第3話 進んでいる腕時計

 こうして、捜査が始まった。

 夏目警部と秦野警部補はスーツに着替え、臣尻を連れて、藤沢駅から江ノ電を乗り継ぎ、海岸沿いの駅で降りた。

「あ~。娑婆に出たときの一番の空気が潮風とは、私はつくづく運がいいものです」

 悠々自適な臣尻を無視して、二人は黙って広い校舎に入っていった。

 今湘南国際学園中・高等部は大学の校舎で授業を受けている。ここにいるのは数人もの捜査員だけである。

「あっ、夏目警部、お疲れ様です!」

「いったいどうしたんですか、捜査に顔出さないで。殺人事件は警部の十八番じゃないですか」

 そういった部下のねぎらいが、夏目警部にはじんときた。夏目警部は、がぜんやる気が出て来たのであった。

「ごちゃごちゃうるせぇ。早く現場を見せろ」


 死体はプールにあった。当然、水は抜かれている。衣服の下に競泳水着を着ており、外傷はない。そのときの事情聴取を、夏目警部たちは始めた。


 部下の刑事は夏目に話し始めた。

「被害者である及川陽菜さんは水泳部の部長。朝練には必ず一番最初にプールにやってきて、自主練をするそうです。この日は彼女、プールの清掃当番だったので、なおのこと早くに登校したようです。そして、他の部員が来た頃には、もう及川さんは死んでいたそうです」

「朝練の開始時刻と、校舎に立ち入られる時間は?」

「水泳部の朝練は六時半です。校舎は職員玄関からなら、五時頃から入れます」

 そこへ臣尻が、

「ちょっと、よろしいですかね」

「な、なんだ君は」

 臣尻は構わず、

「プールに生徒を入れる際には準備がいりまた点検することが義務付けられているはずです。まず、水を張る時間、それから水温の計測と塩素による消毒、これらが必要なはずです」

「そうか、塩素で毒物を消毒するんだ!」

「秦野、お前帰れ」

「ええ……? いい着眼点だと思いませんか?」

 夏目警部に一蹴されて萎縮する秦野警部補。

「改めましてお伺いしますが、それらが完了する時刻は?」

 刑事はためらいがちに、

「おおよそ六時二十分です」

「六時……二十分。夏目さん、例の時計をお貸し願えますか?」

「あ? 勝手にしろ」

 夏目は乱暴に時計を渡す。臣尻はそれを凝視する。

「これ……」

 いつになく真剣な顔の臣尻を、秦野は珍しそうに見つつ。

「これ、五分進んでいますね……この誤差はどこから……?」

 そして臣尻はプールサイドの時計を見て、にやりとした。

「夏目さん」

「なんだ」

 臣尻は目を見開いて、

「間違いないです。この時計、まぎれもなく犯人の私物ですね……」

 夏目は、臣尻のその言葉に、突然どういうわけか全身の鳥肌が立った。なんなんだコイツは、と思ったのであった。

「何を根拠にそれを言う」

 しかしすかさず言葉を繋げるのを忘れない。

「この腕時計、五分進んでいるんですよ。そしてプールサイドの時計も五分進んでいる」

「つまり、時刻を班員はプールの時計に間違えて合わせたということか」

「臣尻さんは、もう犯人が分かってるんですか、いてっ」

 秦野警部補がゴマを擦るように言ってきたので、夏目警部はあたまをスパンと叩いた。

「いえ、さすがに犯人が誰かは特定できかねますが、だいぶん絞れてきました。夏目さん、湘南国際学園の関係者をおよびできますでしょうか」

「居丈高になりおって。おい、学園の職員を呼んで来い。あと、プールの管理者も召喚しろ」

「ああ、あと、もうひとつお願いできますか」

 夏目警部は舌打ちした。

「現場のオレアンドリンの成分の分布図があると思うのですが」

「ああ」

 その言葉には、夏目警部も珍しく同意の口調で語りだした。

「それは非常に重要な証拠だ。あそこのプールサイドから、プールにまで、放射線状に直線が何本もオレアンドリンの成分が描かれていた。恐らく犯人は、何らかの方法であのプールの塀の外から毒物を何かに添付して入れたのだろう。わしのセンだと、野球ボールか何かだ」

 夏目警部が指さしたのは、コンクリート塀とプールサイドの隙間だった。それは十センチ程度で、確かにここからボールを使えば毒物をプールに輸送することは可能だ。そこで、臣尻はもう一つ付け加える。

「夏目さん、球技のボールと言えば何を連想しますか?」

「なんだ藪から棒に。 ……まぁ、野球、サッカー、テニス、バスケ」

「その中で一番毒物をしみこませやすいのは?」

「なるほど、テニスボールなら考えられる。繊維にしみこませればいい。しかし、他のボール、例えばピンポン玉に穴を開け、毒物を注入するという手もあるが?」

「穴を開けようとしても気圧差と表面張力の関係で大きく穴を開けないと中身は出ませんし沈んでしまいます。もし沈むと、ピンポン玉の回収の際服が濡れ、怪しまれてしまうのではないでしょうか?」

「…………」

 完全に論破され、面白くなさそうに夏目警部は煙草に火を付けてふかす。

「というわけで、『高等部の生徒』で『学年首席』で『テニス部員』の生徒をついでにお呼びいただけますでしょうか」

「は? 学年首席?」

 臣尻は目を細めてにっと笑い、

「そうです。この時計は主席の生徒に送られる記念品です。犯人は、学力が随一と思われます」

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