国王陛下はご在宅ですか?

小高まあな

第1話

 昔、彼は私の従者だった。

「ナーちゃん、ナーちゃん」

 と、私のあとをついてまわっていた。

 そんな時も、あった。


 私が生まれたとき、母はせっかくの女の子だから、可愛いお洋服を着せて、一緒にお買い物して、お料理を教えたいと願ったらしい。

 しかし、そんな母の願いに反して、私は、それはそれはお転婆な娘に育った。

 幼い頃、母は私に強引に絵本の読み聞かせをした。綺麗で可愛いお姫様の物語。お姫様に憧れなさい、ということだったのだろう。

 けれども、母はわかっていない。

 物語の末の姫様は、大体が聡明で優しくしておしとやかだが、それは彼女の兄達が優しいからだ。年の離れた兄が居て、甘やかして守ってくれている。

 現実は違う。年子で続いている三人の兄達は、私を可愛がったりしなかった。別にいじめられていたわけでもないが、甘やかしたりはしなかった。

 それでも私は兄達が好きで、よく兄達と一緒に怪獣ごっこなんてしていた。お菓子の取り合いはいつだって全力の殴る蹴るだった。おしとやかに育つ訳がない。

 そんな男勝りの性格で、口も達者だったから友達に嫌われることも多かった。でも、懐かれることも同じぐらい多かった。イジメっ子とかにも立ち向かっていったりしたから。

 実はあれ、正義感にかられてやったわけではなく、年上の兄には勝てなくても、同い年なら勝てるだろうかっていう実力試しだったんだけど、それは墓場まで持って行く秘密だ。

 彼も、勘違いして私に懐いた一人だ。私のあとをついてまわっていて、鬱陶しい時もあった。自分からいじめっ子にかかわって、結局泣くところもうざかった。でも、ぶっちゃけ、見た目だけなら美少年だったから悪い気はしなかった。人に好かれることは、不快ではなかった。

 彼は私のあとをついてまわり、私の我が侭を聞いてくれた。掃除当番を代わることも、お菓子をくれることも。あまつさえ、

「僕、ナーちゃんと結婚する!」

 なんて言って、さらにからかわれたりもした。私は彼の前ではお姫様よりも、強くて権力のある女王様として君臨していた。

 でも、それも今は昔。

 小学校の四年生ぐらいになると、急に、男女間の友情が消えた。少なくとも、目に見えるところに一対一の友情は置かれなくなった。男女二人でいるとからかって囃し立てられることが多くなって、それがうざったくて私は彼から距離をとった。彼の方がどう思っていたのかは、今となっては定かではない。

 そのまま、なし崩し的に疎遠になった。

 従者を失った私は、我が侭を言うことが少なくなり、小学校を卒業し、中学生になり、それももうすぐ終わり。もうすぐ高校受験だ。

 この数年、私は彼の姿を見ていない。

 彼の姿を見ていないのは私だけではない。同級生達も恐らく見ていないことだろう。

 なぜならば、かつての従者は気づいたらひきこもりの不登校児になっていたからである。

 理由はわからない。


 そんな従者から連絡がきたのは、数日前だ。

 塾に通うようになって買ってもらったケータイに、見知らぬ番号からの着信。番号を見る限り、家電からだった。

「はい?」

 電話の向こうはなかなか話し出さない。息づかいだけ聞こえる。悪戯電話だろうか、と切ろうとしたとき、

「……ナーちゃん」

 小さい声で呼ばれた。

 声が私の知っているものよりも低くなっていて、男の人の声で、どきりとした。それでも、従者からの電話だとわかったのは、今、私をナーちゃんと呼ぶ人が他にいないからだ。中学に入ってから皆、私のことは夏菜と名前で呼ぶようになっている。

