第10話 上田からの招待
日曜日、達也は朝6時に家を出た。いつも朝練で5時には家を出ていたので、それほど苦痛になる時間ではない。
いや、むしろ普通より遅い時間だ。
さすがに日曜日の朝6時ともなると、車の数は少ない。達也は国道150号線に入ると、一路御前崎方面に向かう。
少ない交通量が太田川を越えると更に少なくなった。朝8:30の約束だったが、それよりも早く到着出来そうだ。
日曜日なので、御前崎のツーリングも居るかと思ったが、さすがにこんな早い時間のツーリングもない。
スズキの相良工場に着いたのは約束より大分早い7:45頃だった。
正門の警備所のところで上田の名前を出すと、警備員のおじさんが、電話でどこかに連絡している。
しばらく待っていると、中から上田がTシャツに短パン姿で現れた。
「早いな」
挨拶もせずに上田は言って来た。
「渋滞していると、いけないと思って」
「そうか、なら入れ」
上田は警備所警備員と何か手続きのようなものをしていたが、パスを達也に渡すと、中に通してくれた。
「それは首から掛けておいてくれ」
上田はパスの事を言ったのだろう。達也は無言で頷いた。
「テスト自体は9時からなんだ。あまり早く来られても見せるところは無いんだ」
それは、ここで開発とか試験を行っているという事だろう。企業の秘密から当然の事だ。
「それじゃあ、ここで待って居て貰っていいか。時間になったら迎えに来る。あっと、トイレはここを出て右に行けばあるから」
朝が早かったので、空気も冷たかった。正直、達也も生理現象を我慢していたので、上田に言われたトイレに行く事にする。
だが、トイレから帰ると、会議室のような所に一人残されてしまった。
正直、何もする事がない。窓の外には工場の向こう側に山が見えるだけだ。反対側のテストコースはここからは見えない。
何もすることがなく、9時前になると上田がライダースーツを着て現れた。
「ごめん、待たせたな。それじゃあ、行こうか」
達也は上田に連れられるようにして、工場の中を歩く。正直、工場の中は迷路のようで、どこを歩いているか分からない。
そのうち、建物を出るとそこには、レース場にあるパドックと整備工場を一緒にしたような施設があり、中央に黒と青いラインのバイクが置かれている。
その車体には「SUZUKI」の文字があった。
だが、それは上田がいつも乗っているカタナではない。
「上田、あれは?」
「あれが今回販売するやつだ。RG250ガンマっていうやつだ」
達也も名前は知っている。雑誌とかでも取り上げられていたやつだ。
達也は、そのバイクに釘付けになった。
「明、それが学校の友だちか?」
「ええ、そうです。川杉といいます」
上田がメンバーに紹介してくれた。
「川杉です、よろしくお願いします」
「君もバイクに乗っているのか。何に乗っているんだい」
スタッフの一人が聞いて来た。見るとそんなに歳を取っていない。真一より若干上ぐらいだ。
「ヤマハのXJ400です」
「おっ、ライバル会社だな」
「ははは、そうだな。その川杉くんに是非とも、これを買って欲しいね」
「RZに対抗したやつだからな」
そんな声が上がる。
上田がその真新しいバイクに乗ってエンジンを掛けると、カタナとは違う軽い音がする。
しかも、マフラーから出て来る煙が白い。
「これは2サイクルなんだよ」
先程の若いエンジニアが、説明してくれた。
2サイクルエンジン。ヤマハのRZというバイクがそうだ。先ほど、RZに対抗と言っていた意味が分かった。
上田はRG250ガンマに跨ると、もの凄い勢いで、発進させる。
上田を見るとバイクと一体になっていて、ライディングスタイルも良い。それにスピードも違う。一体、何キロ出ているのだろう。
上田はあっという間に、テストコースを一周すると、二周目に入った。
そうやって、どんどん周回を重ねて行く。
達也は、周回を重ねる上田を見ていたが、そのうち上田が戻って来た。
ヘルメットのバイザーを開けて、スタッフと何か話している。
その話し声は達也の所まで聞こえない。
達也は上田の方を見るが、上田はエンジニアたちと時に真剣に、時に笑みを浮かべながら話しをしている。
話の内容は分からないが、達也には同級生の上田が自分とは違う大人の世界にいる、大人の男性に見えた。
「自分とは住む世界が違う」
達也の思った事はそうだった。
達也は、上田の招きに応じた時、一流企業開発現場を見られるなんてラッキーとしか思わなかった。
なので、物見遊山と好奇心で来たが、正直、今は後悔している。ここは自分が居る場所ではない。
テストをしている人たちは全員が真剣で、そこに達也の入り込む余地は少しもなかった。
上田は、こんな環境でバイクに乗っていたのか。
