締切は守る/破るためにある
time limit(前)
「もう一度聞きます。今日は何日ですか」
こんにちは、仁科春です。
四月も終わりに差し掛かってきました。桜の花びらはあっという間に散り、青々とした若葉が芽吹いています。
あたしのアルバイト生活も早三週間。哲学好きのマスターには相変わらず振り回されっぱなしですが、何とかやっています。
この間初めて会った円藤さんとも少しずつ打ち解けて、あの恐い顔を見ても怯まない程度には慣れました。まさに順調、放課後の青春なわけですが。
「えっと……四月二十五日、です」
「で、〆切はいつでしたか」
「……四月、二十五日……いや、二十六日だったような」
「冗談言わないでください。蹴り飛ばしますよ」
何でしょう、この物々しい空気は。
店の奥、入り口からは一番遠いテーブル席に二人のお客様が座っています。一人は女性、もう一人は男性です。
女性はとても理知的に見える人です。お団子頭をスプレーでギチギチに固めて黒のスーツを着こなす、まさに「できる女」の代名詞みたいな人に見えます。
対して男性はとてもひ弱そうな人です。日の光を浴びたら消えちゃいそうな弱々しさを感じます。こちらはボサボサ髪に上下スウェットという、「ダメ男」の代名詞みたいな人です。
「
マスターがコーヒーを淹れながら言います。
「舞浜さんは作家、宝さんはその担当者なんです。近くに出版社があるのですが、打ち合わせをここでしているらしくて」
舞浜さんという作家さんが弱そうな男性、宝さんという担当さんがキャリアウーマン風の彼女、と。
そう言われるとなんだかそれっぽいです。見た目が真反対の二人がどうして喫茶店に一緒にいるのかと思いましたが、納得です。でなきゃ付き合いませんもん、あたしなら。
でも、様子を見るに……主導権は担当の宝さんが握っているようです。
「言いましたよね。〆切は厳守、一日でも一時間でも遅れてはならないと」
宝さんのドスのきいた声が店中に響きます。
「貴方にはその自覚がなさすぎる。一人の我が儘が他人にどれだけ迷惑をかけるか、おわかりですか」
うわあ、キツい言い方。言ってることはごもっともなんですが、もっと優しい言い方ができるのに、と思います。
「すみません……」
舞浜さんはうなだれるだけです。
「謝るなら原稿をください」
うわ、容赦ない。宝さんは脚を組み替えて話します。こう見ると本当に高圧的です。
「〆切は今日です、忘れたなんて言わせません。謝罪の気持ちがあるならさっさと仕事してください」
「う、すみません……」
舞浜さんはやっぱり謝るだけでした。
「なんだかピリピリしてますけど、いいんですか?」
この空気に耐えられなくなって、あたしはマスターに助けを求めてみました。
マスターはと言うと、レコードを取り替えているところでした。BGMがレコードというあたりもまた、年季の入った喫茶店のお約束かもしれません。
「マスター」
もう一度呼んでみます。するとマスターは私に気付いたようで、視線が合うと穏やかに微笑んでくれました。
「期日について考えてみましょう」
言ってることはまったく唐突でしたが。待って待って、この人は今なんて……
「何故人は期日を破るのか。期日は何のためにあるのか……今日はこれについて考察してみますかね」
「いや、あたしが言いたいのはそんなことじゃなくて!」
超哲学思考に入ったマスターを止めるすべはもうありません。奥さんがいればまだしも、マスターに丸め込まれるあたしではマスターをこちらに引き戻せないのです。
思考をするマスターは、まさに別世界の住人。違う世界に飛び込んだ人を、どうしてあたしが連れ戻せましょうか。
「いいんですか、あの人たち放っておいて」
あたしにはマスターの思考のお付き合いをする運命しか待ち受けていませんでした。
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