Killer lady(3rd)
と、あたしが物思いに耽っていると、そこから目を覚ませと言わんばかりに激しい音が聞こえてきました。どんがらがっしゃーん、みたいな。ボウルとか、金属製の食器が落ちた音です。無論、床に。
何事かと思って音のした方向を見ると、青ざめた表情のマスターが立ちすくんでいました。足元にはボウルが転がっていて、それを持っていたはずの指先がカタカタと震えています。マスターが青ざめるなど普段からは想像もできないことです。
「み、美樹……」
まるで呪われた言葉みたいにマスターが呟きます。奥さんの名前が呪文ってどういうことなんでしょうか。
「あら、あなた。まるで死人を見たような顔よ。何かあったの?」
恐らく元凶である奥さんはびっくりするほどの白々しさです。
マスターはいつも以上に言葉を慎重に選んでいるようでした。言葉を発するまでの間がじれったいほど長いです。
「や、その。そろそろカウンターに行かなくてはと思いまして」
奥さん相手にも敬語を使うのは、マスターの口癖だからかと思っていましたが、実際は奥さんが怖いだけかもしれません。目も泳いでいますし、オロオロと落ち着きがない様子。
「あらそう。妻を蔑ろにして仕事に励むって言うのね?」
棘だらけの言葉でした。マスターが凍りついたように直立不動になります。顔の筋肉もひきつり始めています。
「いえ、決してそんなことは」
「まだ話は終わっていないの」
「でも仕事が」
「どうせ物思いに耽るだけでしょう?」
図星。
マスターがぎくりと肩を跳ねさせました。
「やっぱりね。お客さんも円藤さんだけだし、あなた一人いなくっても問題ないわ」
「でも、私はマスターで」
「誰のお陰で店が回ってると思っているのかしら」
墓穴。
奥さんのにこやかな笑顔が作り物みたいで、なんだか氷の彫刻みたいな、美しくも残酷な冷たさを感じます。まさに鬼嫁。かかあ天下。
「経理は妻である私がやっているの。お金を管理する人間に楯突いたらどうなるか、わからないあなたじゃないでしょう?」
今、目の前で「圧力」というものを目の当たりにしている。あたしはそう思いました。
「じゃあ、仁科さん」
奥さんに名前を呼ばれたので、あたしまでびくりとしてしまいました。伝播してる。
「は、はい」
「私、この人とお話ししてくるわ。その間お店のこと、よろしくね」
誰が否と言えましょうか。あたしはぶんぶんと首がちぎれるくらい縦にふって頷きました。
「あ、あ、仁科さ……」
マスターの救いを求めるような顔。本当に奥さんを恐れているようです。
でも、マスターを論破できないあたしにマスターを救うことはできません。あたしはどこか遠い目をしながらマスターを見送りました。ごめんなさいマスター。あたし、奥さんにはとてもかないそうにないです。
「くくっ」
嵐が去ったあと、店内には忍ぶような笑い声が。見なくてもわかります、円藤さんです。
「面白いだろ? あの夫婦」
円藤さんはあたしに話しかけているようです。
「マスターがいて、美樹さんがいる。だからこの店は面白くてやめられない」
冷めきったコーヒーをぐっとあおり、円藤さんが話します。なるほど、円藤さんがなんでこんな物好きな店に通うのか、と思ってはいたけど……マスターと奥さんの人柄、ってやつか。
あたしはてっきり、マスターの昔馴染みの人とか、付き合いとかで来てるのかと。って、すごく失礼だけど。
なんかいいな、そういうの。
あたしがそう思っていると、変なものを見るような目で円藤さんがまじまじとこちらを見てきます。
「……な、なんですか」
「いや?」
円藤さんは口許に笑みを浮かべたまま、新聞を読みはじめてしまいました。そのまま何も言わないと、なんか気になる。
「円藤さん。さっきのニヤニヤなんですか。なんで黙っちゃうんですか」
「俺は寡黙な男なんだよ」
意味わからないし!
あたしが円藤さんに詰めより、円藤さんはそれをやり過ごすという不毛な押し問答が、本日の主な仕事になりました。
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