Too hot to live(2nd)
「人間の本質は感情だ、ということでしょうか」
マスターは円藤さんに対し何も答えませんでした。むしろ「是」と堂々と言うよりもたちが悪いです。
「確かに、人間は理性的な思考を高度に発展させた生物と言えますが、もとを正せば動物です。本能のまま生きる道から、知恵を絞り文化的な暮らしを選択した。理性は後付けであり、本能に類する感情が優先されるというのか……」
一段とわからなくなってきた。感情と理屈の話をしてたと思いますけど、動物? 本能? マスターは人間の起源でも探しているんでしょうか。
「諦めろ。今日のは一際面倒だ」
あたしの様子を察してか、円藤さんが言います。眉根を寄せて心底面倒くさそうな顔をして。暑さのせいか、いつもよりハイペースに減っていくアイスコーヒー。からりとグラスの中で響いた氷の音が妙に大きく聴こえました。
「お前レベルでどうこうなる相手じゃない。今日のマスターはすこぶる機嫌がいい。難易度が上がりすぎていけねえ」
「こんな難しい話、円藤さんわかるんですか?」
「難しいってことはわかる」
あたしと同じレベルじゃないですか、とは口に出さないでおきます。
「ここまでくると美樹さんに頼むか、張り合えるだけの哲学バカか、マスターが結論を出すまではあの調子だ」
円藤さんは諦めたように嘆息し、団扇にしていた新聞を広げて読み始めました。朝刊だから読んだことのある記事の繰り返しだと思うけど、たぶんマスターから逃避したくて。円藤さんなりの自衛策というか、距離の取り方なんだなとわかったのも最近のことです。
でも。その言葉にちょっとだけ胸がちくりとしたのは、たぶん、気のせいです。「張り合えるだけの哲学バカ」ってのは、あたしが知っている範囲だと晶くらいしかいない。もしここに来るのなら、マスターが気に入ってるなっちゃんも。あたしは、その中に入っていない。
感情と理屈なんて、あたしにはさっぱりわからないけど。身近な例で置き換えてみたら。マスターの琴線には触れないかもしれないけど、もしかしたら。晶やなっちゃんみたいにはいかないかもしれないけど、何か形が見えてきたのなら。
……あたしは、何と競い合っているんだろう。
「円藤さんは、さっきなんで怒ったんですか」
「は」
あたしの質問に虚を衝かれたような顔をした円藤さん。がさりと新聞の擦れる音がします。円藤さんは新聞をおろし、あたしを見やり、それから瞬きを一度ゆっくりして……にやりと下卑た笑みを浮かべました。
「マスターを出し抜きたいのか? 無理だって、やめとけ」
「出し抜くつもりなんてありません。ただ気になるだけ」
何が、って言われると言葉では言えないけど。ここは譲っちゃいけない気がしたんです。だから。
「お前までマスターにあてられたか」
「いいから。教えてください。なんで暑いからって逆ギレしたんですか」
逆ギレって言うなよ、と円藤さんはばつが悪そうに目線を逸らしました。窓の向こうには揺らめく商店街が見えます。ムーンリバー二番街という昭和レトロな名称には似合わない、眩しくてうだるような日光。アーケードが終わった先の横断歩道は遮光物もなくスポットライトが当たったみたいに真っ白で、アブラゼミの鳴き声がわんわんとこだましています。
ため息をついたのは円藤さんです。
「……知るか」
「んなっ」
こっちは真面目に聞いてるのに! そう叫ぼうとしたあたしを円藤さんの張った声が制します。
「お前だってわかってんだろ。『理屈』じゃ説明できねえんだよ」
「!」
あたしは黙り込むしかありませんでした。だってそれは、知ってるけど。だからマスターがうんうん悩んでるわけで。それであたしも答えを探してみたくて。マスターが辿り着けていない場所があるなら、先に見てみたいなと思って。
「最初からそのものズバリの答えがあるならマスターはああまで悩まない。自分なりに考えて、自分なりの答えを出すのが哲学なんだよ」
「……円藤さん、まるで哲学してる人みたいです」
「マスターの話を来るたび聞かされればこうなるだろ」
円藤さんは誤魔化すようにアイスコーヒーを口に運びました。
「お前だって自分の身の上に当てはめればいい。クソ暑くてイライラしてるときに『なんで暑いと怒るのか』なんて、上手い答え出せねえだろうが」
言葉に詰まりました。その通りだったから。今の言葉もそうだけど、あたしはどこか自惚れてたのかなと。花火の一件で浮かれてマスターに認められた気になって、ちょっと天狗になっていた。口では哲学なんてと言うけど、わかっていた。
晶とマスターが語り合った姿。なっちゃんを気に入ったマスター。深い深い思考に潜っていく、この店の主人に。
あたしは、「見て」ほしいと思ってしまった。晶やなっちゃんを、羨ましくさえ思った。それは憧れというものなんでしょうか。でも……少し違う。
「あたし、なら」
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