達也は誰にも話しかけられず、また話しかけもせずに上田の走る姿を見ていた。
10時になると上田が戻って来て、バイクから降りた。それと同時にバイクが点検されるのか、後方にある整備スペースのような場所に入れられる。
これはバイクレースにある対応と同じだ。
「川杉、どうだ?」
ヘルメットを脱いだ上田が聞いてきた。
「もう、走らないのか?」
達也の方が聞いた。
「いや、まだだ。今、ちょっと設定を変えているんで、それが終わったら、また出る」
それまでは上田の仕事は無いということだろう。
上田はヘルメットを脱いだレーシングスーツのままでいる。
「面白いか?」
上田が、再び聞いてきた。
「いや、同じ事の繰り返しで、見ていても良く分からない」
「開発ってそんなもんだよ。同じ事を何度も何度もやって、それを煮詰めていく。それの繰り返しさ。
傍から見ているとハデに見えるかもしれないが、実体はそんなところだ」
上田の言っている事は、正しいのだろう。
達也もバイクは好きで乗っているが、仕事になると楽しくないのかもしれない。
以前、上田が「バイクが好きだというヤツに限って事故る」と言った事があるが、仕事にしている者からすれば、そう映るのだろう。
結局、達也は15時まで上田の仕事を見ていたが、それは期待に反して面白いものではなかった。
「さて、帰るか。一緒に帰るだろう?」
「ああ、そうだな」
達也は正直、疲れた。ただ、見ているだけだったが、同じ事の繰り返しがこんなに疲れるものだったとは知らなかった。
「ちょっと待ってくれ、着替えて来る」
上田は達也を残して、どこかへ消えた。15分ぐらいするといつものTシャツ、短パン姿の上田が現れた。
「さあ、行くか」
達也は上田のカタナの後ろを追いかける。
だが、上田は工場からの下り坂を容赦なく飛ばす。達也も追いかけるが、とても追いつけない。
赤信号が見えると、カタナが止まっていた。
「遅いぞ」
「飛ばすなよ、こっちは不慣れな上にパワーが無いんだよ」
「下りはパワーなんて関係ないだろう。ほら、行くぞ」
上田はそう言うとカタナを発進させる。
真一のツーリングでは、不慣れな者、馬力が無い者が先頭を走った。だが、上田はそんな事は一切しない。
自分がさっさと走って行き、達也は信号で追い付くぐらいだ。
白線のところでは、車もバンバン追い越していく。
「これは捕まると免停だろう」
達也は後ろから追いかけながら、そう思った。
帰りの150号線は御前崎からの帰りの車やツーリング帰りのバイクが混んでいる。
こうなると、さすがに上田も追い越せないようで、車の後ろを付いていたりする。
「ああ、良かった」
達也は離される事がなくなったので、安心した。
上田のカタナはツーリング帰りのライダーからは羨望の眼差しで見られる。その後ろを走っている達也でさえ、なんだか自分が偉くなったような感じがする。
「でも、自分は400だしな」
達也も限定解除の免許が欲しくなった。
上田の言う通り、地味な練習をしていれば、取れるのだろうか。本当に取れるのなら、もう少し、頑張ってみたい。
帰りは渋滞もあったせいか、浜松に着いたのは18時だった。
「やっぱり、この時期になるとTシャツ、短パンは寒いな。次からはGパンにするかな」
上田が呟くように言うが、カタナにTシャツ、短パンで乗る方が達也から言わせればどうにかしている。
「夏でも、Tシャツ、短パンはどうかと思うぞ」
「そうか?でも、暑いじゃんか」
「まあ、そうだけど」
確かに真一たちが、ツーリングで着ていたライダースーツは暑そうだった。達也もあれを着るのは抵抗がある。
「それじゃあ、気を付けて帰れよ」
上田は、そう言うとカタナでさっさと行ってしまった。達也も愛車のXJ400を家の方に向けて発信させた。
「ただいま」
「お帰り」
家では母が出迎えてくれた。テレビのある和室に行くと、妹の早紀がテレビを見ている。
「なんだ、早紀、まだ漫画を見ているのか」
達也が妹をからかう。
「だって、これを見ないと、日曜日が終わった感じがしないもん」
達也もそうだった。昔は日曜日の夕方にこのアニメを見ると、また明日から学校だと思ったものだが、それが今では見ない事の方が多い。
それは達也自身が大人になったのか、それとも意識が変わって来たのか、自分でも説明は付かない。
達也も早紀と一緒になってそのテレビを見る。すると昔の記憶がいろいろと思い起こしてきた。
中学では何気なしに入った卓球部だったが、3年間続けた事、高校で原付免許を取って買って貰ったバイクで通学を始めた事、そして中型免許を取って400を買って貰った事。
思えば400に乗るようになった頃位から、自分の世界が広がったような気がする。
大人になったというか、今までの世界と違う事は肌で感じた。
「達也、お風呂に入りなさい」
