3− Ⅰ 変わり始めた世界

 暗がりの中でその瞼を上げた彼は、隣で静かに寝息を立てる瀬波の腕の中からするりと抜けだした。性に塗れていた筈の身体は軽く清められていたが、最奥に残っていたのであろう瀬波の残滓の気配に彼は小さく眉を潜める。床に脱ぎ捨てられた自身の衣服を一つづつ拾い上げて向かうのはバスルームで、暗闇の中でも彼は方向を誤る事もない迷いの見えない足取りでその場所へと進んでいった。脱衣所に服を置き、熱いシャワーで情事の残滓を流していけば彼の心に浮かぶのは後悔という文字である。懐かしく愛おしい男の腕の中で得た束の間の幸福は束の間のものでしかないという後悔。自身の名前すら彼に伝える事が出来ないという後悔。

「抱かれるべきじゃ、なかったかな」

 自嘲気に漏らされた言葉を聞くものも、その言葉に答えるものもいなかった。という人間は、今この世界に二人いる。しかし、瀬波の恋人であると大手を振って歩けるは決して熱い湯に打たれ自嘲気に笑う男ではなかった。瀬波よりも歳をとってしまった自身の存在に困ったように笑った男は頭上から降りしきる湯を止める。棚の中に入っていたバスタオルを拝借し、身体を拭けば喪服のような黒い衣服を再びその身に纏うのだ。

「さよなら、ボクのポラリス」

 彼はリビングに置かれたベッドの上で静かに寝息を立て続ける瀬波へ静かにそれだけを告げ、黒いコートを纏いリビングに背を向けた。

 

 勝手知ったる家というのは、都合がいい。と小さく呟いた男は勝手口から瀬波の家を後にする。彼はこの家の勝手口がオートロックになっていることも知っていた。そうすれば自身の痕跡を全て消して瀬波の前から消える事が出来る。そんな身勝手な思いから立ち去ったその家から街中へとゆっくり足を進める。夜の闇に塗り潰されていた空はゆっくりと白み始めていた。冷たい風が乾ききらなかった彼の髪を凍えさせる。ドライヤーなんて使えばきっと瀬波は起きてしまっただろう。湯冷めしそうな自身の身体を抱きしめて男は足を進める。もう少し歩けばきっと、街で一番早くから営業しているカフェがある。そうあたりをつけて黙々と足を動かせば、彼はひとりの青年とすれ違った。

「――え、」

 彼とすれ違った青年は男と同じ金色の髪とライトブルーの瞳を持っていた。その作り物めいた美しい姿をした青年は、よく似た造形をした男の事など眼中にもないように男が元来た方向へと駆けていく。青年と男の違いといえば年齢の差くらいなものであった。どこか嬉しげに駆けていく青年の後ろ姿を信じられないものを見るかのように見つめていた男は、世界が男が知るそれと少しだけ変わり始めている事を感じると同時にあの家を早くに出るという自身の判断が正しいものだったことを知ったのだ。

「ヴィンツェンツ・フェルマー、?」


 その青年はこの世界で生きている男の過去であり、瀬波駿馬の恋人であった。そして、男が生きたこの世界の記憶ではこの時間にこの場所にいる筈がない存在であった。

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