「えっと、久しぶり」

 慌てて言葉を紡ぎ出す。

「……うん」

 電話の向こうで、こくり、と彼が頷くところが想像出来た。でも、その姿は小学生のときでとまっている。

「電話番号、なんで知ってるの?」

 会ってもいない、連絡もとっていない。寧ろ私がケータイを持ちはじめたことだって知らないだろう。

「……お兄さんから。ママ経由で」

「そっか」

 未だにママ呼びかよ、とか思ったけれども、つっこまないことにする。

 沈黙がやってくる。

「何の用?」

 ちっとも話出さないから痺れを切らしてそう尋ねると、

「……うちに来て」

 小さな声でそう言われた。

 そこからなんとか会話を広げて、約束をとりつけたのが、今日のこの時間だ。

 久しぶりに訪れる従者の家を見る。綺麗な一軒家。幼稚園から小学校の低学年ぐらいまでは、よくこの家に遊びに来ていた。いつ以来だろう。そう思いながら呼び鈴を鳴らす。

「夏菜ちゃん」

 少し微笑みながら出て来たおばさんは、記憶にある顔よりもずっと老け込んでいて驚いた。母よりも若くて綺麗だったのに、今じゃ母よりも年をとって見える。

「えっと、お久しぶりです」

 じっと顔を見てしまったことに気づき、慌てて頭を下げる。

「わざわざごめんなさいね、あがって」

 促されてあがる。部屋の中は、前とあまり変わっていなかった。

「今日はありがとう」

 おばさんが力なく微笑む。

「いえ」

「あの子が、誰かに会おうとするの、久しぶりなのよ。……もしかしたら、ああなってから、その、初めてかもしれない」

 なんと荷が重い告白だろう。

「……そうですか」

 私は曖昧に笑って頷いた。

「……あの、なんで、その」

「ひきこもっているか?」

 言い淀んだ私の代わりに、おばさんが言う。私は頷いた。

「それがわからないのよ」

 おばさんはやっぱり困ったように笑いながら答えてくれた。

「聞いても教えてくれないの。そもそも会話をしてくれないの。……何を間違えちゃったのかしらね」

 おばさんの声が少し上擦って、私は咄嗟に目を逸らしてしまった。大人が泣くのは苦手だ。苦しくなる。不安になる。

「……ごめんなさいね」

 私の態度に気づいたのか、おばさんが一度手で目頭を押さえてから、微笑んだ。

「あ、いえ」

 そこから言葉が続かない。

「……あの子の部屋、今も二階なのよ」

 それを見ておばさんが、部屋まで案内してくれた。昔よく来た従者の部屋。

 おばさんがノックする。

「夏菜ちゃん、来てくれたわよ」

「……入って」

 ノックからしばらくの間を置いて、そういう声がした。

「……ママは来ないで。下に居て」

 それからその声が付け足した。

 おばさんが困ったように扉と私を見比べる。

「平気です」

 私はおばさんに頷いてみせた。

「ごめんなさいね」

 おばさんが頭を下げる。大人にここまで下手に出られると、どうしたらいいかわからない。

 何かあったら大声だしてね、とイマイチ自分の息子にたいする信頼感のない言葉を残して、おばさんは階下に降りて行った。

 扉の前で一つ深呼吸。

 覚悟を決めて私はドアノブに手をかけた。

 ぎぃっと音がしてドアが開く。

「ナーちゃん」

 部屋の中、勉強机に座った従者が笑う。

「……久しぶり」

 私は笑い返した。

 久しぶりに見る顔は、それ相応に年をとっていた。大人っぽくなっていた。当たり前だ。だって私達は成長期だもの。

 でも、笑った顔は、笑った時の皺のより方とか、唇のあがり方とかは昔のままだった。

「ドア、しめてもらっていい?」

 彼が言う。

 私は少し悩んでから、ドアを後ろ手で閉めた。閉めたドアに寄りかかる。

「座れば?」

「ここでいい」

 彼の提案を拒否する。

 かつての従者だ。信頼していないわけではない。ないけれども、会うのは久しぶりなのだ。会うのが久しぶりの、ずっとひきこもっていた異性と二人っきりで部屋の中にいる、というのはそうそうあることではない。決して信頼していないわけではないけれども、逃げ道を確保していたい。

