The girl living there(2nd)

 本の行方をあたしは目で追いました。何の本を読んでいるか、中身が見えるかもしれないから。本はばさりと乾いた音を立てて木目調の床に落ち、中途半端に開いた形で着地しました。こちらからは背表紙とブックカバーが見える形。そこから床に向けて開いたものだから、残念ながら本文は見えません。

 でも、落ちた弾みでブックカバーは少しズレてしまいました。本の上の部分がちょっとだけ見えます。

 その文字をあたしは声に出していました。


「『七日町の彼女』……?」

「!」


 慌てた様子で円藤さんが落ちた本を回収します。あたしも手を伸ばそうとしたけれど、この体勢では間に合いません。あっという間に本は円藤さんの手に戻り、目にも止まらぬ早さでブックカバーはかけ直され、あたしが声を掛ける間もなく本は鞄のなかにしまわれてしまいました。


「ちょ、しまわないでくださいよ」

「うるせえよバカ!」

「ばっ……!?」


 まさか円藤さんみたいないい歳したおじさまから、バカって言われる日が来ようとは。え、この人四十代くらいに見えるけど、確かにだいぶフランクに話してくれるようになったけど、え?

 混乱するあたしとは対照的に、円藤さんは努めて冷静に、しかしぶつくさと文句を垂れています。


「お前にはデリカシーってもんがねえのかよ。俺が何読もうが」

「気になりますね」


 鶴の一声ならぬマスターの一声です。


「『七日町の彼女』がどんな本なのか? 今回はタイトルから推測してみましょうか」

「す、推測?」


 人生論よりは何倍もマシだけど、最早妄想のレベルじゃないですかコレ。というあたしの思いが伝わることはなく、マスターはどんどん話を進めていきます。


「タイトルと円藤さんの趣向から考えていけば、わからないということはありません」


 今回は一段と謎解きっぽいような、そうでもないような。どちらにせよマスターはやる気満々です。


「……好きにしろ。俺は何も言わねえからな」


 マスターの悪癖をあたしよりも理解している円藤さんは、諦めたように席を立ちました。入口付近のラックから新聞を持ってくるためです。

 カウンターにいたマスターは今日のテーマが決まったことに上機嫌なのか、軽いタッチで食器を洗い始めました。


「さて、まずは円藤さんの趣向を紹介しておきましょうか」

「知ってるんですか?」

「多少は」


 マスターの多少が本当に多少かは疑っていいところです。


「傾向から言うと、存外ロマンチストです」

「ふっ」


 思わず吹き出しそうになりました。あの強面でニヒルな円藤さんがロマンチスト? さっきあたしをバカ呼ばわりした、それこそデリカシーとは無縁そうな人なのに。本当ならおなかを抱えて「似合わない」と爆笑したいところです。

 でもそんなこと口にしたら円藤さんに何を言われるかわからないので、あたしはすんでのところで口を塞ぎました。円藤さんが怪訝そうな様子でこちらを見てきますが知らないフリです。


「バッドエンドよりはハッピーエンドが好みですね。ドキュメンタリーとかで感涙するタイプです」


 あたしの葛藤を知ってか知らずか、マスターは洗い物をしながら話を進めます。どんどんイメージとそぐわないマスターの解釈が飛んできます。

 ドキュメンタリーで感動って。大自然に生きるペンギンの一年とか見て泣いちゃうってこと? ますます意味がわからない。


「悲しいお話は嫌いなんですか?」

「進んでは読まないでしょうね」


 あたしの問い掛けにマスターは手を止めることなく答えます。ってことは、悲劇の可能性は除外できるわけよね。


「『七日町の彼女』が悲劇というのはなさそうです」


 あたしが思い至ったことをマスターは即座に口にしました。なんだか思考までマスターに読まれているみたいで、あまりいい気はしません。


「ロマンチストで幸せなお話かあ……」


 あたしがぽつりと呟くと、マスターが何やら嬉しそうにこちらを見ています。なんでなんで? そんな満面の笑みを浮かべられるようなこと言ったかな、あたし。


「……なんですか」


 慎重に尋ねてみますが、マスターはニコニコしたままです。


「仁科さんも自発的に考える姿勢が出来てきたな、と思いまして」

「勘違いですっ!」


 あたしは強い口調で否定していました。うまく言えないけど、このことだけは認めちゃいけない気がしたのです。

 あたしがマスターに毒されてるなんて、まさかそんなことは。


「で、マスターはどんな本だと思うんですか」


 無理矢理話を戻してみます。マスターは不服そうに見えなくもない表情をしていたけれど、あたしには無視すべき事柄です。

 そうですね、とマスターは呟いてから蛇口の水を止めました。

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