2− Ⅱ 涙の意味

 バーから歩いて数分程の場所に、瀬波が住む家はあった。ボマージャケットのポケットから鍵を取り出した瀬波は玄関の鍵を開き、ホテルのドアマンの如くそのドアを開けたままトキへ室内に入るよう促すのだ。瀬波の芝居がかった行動に、トキは小さく笑ってそのドアを潜り抜けてその家の中へと足を踏み入れる。月の光が差し込む部屋の中で、トキの背後に居た瀬波がリビングを照らす照明のスイッチをカチリと鳴らせば広々としたリビングが明るく照らされる。1階の殆どをダイニングキッチンとリビングへと割り振ったその空間を珍しいもののように視線を巡らしたトキは「面白い間取りですね」と小さく笑う。天井を見上げれば吹き抜けになっており、天窓には丁度いい場所だとでも言うかのように月が浮かんでいた。

「そんなに珍しくはないと思うけど?」

 コートを脱いだトキへソファを勧めながらもキッチンに向かった瀬波は、エルディンガーの瓶を数本と二つのグラスを持ってリビングへ戻りソファに座るトキの隣に腰を下ろす。隣に座る瀬波の言葉にトキは「あれは、珍しいでしょう?」とクスリと笑った。彼があれと呼称したのはソファの後ろに置かれたダブルベッドである。本来であれば寝室に置かれている筈のそれがリビングのスペースを占用しているのはワンルームのアパートでもない彼の家では異質にも感じられる。

「あぁ、仕事が忙しくてよくソファで寝落ちしてたから、それならベッドを持ってこようと思って」

 帰ってすぐにベッドに飛び込めるのは楽でいいんだ。と続けられた言葉に「あまり褒められたものでもない気がしますけど」とトキは笑う。瀬波は二人分のグラスにエルディンガーを注いでいた。瀬波が店で飲んでいたヴァルシュタイナーよりも濁りのあるエルディンガーは控えめに甘く香るヴァイスビアで。トキに片方のグラスを勧めれば、瀬波は上機嫌で自身の手にあるグラスの中身を呷るのだ。そして、瀬波は出逢った時と同じようにちらり、とトキを見つめるのだ。勢いをつけて呷るでも、少ない量をちびりと飲むでもなく、店に居た時から変わらないペースでグラスを傾ける美しい男の横顔は、どこか寂しげなものであった。その表情の理由を知りたいと、横目ではなくその正面から彼の横顔を見つめるに至った瀬波の視線に、トキも隣で自身を見つめている瀬波に向けて視線だけをゆっくりと向けるのだ。トキの工芸品のように透き通ったライトブルーの双眸そうぼうには、感情の色は滲んでいなかった。人形の瞳が向けられているような居心地の悪さを感じた瀬波は、わざとらしい笑みを浮かべながら「気づかれたか」と口を開く。

「そりゃぁ、気付きますよ。そんな熱烈な視線を向けられればね」

 瞳に感情を浮かべる事なく、口元だけでうっそりと笑うトキは「それに、話を聞きたいって言う割にはさっきの店の続きを強請らない」と言葉を重ねる。彼の言葉に瀬波は「そう言われてみれば、そうか」と空になったグラスにエルディンガーを注ぎながら言葉を重ねる。「あんたの事が気になっただけだ。家に連れ込みたくなる程度にさ」瀬波の言葉にふぅん、と小さく頷いたトキは部屋を見回しながら「でも、一緒に住んでいる人が居るんじゃない?」と挑発するような調子で瀬波に言葉を返すのだ。

「大切なウサギちゃんが一人な――でも生憎彼は帰省中だ」

 しっかり『彼』と言葉にした瀬波はトキへ言外に恋愛対象は男である事を告げながら、彼のアルコールで紅潮した頬へと節くれ立った指をそっと這わせる。「俺とあんたが口を噤めば、よくあるワンナイトスタンドだろう?」そう言って笑う瀬波の指を払いのける事はせず、トキは「慣れてるんだ」と揶揄う調子で瀬波に告げた。するりとトキの頰を撫でた瀬波は彼の左手を取り、その薬指に光るプラチナに唇を落とす。「これ、外さなくていいのか?」白く細い指に輝くプラチナを示しながら問う瀬波の言葉にトキは口元だけの笑みを深めた。

「外さないよ。これは外しちゃいけないものだから」

 そう言いながら瀬波の手の中から魚が逃げるように指を引いたトキは黒のタートルネックとアンダーを一気に脱ぎ去り何も纏ってなどいない上半身を瀬波に見せつける。リビングのライトに照らされ輝くライトブルーの瞳に僅かに感情の色が浮かぶ。トキはその感情を瀬波へと悟らせないように、男を誘い込むような言葉を紡ぐのだ。

「ねぇ、ベッドまでは徒歩移動でもさせるつもり?」

 そう言って瀬波の首元へ白く細い腕を回すトキの頰に自身の頰を擦り付けた瀬波は、彼の背中と膝裏に回した両腕でトキを軽々と持ち上げる。そうして数十歩足を進めた先にあるダブルベッドに掛けられた青いベッドカバーの上に宝物を置くように静かに彼を下ろすのだ。そうしてやっと、二人は深い口付けを交わした。深く長い接吻の最中さなか、ライトブルーの瞳から溢れた一粒の涙の意味など瀬波は知る由もない。

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