「そっか」

 彼は気を悪くした様子も見せず、笑った。

 部屋の中も、彼も、意外と綺麗で驚いた。ひきこもりっていうのは、もっと散らかった部屋で、不潔な状態でいるものだと思っていた。

「今日は、どうしたの」

 問いかける。

 彼の後ろ、机の上に置かれたパソコンがジジジっと音を立てている。部屋の電気はついていないし、カーテンも半分閉まっているから、主な光源はそのパソコンだ。

「ナーちゃんに会いたくて」

 そういう彼の口調は昔のままだ。ナーちゃんと結婚したい、と言っていた、あの時のまま。成長していない。

「ナーちゃんに見せたいものがあるんだ」

「見せたいもの?」

 久しぶりに会う彼が、私に見せたいもの? ひきこもりの彼が、私に見せたいもの? まったく、想像できない。

「そう。あのね、僕ね、ナーちゃんと一緒に暮らしたくて頑張ってたんだ」

「一緒に暮らす?」

「覚えてる? 吉野君」

 吉野姓の知り合いは何人かいるが、彼が言う吉野君は小学校で私達と同じクラスだった吉野君だろう。覚えているも何も、今も同じクラスだ。一つ頷く。

「吉野君に言われたんだ。僕じゃ、ナーちゃんと釣り合わないって。僕はへなちょこで、いつもナーちゃんに守ってもらっていて、男のくせにかっこわるいって。僕と一緒にいたらナーちゃんの評判も落ちるって。僕と一緒にいたらナーちゃんも付き合ってるとか、からかわれて嫌な思いするって。ナーちゃんだってどうせからかわれるなら、もっとかっこいい強い人とがいいだろう、って」

 私は答える代わりに、肩を一度小さく竦めた。吉野君は、彼とは正反対の男らしいタイプだ。そして正義感が強い人でもある。周りにからかわれて泣きそうになる彼を見て、吉野君がいらいらしていたことも知っている。その言葉は多分、吉野君なりに発破をかけるつもりの言葉だったのだろう。

「僕ね、ナーちゃんに迷惑かけるのだけは嫌だったんだ。だからね、考えたんだよ。僕がナーちゃんと釣り合うためにどうすればいいか」

 彼は笑った。さっきまでとはどこか違う黒い笑みで、私は少し身を引いた。後ろ手でドアノブに手をかける。いざとなったら逃げ出そう。

「家にこもってずっとずっと考えてたんだ。それがね、ナーちゃん、完成したんだよ」

 そうして彼はパソコンに向かう。

 まったく、前後の脈絡がない会話だ。なんだか少し悲しくなる。かつての従者と、傍にいた彼と、会話がうまく成り立たないことに。

 彼はかたかたと、キーボードを叩く。そうして、こちらを振り返った。人差し指が、これ見よがしにエンターキーに置かれている。

「ナーちゃん、見ててね」

 そして彼は、勢い良くエンターキーを叩いた。

 ジジジっとパソコンから音がする。

 ぱぁっと光があふれて、瞬間私は目を閉じた。

「ナーちゃん」

 呼ばれた声に、ゆっくり目をあける。

 周りをみて、言葉を失った。

「ナーちゃんに見て欲しかったんだ」

 彼が誇らしげに笑う。親に褒めてもらいたがる子どもみたいな顔。

 私の目の前に広がっていたのは、さっきまでの彼の部屋じゃなかった。右手にあるのはベッドじゃなくて、大きな湖。左手には森が広がっている。

 正面、さきほどまで机があった辺りには、大きな大きな、お城が出来ていた。西洋の、お姫様が住んでいそうなお城。

 振り返る。

 さっきまで手をかけていた筈のドアノブが消え、後ろにも湖と森が広がっていた。

 上を見る。天井がない。空が広がっている。でも、空の色が青くない。何故かピンクだ。

「ナーちゃん」

 色々理解出来ないまま、私は彼に視線を戻した。人間って、驚き過ぎると脳の処理がとまるらしい。

「……ごめん、これは?」

 我ながら冷静過ぎる声で尋ねた。

「僕が作った王国だよ!」

 両手を広げ、テンション高く彼が答える。いつの間にか、彼の格好はさっきまでのジャージ姿から、赤いマントを羽織った姿に変わっていた。

「王国……」

 私は正面のお城を見る。彼が身に纏う、赤いマントに、頭に王冠。それは絵本にでてくる王様のようだ。

「……作った?」

「そう。ナーちゃんと僕のための王国!」

「どうやって」

「パソコンで構築したんだよ」

 彼が胸をはる。

 パソコンで?

