第15話 ファーストキス

 達也も展望台があると聞いただけで、どこにあるかまでは把握していない。

 達也はXJ400をゆっくりと走らせながら、展望台の看板を見つけることにする。

 しかし、展望台は簡単に見つかった。

 駐車場にバイクを置いて、ヘルメットと鞄を持って展望台の方に行く。

 展望台に来ると、目の下に海が広がる。これは、良くパンフレットで見る写真と同じだ。

 向こうの方に灯台も見える。足元には、さっき走って来た道路もある。

 見ると夕日が沈みかけていて、空が朱色に染まり出した。

 そこには、達也と美姫しかいない。

 美姫は何も言わないが、その姿はとても美しいと達也は思った。

「あのね、私、母さんと喧嘩しちゃった」

 恐らくはそうだろうと思っていた達也だったが、美姫の方から話し出した。

「病室に行くと、お母さんが『あなた、悪い人と付き合っているんじゃないの』って、私は『そんな事ない。彼は良い人だから』って答えたんだけど、母がたっくんの事を何も知らないのに悪い人と決めつけて来て、それで言い合いになったの」

 達也は喧嘩の原因が自分だと知って、申し訳なく思った。

「ごめん」

「たっくんのせいではないから」

「高校生でバイク乗り回しているなんて、大人の人から見れば不良だよね」

「そんな事ない。そんな事ない」

「ごめんね」

 達也は謝ることしか出来ない。

「悪いのは私、たっくんは悪くない」

「無理にバイクで送るなんて言わなかったら、こんな事にならなかった」

「たっくんは、それで良かったの?」

 達也は黙って首を振った。

「俺は美姫ちゃんと知り合いになれて良かった。美姫ちゃんと他人のままじゃ嫌だ」

「私も、たっくんと知り合いになれて良かったと思ってる。私ね、王という名前でしょ、前にも言ったけど、小さい頃はそれでいじめられて、あまり友だちって呼べる人がいなかったの。

 たっくんが初めて出来た友だちかな」

 少し風が出て来たのだろう。美姫の長い髪が、潮風にそよいだ。

 美姫は顔にかかった髪を手で書き上げながら、達也を見ている。

 達也は美姫が髪をかき上げる姿が、とても美しいと思った。


「僕と付き合ってくれ」

 達也は思わず言ってしまった。

 だけど、美姫は何も言わない。

 達也も、もう一度、言えないで時間が過ぎて行く。

「私たち、付き合っていなかったのかな?」

 長い沈黙が過ぎた後に、美姫が言った。

 それは美姫も付き合っていたのかどうなのか、自分でも自信がなかったからだ。

 美姫の質問に達也は、どう答えて良いか分からない。

「手を繋いでくれませんか?」

 達也は右手を出した。

「はい」

 美姫は達也の出した手を握りしめた。掌と掌を合わせただけの握手のようなものだ。

 でも、二人は一緒に繋がっている事を確認した。

 二人、そのまま、海に沈む夕日を見ていたが、さすがにこのままここに居るという訳にもいかない。

 余り遅くなると美姫にも悪いと思い、達也は帰りを促すため、美姫の方を見ると、美姫も同じように達也の方を見た。

 美姫の顔が夕日の朱色に染まると、達也は声も出なくなり、美姫の顔を見つめてしまう。

 美姫は目を瞑った。

 達也は、美姫の唇に自分の唇を合わせると美姫の髪から潮の香りが達也をくすぐる。

 美姫の体温が、唇から達也に伝わる。どれくらいの時間が経ったのかも美姫も分からなかった。

 達也が美姫から離れると、美姫は目を開けた。

「ごめん」

「ううん、いいの」

 その後は二人とも何も言わない。

「帰ろうか」

「うん」

 二人は俯いたまま、駐車場に置いてあるバイクに戻った。

 駐車場は既に街灯が点いている。達也と美姫はバイクに跨ると、浜松に向かった。


「王さん、親子の事だから私が口を挟むのも何だけどね。娘さんを信じてあげなさいよ」

「田中のお婆ちゃん」

「美姫ちゃんだっけ、毎週水曜日と土曜日は来てくれてるじゃない。それに日曜日もお店の手伝いをしてくれているんでしょう。そんな娘さんが、男を見る目がないなんて事はないわよ。少なくともあなたが育てた子なのよ」

