ひめまつがゆく1068 ――男装女官奮闘記――

渡辺進

第一章 緯 (よこにつながり)

第1話 東豎子(あずまわらわ)

 耳を突く悲鳴に、俯き加減の顔を跳ね上げてしまったけれど。

 それがかえって幸いした。数丈を隔てた前方、高いところに目が向かう。

 動ずるなどあってはならぬ鳳輦ほうれん、その頂に輝く葱花そうかがゆらりと傾いていて。

 理由を求めて下げた視線の先からは、みしりと怖気を誘う音。

 負けるものかと叫んでいた。


 「しりえおうごが折れまする! 輿丁よちょうの衆は備えられませ!」


 堅く乾いた轟音が響くその前に言い切ることができたか、どうか。

 不吉な予感は避けられず、左右に渡された朸(担ぎ棒)がまっぷたつにへし折れていた。

 力の均衡を失った輿丁(かごかき)の腰が砕け、輦を覆う藤色の紗幕があられもなく揺らぐそのさまに、背後から再び細い悲鳴が上がる。

 だがそこは日ごろ熟練の手並み、輿丁の衆も気合を見せた。前後に長く伸びるながえに肩を寄せ脚を踏みしめ、事無きを得る。


 「どうぞお心平らかに」


 振り向いて声をかけたのは、私自身が落ち着きたかったから。だが心は通じてしまうもの、女衆の動揺は収まる気配を見せなくて。

 良くない兆候だった。口取りがついてはいても、馬は騎り手の不安を鋭敏に感じ取る。暴れ出したら慣れぬ彼女たちでは手に余る。


 焦りに染まる耳に、かぽっと。のどかな音がひとつ。

 隣を行く同僚、私と同じく男装の女性がこちらに小さく頷きを見せていた。

 思いきや、こぼれんばかりの笑顔をかたちづくる。軽やかに馬首を翻し、どうにも馬と相性の悪い女房を見定めては身を寄せていく。

 愛嬌に欠ける私にはできない仕事。頼りになる先輩の手練には苦笑を浮かべるばかり。


 当然のこと、前方の動揺も収まっていた。

 各人が必要な処置を終えれば、その機を見逃すはずも無い涼やかな声が響き渡る。


 「輿丁の衆は、そのままに。先触れにも止まるよう申し伝えよ」


 ゆかりの寺へ向かう今日の行幸みゆき、指揮を執るのは宰相中将さいしょうのちゅうじょうさま。

 一同を落ち着かせるや、折れた朸に悠然と近づきじっと目を注いでいた。


 その宰相中将さまに轡を寄せた小柄な姿は、型通りの検証をつまらなそうに一瞥しただけ。落ち着き無く周囲を見渡すや、私に近づいて来た。いえ、そうじゃない。分かっています。お目当ては私を通り過ぎてさらに後ろ、女房女官の列でしょう?


 「『おうご(会う期)無きこそわびしかりけれ』、今まさにその心持ちだね」


 有能で名高いけれど、それ以上に軽薄をうたわれる権中納言さまのお誘い。

 矯声かまびすしく上がる中、ひとりがすかさず合いの手を入れていた。

 

 「おうご(朸)がございましても、負いきれるとは思えませぬ」

 

 困った風を装いつつまんざらでも無い、いえ、「そういう景色に見えるように」あしらう女房衆。

 いつも通りのふてぶてしさ、もとい落ち着きを取り戻されたのは結構ですが、少々不謹慎が過ぎませんこと?

 

 やり取りは理解したつもり。お歌はそれなり勉強したから。

 だってきの、と名乗れば平安びとがまず頭に思い浮かべるのは古今和歌集のおふたり(貫之・友則)なんですもの。

 歌上手を期待する眼差しに、かりにも貴族の端くれが答えられなきゃ侮られるばかり。騎乗を業務とする我が一族、京の女としては規格外の武骨者だけど。こればかりは必死に身につけましたとも。


 権中納言さまが引用したお歌だけど。

「人恋ふることを重荷と担い持て おうご無きこそわびしかりけれ」、その意味は 「重荷を背負うかのごとく、恋する思いを持ち続けようとしているのに。会う機会も無い(担ぎ棒が無い)のでは、心細いかぎりです」

 要は「会わやらせろ」って言ってんのよねえ。相変わらずいやらしいんだから! このちょび鬚権中納言!


