3− Ⅱ その愛は、

 この世界の異物とも言えるヴィンツェンツ・フェルマーが、この世界に生きるかつての自分自身とすれ違ってから彼の意識は曖昧になっていた。夢遊病患者のようにその足だけを無意識下で動かし、次に彼の意識が浮上したのはカフェのオープン席でブラックコーヒーを喉へ流し込んだ時であった。口の中でコーヒーの苦味が広がっていく。

「あの頃は、ブラックなんて飲めなかったのにな」

 ポツリと誰に呟くでもなくヴィンツェンツはその言葉を口にする。そんな彼の呟きは朝の冷たい空気の中へと消えていった。雲ひとつなかった夜の星空へと地上の熱が奪われた世界は、シンと冷え切っていて。その冷たい世界の中、彼は幻影を見ていた。それは、。彼はその幻影にそう結論付ける。瀬波駿馬が生き続け得る世界の幻影に、ヴィンツェンツ・フェルマーは居なかった。この世界が彼の意識の中へ介入し見せる世界にはヴィンツェンツ・フェルマーは存在しておらず、瀬波駿馬は死ぬ事はなく彼が望み続けた宇宙へ切符を掴んだままその望みを果たしていた。


「シュンメが生きている世界に、ボクが居なければ……」


 世界が見せた警告は、ヴィンツェンツにとって警告ではなく天啓であった。恐らくこの警告は、これから彼がやろうとする事に対しての世界の答えだと、ヴィンツェンツは推察する。「彼を助ければ、お前は消える事になる」という警告。お前が瀬波と出会わなければ、お前が存在しなければ、瀬波はあの日死ぬ事がなかったというこの世界からのメッセージであると。世界を敵に回した人間の末路はきっと、その世界から消されることなのだろう。そんな事をコーヒーを片手に考えていれば、世界はまたひとつの幻影を彼に見せる。それは、彼の愛した男と、彼がよく知る少女が少しだけ成長した姿で並び微笑み合いながら同じ道を歩くイメージで。


「――ソフィは、生きてる」


 彼の養女であるソフィア・フェルマーが瀬波と並び歩くその幻影に、ヴィンツェンツは小さく微笑む。本当にそれがソフィアであるかは彼には関係なかった。その瞬間、彼が感じた事が全てであったから。ヴィンツェンツによく似たプラチナブロンドを風に揺らし、瀬波によく似たダークブルーの瞳を柔らかに細め、瀬波に向かって微笑みを見せる女性の姿は、彼にとって明るい未来であった。たとえ、その世界に自分自身が存在して居なかったとしても。世界の見せた幻影は蜃気楼のようにゆらりと消え去る。彼の視界に映るのは、知らない人間がコートを羽織り足早に行き交う路上に戻っていた。ヴィンツェンツはポケットから白と赤に塗り分けられた紙箱を取り出し、その箱から一本の紙筒を抜き取る。使い込まれた銀色のイムコをポケットから取り出せば、軽く咥えた紙筒の先へと火を灯す。肺一杯にその煙を吸い込んだ彼は、ひと息でそれを吐き出した。呼気が冷たい空気に触れて白く吐き出されるそれと共に吐き出された紫煙は、明け方の晴れ切った空へと消えていった。紙筒から空へとたなびく煙を愛おしげに見つめた彼は、口元にだけ笑みを浮かべる。この後、彼が何もしなければ瀬波は数時間後に死の旅路へと足を踏み入れる。世界は彼へ「何もするな」というメッセージを送り、彼はそのメッセージを受け取った。それでも彼は雲ひとつない青空を意思の強い瞳で見据える事をやめなかったのだ。


「悪いけど。この愛は、エゴイズムなんだ」

 しっかりとしたその言葉は、ヴィンツェンツからこの世界に対しての宣戦布告であった。静かに口元に笑みを浮かべ、短くなったタバコを灰皿へと押し付ける。

「シュンメがボクを生かしてくれた。シュンメが生きていてくれれば、ボクはどうなったって――世界がどうなったって構わないんだよ」


 最期の懺悔のように、一人空へ向かって告げたヴィンツェンツの表情に、迷いなど存在してはいなかった。

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