2− Ⅲ それはまるで、幽霊のよう

 瀬波がその瞼を上げた時、隣に居ると思っていた体温の主は居なくなっていた。一人寝には広いダブルベッドの片側で、瀬波は素肌に擦れるシーツとベッドカバーの感触を感じる。眠りの浅い方であるという自覚がある瀬波も気付かぬ間にベッドの上から姿を消していたトキは、瀬波にとって幽霊のようにも感じられた。元々人間らしさが少ない男であったのが、その感情に拍車を掛ける。しかし、昨夜の情事で放たれた体液で汚れたシーツがワンナイト・スタンドが夢ではなかった事を瀬波に教えていた。心地よい気怠さを孕んだ身体を起こし、脱ぎ捨てた下着だけを纏った瀬波はシーツとベッドカバーを変えてから洗濯物と化したそれらを抱え、コーヒーメーカーのスイッチを入れてから地下へと向かう。地下に置かれた洗濯機にそれらと洗剤を無造作に入れ、洗濯機のスイッチを入れる。洗濯機の作動音と水音が静かに響いている事を確かめれば、彼は乾ききった洗濯物の一部を手にし地下室を後にする。そうしてやっと彼はシャワールームへと向かうのだ。蛇口を捻ればシャワーから暖かい雫の束が程よく筋肉が付いた長身の身体に降り注ぐ。生々しい汗と性のにおいを洗い流しながら、彼は昨夜の情事を思い起こす。どこか恋人に似たその男は、瀬波の下で、そして上でその白い肢体を艶めかしく動かしあられもない声を上げて幾度も果てた。その光景は美しく、快楽に溶けたライトブルーの瞳からは一筋の涙を零す男は、瀬波の好みを知り尽くしているように肢体を動かし、喘声を上げていた。彼は瀬波の恋人によく似た動きで瀬波の精を絞り取っていた事を思い出した瀬波は、少しの違和感と、多大な充足感を覚えていた。シャワーを終えて幾分かサッパリした気分で地下室から持ってきた洗い上がった衣服を身に纏った瀬波は抽出が終わったコーヒーをマグカップに注ぎ、ストックされていた食パンを軽くトーストする。

「朝まで居たら朝食くらいご馳走したんだけどな」

 ポツリと零した不満に答える者は誰もいない。幽霊のように消え去った人形のような男に「俺の料理は自慢じゃないが美味いぞ」と答えが返ってこない言葉を告げればトースターが返事をするかのようにパンが焼けた事を報せる。焼きあがったトーストを皿に置き、冷蔵庫の中で出番を待っていたジャムを軽く表面に塗りつける。サクリと音を立てながらトーストを食べ、マグカップに満たされた砂糖もミルクも入っていないコーヒーを啜る。一夜の情事から日常に戻っていく事を感じた瀬波は、小さく笑いながら恋人が帰ってきたら親戚に恋人と同じような金髪碧眼の男が居ないか聞いてみようと思い付く。そして、昨夜出逢ったトキが居るのであれば年明けに同僚になる事を教えてやろうと心に決めたのだ――帰省している彼の事だ、そうであれば既にその事を知っていて驚いたようにあの男と同じライトブルーの瞳を丸くして「なんで知ってるの?」と訊ねてくるだろう所まで想像して一人で笑みを漏らす。大人の中で育ったからか、年齢よりも大人びた振る舞いをする歳下の恋人である青年の子供っぽい所を見るのが瀬波は気に入っていた。それは、自分の特権であるとすら感じていたのだ。そんな時であった、ガチャリと玄関のドアが開いたのは。


「ト――」

 昨夜の相手であった男の名を呼び朝食を誘おうとした瀬波の口から出たのは彼の名前の一文字だけであった。男の名を呼ぶ寸前で飲み込んだその言葉を「驚いたな」という言葉に言い換えた瀬波は、ドアから人形のように整った顔を見せる男に笑いかける。ドアを開けリビングへと足を踏み入れたその男は昨夜の男よりも若く、若い分だけより人形のような造形をした青年であった。彼は美しく輝くライトブルーの瞳を嬉しげに溶かして笑みを浮かべながら口を開く。

「実家が面倒くさくなって帰ってきちゃった」


 青年のその瞳は昨夜の男のものとよく似ていたが、男の感情のないガラス玉のようなそれとは似ても似つかないものであった。

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