「だけど、母親としてはどうしても気になって…」

「分かるわよ、私だって母親なんだから。私も娘が男の人を連れて来た時はどうしていいか分からなかったわ、だけどね、娘は恋をして女になるの、あの子は今、女になろうとしているのよ。

 あなただって経験があるでしょう、信じて見守ってあげなさい」

「田中のお婆ちゃん…」

「あなたの娘なのよ、あなたのね…、ゴホッ、ゴホッ」

「お婆ちゃん、大丈夫?」

「ええ、もう平気」


 美姫は自宅に帰って、風呂に入りながら、唇に触れてみた。

「さっき、ここに触れたよね」

 別に痕が残っている訳でもない。鏡に写しても、いつもの自分の顔だ。

 でも、なんだか恥ずかしい。美姫は赤くなった顔を隠すように、頭を洗った。

 風呂から出ると黒い電話が目についた。

 美姫は電話の受話器を取って、ダイヤルに手をかける。達也の家の電話番号はキスの後に聞いた。

 今なら、電話をかける事も出来る。だが、達也が出なかったらどうしよう。無言で切る事は出来ない。

 妹か母親に呼び出して貰うのは抵抗がある。

 いろいろと考えて、美姫は受話器を置いた。

 受話器を置くと同時にベルが鳴った。

「はい、王です」

「もしもし、達也です」

「えっ、たっくん」

 美姫は、なんだか涙が出て来る。

「今度の約束をしていなかったから、また、水曜日でいいかな?」

「う、うん、もちろん。よろしく、お願いします」

「それじゃあ、おやすみ」

「あっ、待って」

 美姫は思わず言った。

「何?」

「それだけ?」

「えっ?」

「他には?」

 美姫は何を言いたいのだろうか?達也には分からない。

「えっと、何かあるかな?」

「もう、またツーリングに行こうとか、誘ってくれないの?」

「も、もちろん。だけど、美姫ちゃんは日曜日、お店の手伝いとかあるだろう」

「でも、誘ってくれるだけで嬉しいの」

「そうか、それなら今度は別の所に言ってみようか」

「はい、お願いします」

 美姫は達也は不器用だと思うが、そんなところが魅力にも感じる。下手に気の廻る男性は返って胡散臭さを感じる。

「夕日、きれいだったね」

「そうだね、でも、風が強くて美姫ちゃんの髪がちょっと大変な事になっていた」

「フフフ、今度、髪を切ろうかしら?」

「ううん、今のままがいいと思う。美姫ちゃんの長い髪が俺は好きだな」

 達也は思わず、「好きだ」と言ってしまった事に赤くなる。

「たっくんが、こっちの方が良いと言うなら、切らないでおこうかな」

「うん、絶対、今のままが良い」

「お兄ちゃん、お母さんが、お風呂に入りなさいって」

 受話器の向こうから早紀の声がしてきた。

「ごめん、お風呂に入らないと」

「ううん、いいの。たっくんが、電話して来てくれて嬉しかった。それじゃ、おやすみ」

「うん、おやすみ。そっちから切って」

「たっくんから切って」

「いや、美姫ちゃんから」

「掛けて来た方から切るのが礼儀よ」

「そうかな、でも、電話は切ると何だか、寂しい感じじゃないか、だからそっちから切ってよ」

「じゃあ、こっちから切るね」

 そうは言ったが、美姫はなかなか電話を切らない。

「お兄ちゃん、どうしたの」

 早紀の声が、再び受話器を通して聞こえた。

「また、早紀ちゃんが呼んでいる」

「ああ、行かないと…」

「じゃあ、切るね」

 美姫は電話を切った。

「ツーツー」

 達也は切られた電話から美姫の声がして来ないのを確認して、電話を切った。