「……バーチャルリアリティってやつ?」

 3D映像のもっと高度なものとか。私の言葉が不満だったのか、彼は顔をしかめた。

「仮想現実なんかじゃなくて、本物だよ。全部本物だ。だけど、ナーちゃんがそれで理解できるなら、バーチャルリアリティだと思ってくれていいよ」

 どこからか風が吹いて来る。木の葉がざわめく音がする。緑の匂いがする。視覚だけではなく、触覚、聴覚、嗅覚でこの世界を感じる。ここまでの3D映像を作るのは、とても大変だと思う。本物だと勘違いしてしまうぐらいに。

「僕が作ったんだよ」

 もう一度、彼が言った。微笑みながら。

 ふっと見ると、私の格好も変わっていた。まるでお姫様が着るような、ひらひらとふわふわで構成されたドレス姿になっていた。

「僕は王様だよ。これでもう、ナーちゃんと釣り合わないなんて言わせないよ」

 たった、たったそれだけの言葉で、ここまで作り上げてしまったのか、彼は。

「ナーちゃん。ここなら自由だよ。宿題もない、学校もない。ナーちゃんにうるさいこと言うおばさんもいないよ」

 彼が私に向けて右手を差し出す。

「妃にしてあげる。この世界は優しいよ。嫌なものは何もない。幸せな王国を築こう」

 ああ、と私の喉から声が漏れた。

 湖も緑も綺麗だ。ドレスも綺麗だ。お城は大きい。この世界はきっと、本当に優しい。嫌なものの気配がしない。間もなく近づいて来る受験のことも、未だに女の子らしさを強要してくる母も、ここにはない。彼に会うことに露骨な不快感を表した母はいない。

 それは本当に、とても、優しい、魅力的な世界だ。辛いことは何もない。

 彼が笑う。右手を差し出したまま。

 私は手を伸ばす。

 ドレスと同じ色の手袋につつまれた私の手。

 私は、手を伸ばす。彼の指に触れる。そのまま、その手を、なぎはらった。

「……ナーちゃん?」

 拒絶されるなんて思っていなかったのか、彼が心底驚いた顔をする。

 この世界は優しい。残酷なぐらいに。

「ナーちゃん? どうしたの? なにか気に入らないことがあった? それなら言ってよ。すぐに書き換えるよ? お城の形が気に入らなかった? 和風の方がよかった? 湖よりも海の方がよかった? 空の色、ピンクだったらいいのにって昔ナーちゃんが言ってたからピンクにしたけど、なにか違った?」

 彼が早口でまくしたてる。

「違う」

 私は首を横にふった。

「ならどうして」

 彼の顔が泣きそうに歪む。昔と同じように。

 私はキッと、彼の顔を睨んだ。

「権力も持たないお妃になんか、私が納得できるわけないでしょう!」

 怒鳴る。

 彼はびくっと体を震わせた。

「あんたは、私の、従者なのよっ!」

「え、え」

 彼はおどおどと私の顔を見て、

「あ、そっか、そうだよね」

 納得したように頷く。

「ナーちゃんは、女王様だよね」

 この王国の建国者は、割とあっさり政権の座を譲り渡そうとしてきた。ああ、それにもなんだか、腹がたつ。

「うん、僕は権力のない王様でもいいよ。いつもそうだもんね。王様じゃなくて、騎士でもいいよ。昔そうだったもんね。それとも」

「なんですぐに譲り渡すの」

 その言葉を遮る。

「あんたの王国でしょう? しっかり守りなさいよ」

「だけど、ナーちゃんが」

「私が、なにっ」

 この数年をかけて作った王国をあっさり譲り渡そうとする。私のたった一言で。それすらも大事にできないの?

