予言通りに

「なんでなんだよ」

「なんでお前じゃなきゃいけないんだよ」


 放課後の少し緩んだ時間が流れる、嘉祥と庄司以外に誰もいない教室で、庄司はぽつりと呟いた。その一言は彼の傷ついた心象を表すように悲惨に掠れて、空っぽになった空虚を示しているようだった。

 庄司は名波にフラれた。それも一時間前に。それすらも先見通りに進んで少々、面白くないと感じてしまう自分がいて自己嫌悪に陥る。


「なんで! お前じゃなきゃいけないんだよ!」


 胸元を強引に手繰り寄せられて、首が大きく後ろに傾く。あぁ、どうせ修復できないのだろ。どう足掻いたって、どう転んだって、この結果は見えている。

 庄司の血走った目が見えた。その瞳に映る自分はとてつもなく面白くなさそうな、退屈そうな顔をしている。ついでに庄司の目頭から涙が溢れるのを視認できた。なぜだろう、親友が目の前で怒って、狂って、そして泣いているのに俺の心はちっとも動きやしない。どうしてだろうと、場違いにも原因を考えていた。

 俯瞰的に教室を見ながら考える。


 あぁ、そうか。この先のことを考えているからだ。いつからだろう、どんな未来が待っていたとしても、どれほど絶望が見えても心が動じることがなくなってしまったのは。


「ごめん」


 無意識的に溢れでた謝罪の言葉が教室に響いた。教室の壁に反射して鼓膜に戻ってみると、とってつけたような形式だけの心のこもっていない謝罪の言葉であることに気がついた。

 一瞬、目の前の瞳が揺れるのが見えた。揺れた、動揺、ではなく、何か別の感情によって。次に彼の瞳が体温を失っていくのを感じた。揺れた虹彩は、どんどん侮蔑の色へと変わっていき、胸元を手繰り寄せていた腕が力なくだらんと落ちていく。


「あ、そ」


 そういって、庄司は嘉祥に背を向けて歩き出した。二度と振り向くことなく、歩き出した。彼の背中をただじっと見つめていた。彼の背中は何かが抜け落ちたように空虚で頼りなさげにふらふらと浮遊していて、その光景を見た嘉祥は胸の奥がジクリと痛む錯覚を覚えた。

 バタンと大きな音を立てて教室のドアが閉まる。その音を合図にして、再び静寂が蔓延るように広がっていく。


「ごめん」


 嘉祥は一人で呟いた。ただ胸に巣くった自己嫌悪と、ジクリと痛んだ傷に任せて、無責任な謝罪をした。


「ごめん」


 静寂を内包した教室に空虚な謝罪が反響する。

 謝罪は反響して返ってきても、嘉祥を許そうとする赦しの声は帰ってこなかった。


***


『屋上に来て』


 走り書きのような乱暴な文字でそう書かれたメモが玄関の下駄箱の中に入っていたのは、嘉祥が庄司と喧嘩して一週間ほど経った頃だった。

 嘉祥は庄司以外とあまり交流をしていなかったため、昼休みは一人で時間を食い潰すことになった。そして、名波が学校に来なくなった。

 嘉祥が喧嘩して、三日程経った後から名波が学校に来なくなった。


 誰が書いて、そしてどんな内容を話すのかもわかりきっている。俺はただ、未来に沿った返答をするだけだ。


 そう考えて、少しだけ胸の奥が疼くのを感じたが、それは気のせいだと誤魔化して嘉祥は屋上へと向かう。放課後の喧騒、部活生の怒号に近い声、教室の賑やかな喋り声、バタバタと忙しなくリノリウムの床を叩く上履きの音。それらが全て段々と音量を下げていくのを感じながら歩く。

 あぁ、虚無だ。虚妄の世界だ。ここには内包されていない、俺の知っている本当はきっと水面下で静かにゆっくりと、しかしながら陰惨に進行していく筈なのに。


 人はなぜ嘘をつくのだろうか。いつかはバレる、いつか自分がその重圧に耐えきれなくなり、自ら自白するというのに。人は、なぜ嘘をつく。

 結局のところ、嘘という背徳感に酔っているだけなのか。それとも、ただ嘘を建前とする社会に淘汰されないために。考えていると、どんどん自分という価値が侵食されていくような感覚がして、それが大層気持ち悪くて、考えるのをやめる。


 階段を上がっていくと段々と音量の下がった喧騒が完全に無くなっていくのを感じた。屋上の扉を開けた。

 扉の向こうの正面、屋上のへりに腰掛けるようにして彼女が座っているのが確認できた。今日も授業に参加しなかった彼女は本を読んでいる。「二十歳の原点」を読んでいる。

 あぁ、彼女はもう決めてしまったか。


「旅に出よう、テントとシェラフの入ったザックをしょい、ポケットには一箱の煙草と笛をもち、旅に出よう。

 出発の日は雨がよい、霧のように柔らかい、春の雨の日がよい。萌え出た若葉がしっとりとぬれながら。

 そして富士の山にあるという、原生林の中にゆこう。

 ゆっくりとあせることなく」


 彼女は今気づいたようにゆっくりとぼくの方へ視線を向ける。


「お母さんが死んだの。前から病状は良くなかったけど、癌で死んでしまったの。わたしは泣けなかったわ、もう見えていたから。母さんが苦しまずに死んでいくところを何回も何回も見て、その度に母さんは私の髪を愛おしいように撫でるの。勿論、その時も母さんはそうしたわ。慈しむような、そんな顔をして苦しまずに死んだわ」


 彼女は一度、途切れて息を吸い込む。彼女の、以前より短くなった髪が微かに揺れた。


「独りでいること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」


 独り言でそう言った。瞳は、何か抜けたように感情が切除されていて、無感情で、そして美しかった。


「死にたい」


 短く、そう呟いた。独り言ではなく、本心で、嘉祥に向けてそう呟いた。唇が少し震えていた。きっと、孤独で、寂寥に駆られて震えていた。


「私、君のこと、嘉祥のこと、好きだったよ」


 彼女が無理矢理に微笑を作ってそう言った。言っても、未来は変わらないというのに。

 俺たちは、結局交わらない。

 きっと人生にはレールが敷かれていて、その上を外れることなく走っていくことしかできないのに、それがどれほど残酷なことなのかも俺たちは知らない筈なのに。きっとレールを外れることはできなくて、外れるのはとても怖くて、だから人は俯瞰的に、悲観的に人生を見ることしかできない。それは嘉祥も同じことだった。

 だから俺は、未来に沿った返答をする。



「死んでも、いいよ」


 少しだけ、胸の疼きが強くなった。

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