 女房も女房よ。

「会うたところで、恋心を変わらず持ち続けてくださるとは思えませぬ」。つまり「身を許したら、それっきりのおつもりでしょ?」って話ですけど。昼日中っから何言ってくれちゃってるわけ?


 いまおうごの上におわすは、荷物でも恋心でもない! 主上おかみです!

 私たち全員、お仕事中! 分かってんの!?


 「そう険しいお顔をなさいますな、姫松ひめまつは人目を惹くのですから」


 たしなめる声の主は、いつのまにか戻って来た同僚・阿閉あへの宿禰すくねさま。

 ご指摘通り、確かに私たち姫松ひめまつは悪目立ちする。

 なにせ女でありながら大口袴に表袴、半臂はんぴの上からはなだの袍、頭上に冠……つまりは六位男性官人の正装に身を包んだ姿を、さらに馬の背に乗せているんだもの。

 宿禰すくねさまに至っては、より目立つ五位が見えてくるお年頃。艶なる微笑を顔に貼り付けるのも、周囲の視線を意識すればこそ。

 さすがです、先輩。でも目が笑ってないのは私と同じではございません?


 それにしても、よ。輿丁の顔は青褪めたまま、後ろの女衆は不安が転じておしゃべり放題。主上の行幸だと言うのに、どうもピリッとしない。

 誰か空気を変えてくれないものかしらと、そっと周りを見渡せば。

 こちらを窺う鋭い視線とかち合って、そのまま鼻で笑われた。

 「思うばかりでは、な」

 小さく動く唇は、確かにそう告げていて。

 

 「ちょうどそこに木が生えております。甘い香り、甘棠やまなしでしょうか。以て朸と為してはいかが?」


 言っておきながら、左衛門権佐さえもんごんのすけさま(長いわね。廷尉さまで良いか)は木を見ていなかった。

 権中納言さまにひたと目を据えている。


 「『なかれ』と申すであろうに」


 ちょび鬚をぽりぽり掻くついでのごときお答えだった。呆れを乗せた皮肉な笑顔を向けながら。

 やりとりの意味が私には分からなくて、だからふたりを観察してたんだけど。

 権中納言さまの目つきは、続きを促すものだったから。案の定、廷尉さまの応答もよどみ無く。 


 「これは粗忽をいたしました。古来明主に休息をもたらす霊木でしたものを」


 「ああ、甘棠からお誘いがあったと、そう申すか……女衆にも疲れが見えることだ、しばし足を留めるとしよう」


 そちらに詳しい仕事仲間に、後日尋ねたところによれば。

 からの国の有名な詩なんだとか。

 「甘棠」と言えば「優れた政治家」、「休息」、「伐採してはいけない」あたりが通念で。

 つまり「廷尉、いえ蘭台さまは動揺を完全に収めるべく、休憩を提案されたんじゃないかな」と。「あえて引用間違いをすることで、権中納言さまに謙譲を示しながら」。


 確かにそれが最善だったと思う。

 女衆が疲れているって、そこは馬鹿にされたような気分だけど。動揺を理由にはできないから仕方無い。主上の行幸だもの、権威の問題です。

 

 早速に笛の音が上がったことは覚えている。宰相中将さま、会話に応じて支度してたのね?

