芸術家の潜伏
第51話 最後の絵
大きな蛾が電球の周りを飛んで鱗粉を撒き散らす。
シンナー臭い独房のような部屋の中でキャンバスに向かい合い、色を塗り込む。こんなに集中して絵を描くのはいつぶりだっただろうか。
潜伏してから1ヶ月程。未だに荻原殺人事件の話題はニュースで取り上げ続けているようだ。
月城警視は責任を問われ、辞職するのではないかと噂がたち始めた。責任感の強そうな彼ならば間違いなく辞職することを選ぶだろうから、あながち噂は的を得ているのかもしれない。
私は絵を離れた位置から眺めて全体のバランスを確認する。猛々しく燃え上がる炎の中、1人の男が中央で踊り狂う様は上手く表現できている。荒々しくのせた絵の具は臨場感を出せている。しかし、まだ足りない。これではまだこの男の感情を描ききれていない。
私はパレットを左手にとり、ペインティングナイフで赤い絵の具をおいて広げる。燃え上がる炎の様に無造作に、荒々しく。
「……っぐぁ!!」
色をキャンバスにのせて炎を描いた所で突然視界がぼやけて、吐き気と激痛に襲われた。
手に持っていたペインティングナイフは音を立てて地面に転がり落ちた。
パレットを小さなテーブルに置いて、私は部屋を出た。リビングダイニングに出ると、私に気がついたジョンソン山中が駆け寄って肩を貸してくれる。
「おい、大丈夫かよ」
「……っだ、大丈夫ですよ。まだね」
「顔色からして全く大丈夫にみえねぇな。ったく、あんなシンナーくせぇ部屋に籠ってりゃそうもなるぜ」
「はは、それだけでもなさそうですがね……。もう、余命わずかなのですから。すみませんが、闇医者を呼んでください」
「闇医者?この場所がバレかねないぞ?良いのかよ?」
「流石にこの体調のままでは、約束の日より先にくたばってしまいますからね。病状の確認も含めて、調べてもらいましょう」
「……わかったよ。しばらく待ってろ」
「ええ、頼みます」
ジョンソン山中は私をソファまで運ぶと、電波の繋がりやすい外へと出ていった。
ソファで横になると私は天井を眺めて吐き気と痛みに耐える事しかできない。
末期癌である以上、助かる見込みはないし、これだけの事件を起こしたのだから生きているつもりもない。しかし、まだ寝たきりには早い。もう少しもってくれなくては困る。あの絵も描き上げなければならないし、月城才児との最後の勝負もあるのだ。
「最後まで芸術家として……。それができれば。僕は……」
小さくうわごとのように呟いたとき、ジョンソン山中が戻ってきた。
「おい、闇医者だがすぐは来れないんだとよ。深夜3時まで待ってろだとよ」
「……そうですか。では、仕方がない。薬を飲んである程度症状を抑えましょう」
私はポケットから薬の入ったケースを取り出して、その中から強力な鎮痛剤を口に入れると飲み込んだ。
「これでしばらく大丈夫です。吐き気はシンナーにやられたからでしょうから、しばらく休むことにします」
「そこまでして描くほど、あの絵は重要なのかよ?」
「ええ、とても重要です。油絵としては、僕の最後の作品になるものですし、何より大切な贈り物ですから」
大切な作品なのだ。赤宮康介ではなく。山寺宏海として。
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