奥様が魔女

Killer lady(1st)

 梅雨が来ました。じとじとと、陰気な音を立てて窓枠に叩きつける雨とか。じめじめと、湿度計が今にも降りきってしまいそうな雰囲気とか。ついでに洗濯物が乾かなくてナイーブになってしまうあたしの心とか。とにかく憂鬱になる原因が多い時期です。

 それでも、梅雨は嫌なことばっかりじゃありません。軒先に咲いている紫陽花が映える時期になりました。紫と青の境目をした色合いが、あたしは好きです。今日もバイトに向かう途中、学校とアーケードの信号待ちで紫陽花を見てきました。


 仁科春です。

 二年目の高校生活。さすがに二年目となればペースもわかってくるし、日々をそつなくこなしているあたしにも、とある試練の時期が近づいていました。でもまあ、それはまた次の機会に。


 今日お話ししたいのはあたしのことではなく、マスターの奥さんのことです。

 以前、少しだけ話したでしょうか? マスターには奥様がいらっしゃいます。変わり者のマスターに添い遂げてくれる人がいるんだ、なんて、失礼なことを思ったのは内緒です。


 端的に言うと、「あの」マスターを尻に敷いてしまう人です。マスターとはまた違ったニコニコした微笑みが印象的な美人さんです。要するに最強なのです。どれだけすごい人かと言うのは、やはり実際に見たほうが早いと思います。


 慣れた道をローファーで走ります。水溜まりに思い切り片足をダイブしてスプラッシュ。けれどお構いなしです。女子高生たるもの、制服とローファーはステータスですから。雨の日だろうとレインブーツは履きません。スカート丈ともアンバランスになって、なんとなくカッコ悪い気がするから。オシャレなものもあるけど、あたしは意固地になって履いていません。


「こんにちは!」


 古風なベルが素朴な音を鳴らし、あたしは店内へ入りました。

 喫茶店メメント・モリ。

 相変わらず薄暗くシックな雰囲気、悪く言えば陰気な感じで、けれどそれが嫌いにはなれません、あたしは。この店に来る人もそんな物好きなんでしょう。


 普段なら、「ああ、仁科さん」というマスターの穏やかな声が聞こえてくるはずなのですが。何故か今日はカウンターにマスターがいません。


「あれ?」


 マスター。マスター?

 何度か呼び掛けますが、返事はありません。お客さんも雨のためか一段と少ないですが、それにしてもマスターが席を外すなんて。


「おう、嬢ちゃん」


 そう声をかけてきたのは円藤さんです。


「円藤さん、いらしてたんですね」

「ここ以外で新聞を読む気はねえからな」


 湯気の立っていないコーヒーをすすり、円藤さんは言います。


「マスターならいねえぞ」

「え? それはまたどうして」

「お前もわかるだろ。美樹みきさんだよ」


 円藤さんから出た言葉に、あたしは深々と頷きました。なるほど、奥さんがいらしているようです。

 美樹さんというのは、マスターの奥さんの名前です。円藤さんを始めとした常連さんは奥さんを下の名前で呼びますが、さすがにあたしにはそんな勇気はありません。

 奥さんは美人さんです。カールをかけたダークブラウンの髪と、くっきりした目鼻立ちが印象的な方です。目が大きいからアイメイクが一層際立つのです。


「マスター、何かしたんですか」

「昨日、美樹さんとの約束をすっぽかしたらしい」


 ああ。あたしは妙に納得してしまいました。それで今、マスターは奥さんにお説教をされているようです。そのために店を空けられるのってなかなかすごいと思いますが。


 あたしがさて着替えようかなとバックヤードに近づくと、ちょうどよく奥さんが現れました。お嬢様みたいな縦カールも、奥さんにかかればとってもおしゃれな髪型になります。

 奥さんはあたしを見るなりにっこりと笑顔を浮かべました。


「あら、仁科さん。こんにちは」

「こんにちは、奥さん」


 奥さんの笑顔が美術品みたいに綺麗で、あたしには眩しく感じます。こんな綺麗な人が一般人でいるんだな。そもそもこの人がマスターの奥さんだなんて人生わからないなと、あたしは見るたびに思ってしまいます。それくらい綺麗。美人。あたしもこんな大人になりたい。


「今日もバイトだったのね。けどごめんなさい、あの人、今取り込み中なの」


 お仕事の指示は後から受けてね、と言う奥さん。「はい」としか言えない雰囲気をまとっています。それは奥さんの天女のようなオーラもありますし、同時に有無を言わさぬ圧力もある……というのはマスター限定のようです。

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