 同じ日、達也も家に帰ると早紀が話しかけて来た。

「お兄ちゃん遅かったね」

「そうか、いつもこんな時間だろう」

「何かあったの?」

「いや、何もない」

「ふーん」

 早紀は納得いかない顔だっだが、それ以上詮索するようなことはなかった。

 自分の部屋で着替えて来ると夕食の支度が整っていた。

 家族4人で食事が済んだら、父は風呂に行った。早紀は母親の片付けを手伝っている。

 達也は、玄関近くにある電話機のところに行った。電話番号は御前崎に行った時に美姫に聞いてある。

 歴史の年表を覚えるのは苦手だが、何故か美姫の家の電話番号は直ぐに覚える事ができた。

 受話器を取って、ダイヤルを回す。もし、美姫以外の人が出たらどうしようとかは全く考えなかった。

 受話器の呼び出し音が止んだ。

「はい、王です」

 美姫の声が受話器から聞こえてきた。

「もしもし、達也です」

「えっ、たっくん」

 美姫は、びっくりした声を出す。

「今度の約束をしていなかったから、また、水曜日でいいかな?」

「う、うん、もちろん。よろしく、お願いします」

「それじゃあ、おやすみ」

「あっ、待って」

 達也は受話器を電話機に戻せない。

「何?」

「それだけ?」

「えっ?」

「他には?」

「えっと、何かあるかな?」

「もう、またツーリングに行こうとか、誘ってくれないの?」

「も、もちろん。だけど、美姫ちゃんは日曜日、お店の手伝いとかあるだろう」

「でも、誘ってくれるだけで嬉しいの」

「そうか、それなら今度は別の所に言ってみようか」

「はい、お願いします」

 美姫はツーリングに誘って欲しかったのか。そんな事では無い事は、達也でも分かった。

「夕日、きれいだったね」

 夕日より、美姫の方が綺麗だったが、「君の方が綺麗だ」みたいな役者のようなことは言えない。

「そうだね、でも、風が強くて美姫ちゃんの髪がちょっと大変な事になっていた」

「フフフ、今度、髪を切ろうかしら?」

「ううん、今のままがいいと思う。美姫ちゃんの長い髪が俺は好きだな」

「たっくんが、こっちの方が良いと言うなら、切らないでおこうかな」

「うん、絶対、今のままが良い」

「お兄ちゃん、お母さんが、お風呂に入りなさいって」

 父が風呂から出たのだろう、早紀が呼んできた。

「ごめん、お風呂に入らないと」

「ううん、いいの。たっくんが、電話して来てくれて嬉しかった。それじゃ、おやすみ」

「うん、おやすみ。そっちから切って」

「たっくんから切って」

「いや、美姫ちゃんから」

「掛けて来た方から切るのが礼儀よ」

「そうかな、でも、電話は切ると何だか、寂しい感じじゃないか、だからそっちから切ってよ」

「じゃあ、こっちから切るね」

「お兄ちゃん、どうしたの」

 再び早紀が言ってきた。

「また、早紀ちゃんが呼んでいる」

「ああ、行かないと…」

「じゃあ、切るね」

 美姫は電話を切った。

「ツーツー」

 達也は切られた電話から美姫の声がして来ないのを確認して、電話を切った。


 電話が終わると、美姫は幸せな気持ちになった。今まで、達也の事が好きだったのかと考えると直ぐに「YES」と言えなかったが、今ではそれが言える。

 ただ、キスしただけなのに、こうも気持ちが違うのか、それは美姫にも不思議な感覚だ。

 達也は達也で、美姫と約束した資格取得について考えていた。美姫だけ資格を取得して自分は出来なかったって事は美姫に対して言えない。しかも、美姫より早く取得して、良いところを見せたい。