 そのまま歌声が続いた。公卿が行動を起こせば、下はすかさず反応せずにいられない。近衛の楽人かしらね、さすが良い声だった。

 

 動ずることなく、徹底してふざけ倒し丸く収めてしまえば、そう。

 世はなべてことも無し。

 貴族は今日も平常運転。いまの私じゃ割り込めないか。

 



 つつがなく勤務を終え自宅に帰れば、曾祖母ひいおばあさまが端近まで迎えに来ていた。

 年を取ると子供に返るとは言うけれど、もう少し落ち着いてくださいな。

 って、そんな遠慮をする人は長生きできないのよねえ。ほら、こっちに構わずしゃべり出す。


 「朝臣どの、きょうのお勤めはいかがでしたか?」


 ひまごでも現役の官人だからと憚るあたり、かなりしっかりしてる。まだまだがんばれそうね、この調子だと。

 ともかく。きの朝臣あそん季明すえあき、それが私の名。

 女でありながら名を、それも男の名を明らかにすることを許され、また求められる我ら。その官名を東豎子あずまわらわと称する。平安の京にあってはごく例外的な存在だ。

 この職は母娘継承、男性の名も一族の女がいでゆく。曾祖母さまご自身も、かつては季明を名乗り出仕していた。

 その曾祖母さま、いまや祖母おばあさまよりも長生きしてついに米寿を超えた。歴史の生き証人たるお立場には敬意を惜しみませんけれど、何せ年寄りは話が長い。

 ごたごたがあったなどと言おうものならさらに長くなるから適当にごまかしたけど、それぐらいでは止まるはずもなくて。


 「寺社への行幸であったと伺っております。さてあれば、母が勤めておりました時分の例の件。我ら東豎子、また女官にとって痛恨の屈辱事。よもお忘れではありますまいな。二度と無きよう、心してお励みくださいませ」

 

 痛恨の屈辱事。それは幼き折より繰り返し聞かされてきた物語。

 月明らかなる夜半のこと、時の主上がたばかられ連れ出され山科のお寺で落飾された、無理にご譲位させられたと。

 

 確かにひどいお話だけど。

 私たち東豎子、紀朝臣一家にとっての問題はもう少しその、ちっちゃい話で。

 主上が内裏から外へと行幸されるならば、東豎子は必ずお供することになっている(大内裏じゃなくて、内裏よ? ちょっとしたお出ましでも必ずお供します)。それが決め事、儀礼、慣習、しきたり、先例なんです。実際我ら一族、何百年と欠かすことなくお役目を勤め上げてまいりましたとも。

 だというのに、あの事件。「その立場が、我らの存在が無視されてしまった。東豎子無しで主上が外出される事態を、先例を許してしまった」って。

 五代八十年にわたり憤慨し続けているのは、そこなのです。


 ともかく、一族の大事であることは存じております。

 でもしつこいのよ、曾祖母さまも。「我ら女官」って、いつまで現役気分なのかしら。

 しかたないから決め台詞。


 「重々存じております。行幸にはかならず侍りまいらせ、主上の御身を守りまいらせることこそ、我ら東豎子の職責。日々怠らずあい務めます」


 覚悟表明ですから。異を唱えることは、たとえ家族でも先人でも許さない。

 曾祖母さまもさすがに押し黙った。子供みたいに頬を膨らませてはいたけれど。

 

 「おひいさまはお疲れのご様子。今日のところはどうかそれまでに」


 気まずい睨み合いを、乳姉妹・小楢こならの助け舟に救われる。

 「お姫さま」なんて呼ばれるほどご大層な身分でもないけれど、それでも一応貴族(五位)の娘。乳姉妹から下男・端女おはした、要は使用人だけど。それぐらいは抱えているわけですよ。

 

 「ありがとう小楢、助かった」


 上衣を肩から外しつつ、お礼言上申し上げれば。

 あらかじめ心得て後ろを歩みながら衣を剥がし、なおかつ話しかけてくる。

 これも熟練の技能ってやつよね、間違いなく。


 「ほんとうに嫌な事件でしたわね。でもそもそもの話、なぜ発心など。お姿お心映えに優れたおきさき様は他にもたくさんいらしたでしょうに」


 あの事件で危機感を抱いたことが幸いにして一族の今につながっていると、そう言えなくも無いのよね。

 それと、さすがにね? 小楢が私を気遣ってくれてることは分かるけど。

 女官たる者、どうあってもそちらへの言及は、その。


 「当時の主上は数えて十九歳にあらせられたの。初めて恋を知り、愛された更衣様を亡くされて。みほとけの道にお心を引かれる……おくゆかしき話だとは思います」


 出来事それ自体は東豎子の、いえ女官全員の屈辱であった。

 それも確かなことだけど、さ。

 

