはくれないようだ。私はまだ一人のようだ。
少し疲れた。私は苔に座りこんだ。
再度部屋を見回す。苔は依然として部屋の全てを緑色に染めている。心なしか、部屋が少し狭くなっているような気がした。苔が成長しているのだろうか。
私はすくと立ち上がり、再びダイヤルに手を伸ばす。
―――――。
「わたくしでございます。ただいま電話に出ることができません。豊穣なる愛と共に、またのご訪問をお待ちしております。」
―――ガチャン。
やはり彼女は出ない。
仕方がない。事務所の誰かに来てもらうように頼もう。
私はダイヤルを回す。
―――――ガチャ。
「はいこちら事務所ディスタンクシオン。」
「松田です。田中さん、所長お願いします。」
「はい、少々お待ち下さい。」
―――――ガチャ。
「所長です。」
「松田です。その、お忙しいところすいませんが、こちらに誰か人を寄越してほしいのですが。どうにもこうにも、部屋から出られませんので。」
「一の不足は十の不足、されど天体の運行は続く。我らは船を漕ぎに漕ぎ、舵より汗と血が滴り落ちている。」
「そうですか。では手が空いた時にでも、よろしくお願いします。」
「同胞よ、救済の手が直訪れん。然る後舵を取らせん。」
「ええ。」
――ガチャン。
しばらく待てば助けが来るだろう。私は少し休むことにした。
されど休むと言っても何もすることはない。娯楽用品は全て苔の中に埋まっている。私は手持無沙汰を感じた。
何かないだろうかと服のポケットを探った。するとジャージのポケットに厚みを感じた。ライターであった。
いつ入れたのか、覚えがなかった。私は煙草も吸わない。昨日彼女が誕生日だったという訳でもない。バーベキューでもした時に入ったままになっていたのだろうか。
ライターを取り出し、じっと眺める。黒一色の、安っぽいライターだった。燃料は入っている。スイッチを押すと、ちゃんと火が付いた。
私はぼんやりとその火を眺めた。
私の眼前で、青い炎が揺らめく。
……焼かねばならぬ。
永田の言葉をふと思い出した。
私は苔の上に寝っ転がっている。いくら待てども、誰も助けに来ない。
やはり苔は段々増えているようだ。明らかに部屋の空間が目減りしてきている。冷蔵庫はその半分が苔に侵食されいる。隅にあった衣装ダンスはもう完全に苔に埋もれてしまった。
このままでは、私は苔に押しつぶされてしまう。
イメージが見える。
四方から苔が迫る。私の体が苔に触れる。苔はゆっくりと、私の体を締め上げていく。そして私の鼻腔は苔に覆われ、私は窒息する。苔の圧迫はどんどん強まり、そしてその果てに、私の肉体が潰れ、私は死を迎えるのだ……。
私は恐怖した。
何が同胞だ。助けにも来ぬではないか。誰からの電話もない。
腹立ちまぎれに、手近な苔をむしり取った。やはり苔はすぐに元に戻った。いやよく見ればさらに厚みを増しているように見える。
苔をむしる。元に戻る。苔をむしる。元に戻る。むしるもどるむしるもどる……。
何も変わらない。何も――。
私は起き上がって、再度電話に手を伸ばした。
―――――。
「わたくしでございます。ただいま電話に出ることができません。豊穣なる愛と共に、またのご訪問をお待ちしております。」
―――ガチャン。
何度かけても彼女は出ない。どうしたのだろうか。もう起きているだろう。一体、何をしているのか。
ダイヤルを回す。
―――――。
「只今……。」
―――――ガチャン。
お決まりの電子音。友人も出ない。
ため息が出る。孤独を感じた。
気付けば苔がどんどん迫ってきている。頭がもうすぐ天井に届きそうだ。手を伸ばせば、四方の壁にも手が届きそうである。右を見ても、左を見ても、一面緑。ほとんどの家具が苔に飲まれてしまった。
私は手を伸ばし苔に触れた。とても柔らかい。その柔らかさに、私は女を感じた。
すると私の手が苔に覆われ始めた。
私はひやりとして手を引っ込めた。
手についた苔を払う。すぐに手は元の状態に戻った。
恐る恐る、再度苔に手を伸ばす。再び手を苔が覆い始める。
全く圧迫感はなかった。ただひたすらに柔らかであった。
恐怖が消えた。
再び脳裏に、この緑に包まれて死ぬイメージを見た。
穏やかなる死。暖かなる死。安らかなる死。苦痛のない……。
そして苔が迫ってきた。
頭が苔にふれ、肩が苔に押し狭められ、足が段々と苔に埋まっていくのを感じた。苔はとても暖かった。
私は苔に愛を感じた。
彼女はもう、苔の中に埋まったのだろう。もうじき、会える。
我が四肢が苔の中に包まれる。
そして眼前の空間が深い緑色に染められていく……。
だがその時、電話が鳴った。
体を捻り、なんとか電話を取る。
――ガチャ。
「こちら事務所ディスタンクシオン。社会が求めることを為せ。塵は塵に、歯車は歯車に。世界の回転は止められない。君の回転も止められない。ピストンを運動させよ。淡々としたる幾星霜の労働の果てにの果て、我らの二足は世界に立つ。君よ、列に連なり給え。
君は我らを拒むのか。
君は我らを殺すのか。
許されない。
許されない。
許されない。
お前は戻らねばならぬ。」
――ガチャン。
ああ、戻らなければ。私はポケットに手を伸ばす。ポケットの中にはライター。取り出して、火をつける。
苔にはすぐ火が付いた。紙よりも容易く、火が広がりいく。ぐるりぐるりと火が回り、一面の深緑が、赤に染めれらて行く。
火は私の身体をも包んだ。指が、足が、腹が、背が、火によりて焦がれていく。激しい痛みが全身を覆う。
私はこの肉の痛みを堪えながら、炎が苔を焼き払っていく様を見た。
苔はどんどん薄くなり、部屋は次第に元の姿を取り戻し行く。布団、ごみ箱、テレビ、冷蔵庫……。
生活の姿が火の中から現れて出た。しかし、それらもまた、すぐさま炎に包まれ、塵になっていった。炎は壁を焼き、家を焼き、外の世界が現れた。
全ての壁が除かれた時、私の身は焼き尽くされた。
苔 ナナシイ @nanashii
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます