Too hot to live(3rd)
声が震える。どうしてだろう。大勢の前で発表するわけでもないのに。脇を伝ってじっとりと嫌な汗が身体に張り付く。不愉快さが募るけど止まってくれそうにない。
暑い。
外の世界は蜃気楼の商店街がゆらりと浮かんでいて、現実と虚像の境界線が曖昧です。セミの大合唱がリフレインするみたいに、太陽光で身体が焦げていく効果音が今にも聞こえてきそうです。
暑いときはイライラする。だから普段はなんでもないことにも気が立ってしまう。乱暴な物言いをしてしまう。それに理由をつけるなら「暑いから」となるんでしょうか。気温以外の理由は本当に存在しないのでしょうか。私たちは暑いときしかイライラしないということ?
ううん違う、それじゃ答えになってない。聞いているのは「なんで理不尽に気が立ってしまうのか」だから。暑いときだけじゃない。とても寒いときも、誰かと喧嘩したあとでもあたしたちは苛立ってしまう。すべてに論理的な理由なんてあるわけじゃない。理由を説明できないのは、何も暑いからだけじゃない。だから考える。八つ当たりみたいになってしまう理由を。
「何も、理屈がすべてじゃない、ですよね」
あたしの言葉は考えながら零れていきました。単語と単語の欠片。誰かに聞かせるというよりは、あたしの中の思考を整理するために。レコードの音が静かに染み渡ります。マスターがこちらを見ていることにあたしは気づきませんでした。
「なんでそんな気持ちになるの、なんで暑いからイライラするのと言われて……言葉にできないことはないと思います。嫌だから、気分が悪くてむしゃくしゃするから、って。でも、それは言葉っていう枠に無理矢理収めただけで……何て言うんだろう、本当の理由ではない、気がして」
あたしたちは気持ちを伝えるために言葉を使うけど、言葉ですべてが表現できるわけじゃない。嬉しいとき、悲しいとき、悔しいとき、怒っているとき――その時々で、「言葉では表せないとき」があるのを知っている。伝えきれずにもどかしい思いをすることもある。たとえば、八月に見た花火の切ない感じとか。
「イライラするのはイライラするからなんです。暑くて嫌になるのはそういう気持ちになるからで、そこに理由なんて堅苦しいものを求められても、たぶんあたしは違うと思う。気持ちを言葉で説明することには限界があるし、あたしはむしろ言葉にしなくたっていいと思います」
愛想のよくない顔があたしを見ています。円藤さんです。つまらなそうな、嫌そうな顔をしていて、あたしには理由がわかりませんでした。
「なんですか、円藤さん。あたし何か不愉快なこと言いました?」
「言ったよ、極めて不愉快だ」
円藤さんは大袈裟に溜め息をつきます。
「後ろ見てみろ」
「後ろ?」
何がなんだかわからないまま、言われるがままに後ろを振り返ります。そこにはすごくいい笑顔を浮かべた――百点満点の答案を見た先生みたいな――マスターがいたのでした。いつの間にそんな距離にいたのか、というかどこから聞き耳を立てていたのか。あたしはすっかり窓掃除に没頭していると思って。
飛びのくように後ずさると、マスターは笑顔でにじり寄ってきます。
「感情は理屈では説明できないと。なかなか興味深い結論です。やはり仁科さんは独特の着眼点をお持ちのようだ」
「そう……ですか」
前なら「マスターと一緒にしないで」と怒っていたはずのこのセリフ。でもこのマスターの賛辞が、恥ずかしいというか、なんとも真っ直ぐ受け止めることが難しくて。あたしは胸の奥がむずむずしました。
「しかし」
それで終わらないのがマスターです。
「物事に明解な答えがないと言うのは、私の考えとは合致しない部分があります。原因には結果を。行動には理由を。ですので仁科さんの解釈を鵜呑みにするわけにはいきません」
マスターはどこか頑固な面も持っています。特に哲学に関する信念というか、自分でこうと決めた道は意地でも貫きたがるようです。
「理由なき行動がこの世に存在するのか? 感情が理由を超えるのは果たしていかなるときか? 再度パターンを考え、抽象化する必要がありますね」
マスターの語気が強くなります。どうやら深い謎を見出だして上機嫌のようです。対照的に円藤さんの顔はどん底みたいですけど。
「お前のせいだぞ」
「何がですか」
「今日は理屈と感情で哲学するって決まったじゃねぇか。ここでコーヒー飲んでるだけの俺にまでとばっちりが来る。どうしてくれるんだよ」
「どうもしませんよ」
円藤さんが不機嫌だったのはマスターが哲学する餌をあたしが撒いたからのようです。あたしからすれば、発端は円藤さんが暑い暑いって言ってたせいだと思いますけど。
「いいか。俺に火の粉が振りかかりそうになったらお前が身代わりになれ」
「なんでですか!」
「俺はただの善良な客なんだよ。哲学マニアになってたまるか」
じゃあここでコーヒー飲まなければいいのに。
そんな突っ込みは心のなかにしまって、あたしは意気揚々とテーブル拭きに取りかかるのでした。
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