 そこには、美姫より後にはなれないという、男のプライドのようなものがあった。

 達也は風呂に入りながら考えたが、やはり電気工事士をやっている叔父に教わる事にした。


 水曜日にいつものように美姫と落ち合い、病院に行く。今度は美姫は直ぐに戻って来ないようだ。と、いうことは、母親とは和解したのだろう。

 達也は自分もホッとした。美姫と母親に意見の対立はして欲しくない。

 1時間ほどして戻って来た美姫はしょんぼりとしていた。

 達也は不思議に思って美姫に聞いた。

「どうしたの?」

「うん、またあそこの駐車場で話す」

 達也と美姫はバイクで病院を後にし、いつもの公園の駐車場に来た。

 さすがに9月も下旬になると、陽が落ちるのが早い。公園の駐車場は人もいないし、既に街灯に炎が灯っている。

 ベンチに腰掛けると、美姫が話し出した。

「母の病室って4人部屋なんだけど、今は2人しかいなかったの。もう一人は田中さんっていうお婆ちゃんで、私たちは『田中のお婆ちゃん』って呼んでいたんだ。

 田中のお婆ちゃんは、優しくて、私が行くと『美姫ちゃん、お菓子はどう?』っていつもお菓子をくれたりしていた。

 でも、今日行くと、田中のおばあちゃんが居なくて、母に聞いたら亡くなって…。

 先週、土曜日に私と母が喧嘩した夜、急に吐血して、そのまま帰らぬ人になったんだって。

 あまりにも急な事だったので、家族にも看取られなくて、私の母一人だけが、看取ったそうよ。

 最後に『美姫ちゃんは?』って、聞いたらしいわ」

 達也はそのことは初めて聞いた事だった。

 きっと、その田中のお婆ちゃんも美姫と母親が喧嘩した事を気に掛けていてくれたのだろう。

 美姫もその田中のお婆ちゃんの事が好きだったのだろう。美姫は涙こそ見せないが、悲しいのは手に取るように分かった。

「そうだったんだ。それを考えると美姫ちゃんがなろうとしている看護婦は大変だけど、凄い仕事だと思う」

 何が凄いとか達也には言えない。だけど、看護婦という仕事が立派に見えて来る。

 片や、自分はと思うと今まで、そんな人の役に立つようなことは、何もして来なかった。

 達也は、美姫が眩しく見えた。

「美紀ちゃんは立派だ。俺は自分の彼女が、凄い立派な人だって言える」

「何それ?」

「美姫ちゃんは凄いって事だよ。凄いとしか言いようがないけど…」

 事実、その単語しか頭に浮かばない。

「私って彼女かなぁ?」

 美姫は思いがけない事を言った。

「だって、キスしたし」

「フフフ、もう一回したら彼女かも」

「えっ、それは」

 達也は周囲を見渡したが、周りには誰もいない。

 美姫が目を閉じた。達也は、美姫を引き寄せると、その唇に自分の唇を合わせた。

 美姫の身体は細い。達也が美姫の身体を解放すると美姫がはにかんだ。

「行こうか?」

 美姫が達也を促した。

「彼女?」

 達也はさっきの事が気になって聞き返す。

「当たり前でしょ、こんな美人な彼女がどこにいる」

「自分で美人って言うか?」

「あら、違うって言うの?」

「ううん、違わない」

「私が彼女で嬉しい?」

「オフコース」

 英語の苦手な達也だったが、オフコースだけは知っていた。


 達也と美姫はバイクに跨り、美姫は達也の身体に手を回す。

「男の人の背中って大きい」

 父親は昔から厨房に居て、美姫をおぶってくれた記憶はない。それは母も同じだ。美姫は母親に抱っこされたり、おんぶされた記憶が無かった。

 それが達也のバイクに乗るようになって、男の背中が初めて大きいと感じた。

 そして、それは自分が一番好きな人だ。達也に回す美姫の手が達也を離すまいとしっかりと握られると、達也と美姫の乗るバイクは速度が上がった。

「それじゃあ、これで。また、土曜日でいいかな?」

「土曜日、母が退院するの。だから、土曜日は、なくてもいい」

「そうなの?」

 それは良い事かもしれないが、達也にとっては美姫と会う理由がなくなる。

「それじゃあ、日曜日には会える?」

「退院しても、直ぐにはお店に出れないから、私が手伝わないと…」

 でも、来週の水曜日はまた、あのホームセンターで待っていたいと、達也は思った。

「うん、何かあったら電話するよ」

「私も電話する」

 今日も美姫は手を振って見送ってくれる。

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