熱帯夜シンドロォム

Too hot to live(1st)

「暑い!」


 そう怒鳴るのは常連の円藤さんです。季節は八月も真っ盛り、夏の中でも苛烈な太陽の光にげんなりしてしまうというもの。クールビズのためにジャケットオフとはいえ、白いYシャツと真っ黒いスラックスを装備しているサラリーマンの円藤さん。

「やっぱり外回りのときはないとカッコつかないから」とつけている青いストライプのネクタイが首を絞めあげるようで苦しそう。新聞を団扇代わりにして仰いでいる汗だくの姿からも、見ていて暑苦しいです。いくら店内が冷房のきいた快適空間だとしても、外は灼熱地獄。それは揺るがない事実なのです。


「嬢ちゃん、ちょっくら外気温下げて来いよ。五度くらい」

「無茶言わないでください」


 円藤さんとも距離が縮まり、今まで以上に無茶ぶりが増えました。あたしのことを玩具か何かと勘違いしているのでしょうか。もちろん大人しく従う義理はないので、あたしも軽口のひとつやふたつ言ってあしらう方法を覚えましたけど。


「これもアレか、地球温暖化とかなんだろ? ったく、世間はクールビズだ何だと言うが、暑いもんは暑いんだっつーの」


 夏になりましたので円藤さんが頼むのはアイスコーヒーです。角砂糖は溶けなくなってしまうのでガムシロップになりました。これも「二つ開けるところを見られたくない」とかで、マスターが用意した円藤さん専用のガムシロップ容器をお出ししています(無論、中身はおんなじです)。

 あたしがブラックのアイスコーヒーを給仕すると、円藤さんはすぐさまガムシロップを注ぎ込みました。待っている間に空っぽになったお冷のグラスに水を注いでおきます。グラスもすっかり汗をかいていました。


「クソ暑い。なんでこんなに暑いんだか」

「それは地球温暖化がって円藤さんが」

「うるせえそんな理屈求めてねえんだよ」


 暑さのせいか、円藤さんはいつも以上に殺気立っています。自分で言ったことに逆切れする程度には。でもまあ確かに、暑さの苛立ちに理屈を並び立てたところで納得はできませんもんね。


「何故でしょう」


 ……それを納得で片づけてくれないのがマスターなんですけど。


「暑さに対する客観的な理由は確かに存在する。だというのに納得することはできない。これはともすると、理屈と感情の考察対象になりそうですね」


 断っておきます。あたしは花火の一件でちょこっと、ほんとにちょこっとだけ真剣に考えることをしました。でも、でもです。それは今後もマスターの哲学談義にみっちり付き合うこととはイコールでないのです。

 とどのつまり。

 あたしはまだマスターの哲学癖に付き合いきれていません。


「マスター。理屈で全部解決することはないんですから、今日は大人しく喫茶店経営に専念しましょうよ」

「いえ。一度芽生えた疑問は放っておけば死んでしまいます。それは非常に惜しい。疑問は些細なことでも放置しない。それが着眼点を鋭くする訓練にもなります」


 ああ。これはもうわかります。戻って来ないパターンです。もし奥さんがいればマスターの思考を強制終了させられますが、生憎と今日は外出しています。バーデンダー姿でほぼ毎日喫茶店を経営している仕事中毒のマスターと違って、奥さんは外出が多くアグレッシブです。

 つまり打つ手なし。あたしはまた予測可能回避不可能な波に巻き込まれていくのでした。


「理屈と感情とは、これも考えがいのある深いテーマですね。さて、どこから手をつけましょうか」


 マスターは嬉々とした表情で布巾を冷水で濡らし、窓ガラスの清掃をはじめました。


「理屈を考察する必要はないでしょうか。ある意味で明快すぎる、客観的な論理。一般論であり曲げようのない事実。本来であればそれを否定することはできないのですが」


 キュッと音をたてて磨かれていく窓。そこから見える外の世界は、じりじりと焼け焦げていく灼熱地獄。蜃気楼みたいにアスファルトがゆらめいています。見てるだけで気分が萎えていきました。


「感情は理屈をも凌駕する。しかしいつもではない。事実人間は疑問点を解消するための客観的かつ普遍的な真実を求める傾向にある」


 マスターは花火の一件以来、あたしの前でもいっそう難しい言葉を使うようになりました。でもあたしにはちんぷんかんぷんです。翻訳機が欲しいくらいです。あたしは現代語訳を要求します。


「あの……つまり、どういうことですか」

「人間が理屈を超えて感情に身を任せるのはどんなときか、ということです」


 理屈を感情が、超えるとき?

 えーと、つまり。普段は抑えてる気持ちが爆発してさっきの円藤さん状態になるのはいつか、ってこと? 翻訳してもピンと来ないな。


「本来であれば、そこに絶対的な事実理屈があれば納得する。反論しようがない純然たる真実ですからね。でも、そうならないときがある」

「さっきの俺って言いてえのか、クソマスター」


 憮然とした表情でコーヒーをあおる円藤さん。感情に身を任せてヤケになっています。

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