 「お姫さまが恋を語るだなんて! どうなさいましたの!? 出先でおかしな物でも食べました? お熱は?」


 うるさいわよ小楢! 仕事仕事で気づけばもう七年、男っ気の無い生活で悪うございましたね。


 耳に痛い話を避けつつようやく腰を落ち着けたと思ったら、庭先をうろうろしてるのがいるし。

 厩舎人うまやどねりの犬丸ね? すっとろい牛の世話でもさせればもう少し落ち着くかしら。

 ええ、自分でも分かっています。疲れてイラついてるってことぐらい。でもそんな私の顔を覗き込むや「おくつろぎくださいませ」なんてうそぶくことはないでしょ、小楢。言い捨てて簀子すのこへ寄って行くあたりも腹立つし。私の心が読めるなら、もう少し言いようってものがあるんじゃない? ともかく伝言は面倒だから、犬丸には大きな声ではっきり言うよう伝えといて!


 「昨日のこと、お邸を垣間見ている若い男がありました。声をかけたところそそくさと逃げ去るその様子、あまりにも怪しく。次に来たら追い返すか、取り押さえるか。お下知をいただきたく、お帰りをお待ち申しておりました」

 

 ちょっと、それって。まさかもしやひょっとして。

 大声で言わせるんじゃなかった!

 

 「いけません、犬丸さん!」


 ちょうど簀子を歩んでいた阿漕あこぎが、ウチで預かってる子なんだけど、庭に降りていく。

 袖を引きごにょごにょと耳打ちするや、犬丸め赤くなったと思いきやにやけだす。

 腹立たしい。御簾の内からならば分かるまいとでも思っているのかと。

 

 「その、お姫さま。次のお休みはいつになりますか?」


 犬丸の攻勢を受けて、誠忠なるわが乳姉妹が御簾の内にて仁王立ち。


 「次に来たならばお名前と官位官職を伺い、まずはお文を届け参らせるよう伝えなさい。過分な小遣いなど受けて手引きすることは許しませんよ?」

 

 うわずるその声、小楢も慣れていないことはバレバレで。

 全く仕方ないわねえ……って、頬が緩むのはどうしたらよいのやら。

 

 


 ほのかに浮き立つ心を抑え、翌日からまた仕事で里内裏に詰める日々を過ごし、さきの行幸から数えて七日後のことであった。

 お勤め先で与えられているお部屋――ごめん嘘です見栄張った。几帳で囲われたお部屋の一角、専用区画ね――の、御簾の向こうに男の影が立ったのは。


 「宰相中将さま、また左衛門権佐さまのおいでである」

 

 さすがにそこまでの大物は期待していなかった。めったにない珍客に、昼下がりでおねむのまぶたも持ち上がる。ではやかましく呼ばわるもう一人は何者かと思いきや。


 「かく言う私は検非違使けびいし大尉たいじょう


 輪番(勤務ローテーション)で詰めている同僚・阿閉宿禰さまと顔を見合わせる。

 と、言うのも。女官の詰める一角は、検非違使大尉が顔を出せる場ではないから。

 宰相中将さまや廷尉さまなら顔は出せるだろうけど、逆に私たち下っ端女官を訪う理由が無い。

 つまりは三人が三人とも場違いなんだけど、検非違使大尉と来たらこちらの困惑に構おうともせず口を開いた。


 「さきの行幸にて、朸が折れた件について問う。最初に気づいたのは阿閉宿禰どのであったか?」


 その口ぶり、横柄に過ぎませんこと?

 権限は存じておりますが身分はほぼ同じ、上から接して良い相手では無いことご存じでしょう? 宰相中将さまと廷尉さま、おふたりの威を借りてるの? それとも女だと思って甘く見てる?

 苛立ちに眠気も浮き心も疑問すら吹っ飛んで、反射的に言い返してた。

 

 「宿禰さまより先に、私が気づきました。輿丁に声をかけたのも私です」

 

 受けて男三人、やけにざわついている。

 御簾というのはですね、内側こちらは暗く外側そちらは陽が当たっているものですから。様子がはっきり見えるのでありますよ。

 鳩首密議は良いけれど、検非違使大尉どのと来たら見るもむざんな慌てぶり。何かあてが外れたみたいだけど……って、検非違使の担当が警察業務なのは当然として。落ち着いて思い返せば、身分高きおふたりも彼の上司、警察の最高責任者であった。

 するとこれは捜査活動、朸が折れたのは事故じゃなくて事件、人為的なものであったと?


 「自ら認めるのだな? なぜ真っ先に気づいたか、明らかに述べよ」


 仕切り直しの第一声がこれ、第一発見者扱い。

 相変わらずの高圧的な態度に、疑われているという不快感。どうにも腹が立って、やっぱり反射的に言い返してしまう。 

 

 「我ら東豎子、その職務は主上の行幸に従いまいらせること……」


 御簾の向こうに、だからどうしたと言いたげな顔。

 やっと男に縁ができそうなところだったと思い返して、少しはしおらしくなってみるかと言葉尻を濁したというのに。相手の察しが悪くてはその甲斐も無い!

 脇息を掴み締め、しっかりと上半身を起こす。さて何を言ってやろうかと……時間をかけて考えてるようじゃ、ダメなのよね。


 「紀朝臣の無実は宰相中将さま、また廷尉さまにはお分かりいただけますかと(訳:徒歩で従う検非違使大尉みぶんじゃあ分からないだろうがな!)」


 可愛らしいお顔に似合わず「しっかり者」の阿閉宿禰さま、強いられてきた不快をここぞとばかり叩き付ける。

 吐き捨てて、最高の笑顔をこちらに見せていただけるのは心強いけど。

 その落差、怖すぎるのよね。


 「いえ、紀朝臣どのを疑っているわけではありませぬ」 


 当然よ。妙ないたずらなんてするわけがない!

 先にも申し上げましたけれど。古来、行幸する主上の後ろにあって守りにつくのが私たち。そのために男装・騎乗して、男の名を名乗ってるんだから。

 それは同僚の阿閉宿禰さまも同じこと、なんで私は疑われないの?

 

 「と、申しますのも。輪番の日、また非番の日。ともに探りを入れましたが、紀朝臣どのの元には通う殿方がありません。朸に細工した実行犯と接触のしようがないのです」


 男の影は捜査官でしたか!

 いやだ恥ずかしい! 「口説こうって言うならまずはお文を持って来なさい」って、自意識過剰の極致じゃない! あれから来てなきゃいいんだけど。

 阿閉宿禰さまも真っ赤になってる。男出入りがあるって(容疑者が絞れていないってことは、複数よね?)、そう指摘されたも同然ですもの。でも良いじゃないですか羨ましい。

 

 「それぐらいにしておけ、大尉。……そのことよりも、紀朝臣。『視点が高い騎馬なればこそ、真っ先に目に付いた』と申すのだな? やや離れた後方を行く位置取りも幸いしたと見える。お側近くにはべる我ら近衛よりも気づきやすい、なるほど道理である」


 なんかいろいろ恥ずかしいけど。

 ともかく、私たちは最初に気づける立場であると、それだけのこと。事件とは何の関係も無い。

 お年に見合わぬ沈着ぶりで知られる宰相中将さまは、さすが判断が明晰にして公正で。何より良いのは御簾のこちらからでもはっきり分かる、秀麗な眉目。


 「先頃の、の件もございます。主上のお輿に思いを致すよう務めておりましたことも幸いでした」


 つい心浮き立ち、問われもせずにお答えしちゃうのも仕方ないでしょ?

 なお吉兆ってのは、その。言葉を濁したのです。

 先月、主上がお輿にお渡りになろうとしたら、ネズミが飛び出してきた。

 陰陽寮のほうで「これは吉兆です」って言ってくれたから良いようなものの。管理が甘かったことは確かじゃない? 関係者一同猛省していたはずなのに。

 また管理不行き届き。反省が活かされていないんだから。弛んでるっての。 

 

 「ならばその慧眼を見込んで尋ねたい。他に気づいたことは無かったか?」


 慧眼めざといって、女性に対する褒め言葉じゃないですよねえ!