「ナーちゃん、そうしないと一緒に住んでくれないんでしょう?」

「そうしたって一緒に住まないわよこんな世界」

 斬り捨てると、彼は目を見開いた。信じられない、とでも言うように。

「だって、ナーちゃん。何が、嫌なの?」

「なにもかもが」

「なんで。だって、ここにいたら、勉強もしなくていいんだよ? ずっと遊んでいてもいいんだよ。前やっていたおままごとの続きを」

「私はもうおままごとなんてしないんだよ?」

 そんな年齢、とうに過ぎ去った。

「ねぇ、現実を見てよ。私達、もう中三だよ。あんたもそろそろ志望校決めなきゃいけないんじゃないの? 高校からならやり直せるんじゃないの? 私は勉強嫌いだけど、勉強したいよ。高校生になりたいもん。お母さんはうるさいから苛々するけど、大好きなんだよ。ねぇ、なんでわかんないの?」

 私が一言発するたびに、彼の顔色が変わっていく。今はもう泣き出しそうを通り越して、怒っている。両手がわなわなと震えている。

「ねぇ、いつまでも夢を見て」

「うるさいっ!」

 怒鳴られた。

「うるさいうるさいうるさいうるさいっ!!」

 全身を使って叫ぶ。

「もういい。もういいよ。優しくないナーちゃんなんて、要らないっ」

 彼が叫ぶと同時に、どこからか大量の兵隊が出て来た。お伽噺のような銀の甲冑姿。

「ちょっ」

 これにはさすがに慌てた。せまってくるのを走って逃げる。走る時に見たら、いつの間にかドレスが白と黒のボーダーの囚人服になっていた。

 王様が兵士になにか指示している。

 走る、走る。

 ねぇ、あんたは知らないだろうけれども、私、陸上部なんだよ。短距離走の選手だよ。大会でそこそこいいところまでいっているんだから。あんたは見に来てくれなかったけど。

 森の中に逃げ込み、身を隠す。息を整える。

 ぱちり、と指を鳴らす音が聞こえたと思ったら、

「いたぞ!」

 彼の声。

 森が消えてた。マジか……。そこまでここは思いどおりの世界なのか。彼の。

 兵士の剣が光る。

 どこからか、ジジジと虫の羽音が聞こえる。うるさい、虫。

「……違う」

 これは、パソコンの音だ。そうだ。これは彼のパソコンが生み出した仮想現実だ。それなら。

 私はまた走り出す。

 兵士が追ってくる。

 ジジジという音がする方へ。彼の方へ。お城の方へ。

 私が近づくことを恐れたのか、彼は兵士に抱えられてお城から離れた。だから私はお城の前に立つ。動かない。

 一か八か。

 一人の兵士が剣を振り上げる。私の頭上に向けて。

 振り下ろされる瞬間、私は頭を抱えて転がった。兵士の足元。兵士が振り下ろした剣は止まることなく、そのまま振り下ろされる。

「しまったっ!」

 彼が叫ぶ。

 ああほら、思った通り。

 剣が叩き付けられた場所は、かつて机があった場所。パソコンがあった場所。

 がっ、とどこからか音がする。ジジジという音が一度大きく聞こえ、途切れた。

「……そんな」

 彼の声にゆっくりと顔をあげる。

 そこに広がっていたのは元の彼の部屋。私はいつもと同じ制服姿。

「そんな……」

 彼は画面が割られたパソコンの前に立っている。

「なんで。そんな。僕の王国」

 パソコンの前で何度も呟いている。私はその右手を握った。

「晋輔!」

 そして、名前を呼ぶ。久しぶりに呼ぶ、かつての従者の名前。

 晋輔はのろのろと顔をあげた。

「ナーちゃん」

 小さな声で呟く。

「晋輔。もともと私、優しくないよ。今までも、優しかったことなんてないよ。横暴で、我が侭で、いつも晋輔を振り回してた」

「そんなことないよ。ナーちゃんは優しかったよ」

「勘違いだよ。優しくなんかない。昔、いじめられていた晋輔を助けたのだって」

「僕を助けるためじゃなかったんでしょう?」

 墓場まで持っていた秘密を打ち明けようとしたのに、晋輔はあっさりと言った。

「え?」

「知ってたよ」

 晋輔はなんでもないことのように笑う。

「でも、理由なんてなんだっていいよ。ナーちゃんが僕を助けてくれたことには代わりないもん。僕、ナーちゃんに感謝してたんだよ。ナーちゃんは確かに我が侭言ってたけど、すっごく無茶なことは絶対に言わなかった」

