2− Ⅰ その出逢いは必然

 その美しい男は、彼が常連となっていたバーのカウンター席で静かにコリンズグラスを傾けていた。ドアに掛けられたベルは彼がドアを動かすと共にその役目を果たすように金属のまろい音を立て、カウンターの向こうに立つ若いバーテンは彼の姿を認めて口元だけで笑みを浮かべる。そして、彼の視線はカウンターに座る男の後ろ姿へと吸い寄せられるかのように注がれる。喪服のように黒いタートルネックのセーターを着た男は、カウンターの影になった足元まで黒くまるで足のない幽霊のようにも感じさせられるようなものであった。その中で店内の暖かな色をした照明に照らされたプラチナブロンドだけが淡く透き通るように輝いており、その淡く柔らかそうな髪のせいか彼のよく知った青年を想起させるのだ。まるで運命のように男の隣はひと席だけ空いており、彼は歳若いバーテンに視線を投げる。彼の視線が言わんとする事に気付いたバーテンは、小さく肩を竦めてその空いた席にコースターを置いた。男の隣に静かに身体を滑り込ませた彼は、ヴァルシュタイナーを注文する。グラスに注がれたドラフトが即座に彼の前に置かれればその中身を一気に呷りながらちらり、と隣の男を盗み見る。静かにコリンズグラスを傾ける男はその空間とは別の次元にいるかのように周囲を気にすることもなくその場に座っていた。ヴァルシュタイナーが半分程に減ったグラスをコースターの上へと戻し、再び彼は男へと視線を投げる。男は心ここに在らずとでもいうかのように正面をぼんやりと見つめていた。その整った横顔はまるで人形のようで、美しい造形に刻まれた年齢を感じさせる多少の皺だけがその美しい男を人間たらしめていた。恐らく歳上だろう男の横顔に、きっとアイツも歳を取ったらこうなるのだろうか。と今は近くに居ない彼の恋人となった青年の事を思い浮かべていた彼へ、不意に隣に座る男からの視線が投げられた。彼のダークブルーの瞳の中に男の姿が映り込むのと同じように、細いチェーンが付けられた細身のシルバーフレームに囲まれた薄いレンズの向こうで驚いたように見開かれる美しいガラス工芸のようなライトブルーの瞳の中に彼が映り込む。たっぷり数秒間、瞳の中に互いの姿を映しこむかのように沈黙の中見詰め合った二人の沈黙を破ったのは、我に返ったダークブルーの瞳を持つ男の声であった。

「失礼、知り合いに似ていたもので」

 言い訳のように男へとそう告げた彼は、その言葉と共に男から視線を少しだけ外す。彼の言葉に男は小さく口元だけで笑みを浮かべて「僕も、あなたが知り合いに似ていて驚いてしまいました」と告げる。そんな男の言葉に彼は破顔する。

「そんな偶然があるんですね。俺はシュンメ。シュンメ・セナミ」

 笑いながら自身の名を名乗った瀬波は男へ右手を差し出す。その差し出された右手に視線を投げた男は、少しだけ悩むように視線を巡らせてから「です」と名乗りながら瀬波の右手をそっと握った。

 

 トキと名乗った美しい男の話は、瀬波にとって有意義な時間となった。出張でベルリンを訪れたというトキは、瀬波と同じ航空宇宙工学を専門としていたのだ。年が明けてから瀬波の勤める研究所に行く事になっていると告げたトキに瀬波はそんな予定があっただろうかと首を傾げたものの、そんな事は些事であると思える程にトキが語る新たな技術の話は瀬波の興味を引いたのだ。気付けば瀬波はヴァルシュタイナーを重ね、瀬波の前に置かれるグラスの形状は変わっていた。ロックグラスに変わり、その中にはグレンエルスが満たされていた。トキはアルコールで少しだけ上気した頰の他は変わる事なく、彼の手に包まれたコリンズグラスの中身は数杯目のジン・フィズであった。

「なぁ、家に来ないか? もっと話したいんだ」

 グレンエルスを飲み干した瀬波は数時間前よりも砕けた調子でトキへと告げる。そんな瀬波の誘いにコリンズグラスを空にしたトキは口元に微笑みを浮かべながら静かに頷く。

「いいですね、折角こんなに話が合う方と会えたんだ。瀬波さんが良ければ是非」

 瀬波の誘いに応じたトキはポケットの中からマネークリップを取り出しバーテンへと声を掛ける。そしてその洗練されたトキの動作を瀬波はそっと制するのだ。馴染みのバーテンが口にした料金に上乗せをした額を瀬波はポケットから取り出した札で支払う。呆れたように笑みを浮かべたバーテンにそっとウィンクで返した瀬波はトキへと視線を向けながら「講演料くらい払わせてくれよ」と楽しそうに笑みを浮かべた。

「歩いて少しの所にあるんだ」

 来た時と同じようにドアに下げられたベルを鳴らしながら、瀬波はトキへと告げる。黒いコートを羽織ったトキと襟元だけボアが付いた革製のジャケットを羽織った瀬波は、二人で並んだままに夜道へと消えていった。

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