 まあいいか、評価されたことは確かなんだし……って、宰相中将さまの整ったお顔を眺めてるとつい採点が甘くなってしまう。

 おっと、ご質問にお答えしなくては。

 

 あの時、私は何をしていたっけ。

 ええと、行幸にしたがって、お仕事してた。それは確かなところ。

 東豎子のお仕事とは主上の守りにつくことだとは言ったけど、それは伝承の話。当世、実際に御身を守りまいらせているのは六衛府の人々。

 では実務上、私が何をしているのかと申しますと。


 東豎子あずまわらわ――行幸に従うときは姫大夫ひめまうちぎみ、あるいは訛って姫松ひめまつと呼び慣らわされているけれど――の職務とは、主上のご挿鞋そうかい(おはきもの)を捧げ持つことなのです。


 「あの時私は、膝の上に置いたご挿鞋そうかいに意を傾けておりました。目を上げ、朸に気づいたのは……」


 記憶を反芻する。どうして私は視線を上げた?


 「そう、後列にあった女房殿の悲鳴があったからでした!」


 平安女子はおっとりしている。めざとく気づくなんてことはあり得ない。いや、そうでもないか。あいつら小姑みたいだし……ともかく!

 一瞬の出来事ですもの。遠く後方からでは音や傾き、兆候に気づくなんて相当難しい。あらかじめ知っていたのでない限り。


 能吏の名を宮中に轟かせている廷尉さまがすかさず立ち上がった。検非違使大尉が慌てて続く。

 宰相中将さまだけが頷きを送ってよこす。これよこれ、この気配り。後宮の皆さまから大人気なのもこういうところ。


 

 

 犯人と目された人物は、自宅で事切れていた。

 度重なる行幸に対する諫言を試みたものらしいと、噂が流れてきた。

 諫言にしては少々、いえだいぶ穏やかならざる手法じゃありませんこと?


 噂と言えば。

 東宮時代にご寵姫を亡くされた主上は、以来彼女の後世を願い、また世の無常を感じられている、なんて噂を聞いたことがある。ご即位されたけれどすぐにご譲位されるんじゃないか、なんて風説まで。ここのところ神社仏閣への行幸が多いし、来年もその予定が重なっていることも、不安に拍車をかけている。

 こう符合していると、曾祖母さまが八十年前の事件を警戒されるのも分かるけど。

 でも主上は三十路の男盛りよ? 初めて知った失恋の痛手に打ちのめされるってお年頃じゃない。東宮女御さまが亡くなられて五年は経ってるし、俗世とのかすがい、残された宮様がたもいらっしゃるのに。


 だいたい寺社へおいでになると言っても、三月に一度とかその程度だし、ねえ。

 そりゃまあ主上の行幸ともなれば、千・二千の人数が付き従う。公式行事でなければ人数をだいぶ絞るけど、それでも百の桁で動員される。

 ちなみにどれほど絞られようとも、我ら東豎子が省かれることはない。繰り返しますが行幸・お渡りには絶対不可欠の存在なのです。

 ともかく。「行幸があれば費用がかかる、たび重なれば政治日程にも支障が生ずる」と。まあそのことは確かなんだけど。「たかが女に執着するなど、あってはならぬこと」って。それが実行犯が書き置きに残していた主張であったとか。

 馬鹿にして。諫言どころか捨て台詞じゃない! 不敬にもほどがある!


 なお、女房女官も数人、職を辞した。

 理由は分からない。日ごろから出入りの多い職場だから。



 後日。

 御簾の前を通りがかった宰相中将さまからひと言をいただいた。


 「冷静な判断、主上の守りと伝わるひめ大夫まへつきみの名に恥じぬ」


 「ヒメモーチギミ」なる音へと転訛する前の呼び名だった。


 大夫まへつきみ、それは古き言葉。往古主上のご尊顔を拝し直にお言葉を受けることを許された貴族に向けられた尊称。

 ええ。伝承の古より、主上の守りとしてお側近くに仕えてまいりました。

 姿も心も、変わることなく。

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