「……バカじゃないの。それを優しくないっていうんだよ」

 わかっていて付き合ってくれた、晋輔が一番優しい。

「私は優しくないし、我が侭で傲慢で、それをわかっているのに性格を変えられないバカだよ。晋輔」

 祈るように彼の右手を両手で握る。

「釣り合わない、とかそんなこと他人が決めることじゃないし、それを言うなら私の方が釣り合わないよ。優しい晋輔に」

「ナーちゃん」

 晋輔は握った右手をじっと見つめる。

「勘違いしないで。私が昔、あんたと一緒にいたのは、晋輔が女王様扱いしてくれるからじゃない」

 最初はそれが理由だった。でも違う。

「晋輔が優しいから。それに不器用だったから。すぐ泣くくせに、他にからかわれている子を助けに行っちゃうような人だったから。私に怒られるのが怖いくせに、私が無茶を言うとちゃんといさめてくれたから。だから」

 軽く腕をひっぱると、晋輔は顔をあげた。

「だから私は、晋輔と大人になりたい」

 声が上擦って、それで自分が泣いているのだと気づいた。晋輔が驚いたような顔をしている。

「これ以上、距離が離れてしまうことに耐えられない。あんたの時間がここでとまっていても、私は先に進まなきゃいけない。一緒にとまってあげることはできない。私は優しくないから、一緒にとまった時間で過ごしてあげることができない。だけど、私は我が侭だから」

 晋輔の目をじっと見つめる。大きく見開かれた目が、まっすぐに私を見つめ返した。

「晋輔と一緒に大人になりたい」

 一緒には過ごせない。時間をとめられない。だけど一緒に大人になりたい。我が侭だ。晋輔の意向なんて無視して、晋輔にだけ頑張ることを強いている。だけど、あんな王国を作ることに比べたら、簡単じゃないの?

「……ナーちゃん」

 晋輔がぽつり、と私の名前を呼んだ。

「なぁに?」

「……大人になっても、一緒にいてくれる?」

「勿論」

 迷うことなく頷いた。

「あんたが頑張るなら、それに応える。臣下の努力に報いるのは、女王の仕事でしょう?」

「ナーちゃんは、ナーちゃんだね」

 晋輔はなんだか安心したように呟いた。その瞳から、ぽたり、と雫が落ちる。晋輔のあいていた左手が、私の手にそっと重ねられた。


 そして次の日から晋輔は学校に来るようになった。

 などという劇的な展開はなかった。次の日、一応迎えにいってみたけれども、制服の場所がわからないとか授業がわからないとかやっぱり嫌だとか色々言って、あいつは玄関先までしか来なかった。あの部屋から、王国からはでてきたから、今のところは許してやるけど。

 進路のこととかは、学校の先生と相談して決めるらしい。おばさんが安心したような顔をしていたから、とりあえずいいだろう。

 自分の王国に閉じ籠っていた数年を取り戻すのは大変だと思う。でもまあ、自業自得なのだから頑張ってもらいたい。逃げるなんてもう言わせない。私が支えてあげるのだから。


 久しぶりに外に出たいという彼に付き合って、私は近くのショッピングセンターに向かった。そこで、クラスの男子何人かにあった。その中には吉野君もいて、晋輔がぴくり、と体を強張らせた。

「あれ、晋輔っ!?」

 吉野君は晋輔を見て声をあげる。晋輔が泣きそうな顔をするけれども、

「久しぶりじゃん、大丈夫?」

 吉野君は労るように声をかけてきた。

「……え、うん」

 その態度に驚いたように晋輔が頷く。

「なに? デート?」

 それからちょっとからかうような声色。

「そ、いいでしょ?」

 私は軽く頷く。そのやりとりに晋輔が目をむいた。吉野君がなんだか楽しそうに笑う。

「なんだよ、晋輔。デートできるなら学校も来いよー。卒業式までには来いよなー」

 とか晋輔を小突いて去って行く。

 中学も三年生になれば、男女間の距離感はまた別の物になっているんだよ、晋輔。よくも悪くも、吉野君は覚えてなんかいないよ、釣り合わないなんて言ったこと。

 晋輔がじっと足元を見て、ぽつりと呟いた。

「……明日、学校行くの迎えに来てくれる?」

 私が頷くと、

「今のナーちゃんは優しいね」

 と晋輔がかすかに笑った。

 ジジジと、虫の羽音が聞こえた。

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