達也は腹が減っていたので、先に食事にしたかったが、母親の言葉に従って、風呂に入る事にした。
風呂から出て来ると、食事の用意が出来ていた。父親は既にビールを飲んでいる。
「早紀は風呂に入らないのか?」
「私は後で入るから」
「お兄ちゃん、クラスの子がお兄ちゃんのバイクの後ろに乗りたいって」
食事の時に、早紀が言って来た。
「そんな、怪我でもさせたら。怖いから止めておきなさい」
母親が反対するが、それに異を唱えたのは早紀だった。
「私なら怪我してもいいの?」
「他人さまの子と自分の子は違うのよ。それに単車は通学のためなのよ」
母は、バイクの事を単車と言う。
達也も母の言う事は理解できる。上田の技術を見ている自分としては、後ろに他人を乗せて走るなんて、自分でも嫌だ。
「他人じゃなきゃいいの?なら、お兄ちゃん、私を今度どこか連れて行って」
「えっ、早紀とデートは嫌だなあ」
「えー、酷いなあ」
早紀が、ちょっと剥れたが、達也はやはり事故が怖い。
翌日、学校に行くと、誰が持って来たのかバイク雑誌があった。その表紙を飾っていたのはブラック/ブルーのRG250ガンマだ。
もちろん、雑誌の中身はRG250ガンマの特集記事になっている。
「カッコいいよな」
「250だと、車検もいらないしな」
「そうだな、でも、高校生の身分じゃ、どう逆立ちしたって買えないけどな」
そんな声がする。昨日、その実物を目の前で見て来た達也にとっては、その雑誌記事よりも分かっているつもりだったので、その輪に入ろうとも思わなかった。
だが、自分から入らなくても相手の方からやって来る事もある。
「どうだ、川杉、RG250ガンマは?」
「えっ、ああ、いいと思うよ」
まさか、昨日見て来たとは言えない。
「お前、中型持っているだろう。乗ろうと思えば乗れるだろう」
「それは免許的には乗れるけど、高校生にそんなのが買えると思うか?」
「やっぱ、金か」
結局、落ち着くところは金だった。
「金」と聞いて、達也は裕子の事を思い出す。
裕子は金の為に愛人や身体を売ったりしている。達也だって、金は欲しい。だけどそれで、身体を売る事は出来るのか。
男と女と考えが違うのか。達也は答えが出せないでいる。
上田の方を見ると、我関せずといった感じで、教科書を見ている。
そう言えば、上田がバイクの免許を持っている事は本人からは一言も言って来ない。
クラスメートでさえ、上田はバイクに乗らないものと思っている。
だが、上田はスズキのテストライダーを務めるほどの熟練者だ。その正体を知れば、クラスの連中は黙っていないだろう。
なにしろ、中型免許を持っているのでさえ、達也と信二くらいで、中型バイクを持っているのはクラスでは達也だけなのだから。
就職の方は達也は第一希望スズキ、第二希望ヤマハで出したが、就職担当の先生からは希望者数も多く、現在の学力では難しいと言われた。
達也は、それ以外の企業を探さざるを得ない。高校生の達也にとっては、企業の名前なんて正直有名なところ以外は分からないので、就職担当から「ここは、いいぞ」と言われても初めて聞く名前なので、正直、迷ってしまう。
そんな時だ、校庭に暴走族のバイクが現れ、爆音を立てて走り回った。
教室の窓から生徒がその様子を見る。
ヘルメットなんて被っていないので、顔は分かるが、そのうちの一人が退学になった高木だった。
髪型もリーゼントにしており、白い特攻服と呼ばれる服を着ている。
「高木だ」
「高木だ」
教室の中から「高木」の声が上がる。
誰かが呼んだのだろう。パトカーのサイレンが聞こえて来たと思ったら、高木たちは校庭から出て行った。
高木は悪だったが、それでも学校には来ていた。高木は実は学校が好きだったのではないだろうか?
達也は漠然とそう思ったが、それならば先ほどのような行為はして欲しくなかった。
しかし、今の高木は達也とは住む世界が違う。
達也は高木と関わり合いたく無いと思った。
「達也、就職面談の方はどうだった?」
「スズキやヤマハは無理だろうって…」
「そうか、お前もか」
「信二も同じか?」
「ああ、そうすると、どこにしようかな」
就職企業一覧が張り出されているが、正直、スズキとヤマハ以外の企業は知らない。
ここにないのは公務員ぐらいのもので、警察官や消防士を希望する者も居るが、達也では公務員も無理だと思っている。
白バイ隊員には憧れもするが、それは憧れでしかない。
達也は就職先企業の一覧表を見ながら、溜息をついた。
「信二、どうする?」
達也は、隣で同じように溜息をつく信二に聞いた。
「うーん、この『第一機械工業』にしようかな。企業案内を見ても、週休二日だし、給料は高卒ならこんなもんだろう」
達也も信二が見ている企業案内を覗き込んだ。
種別は製造業とあり、製造品は自動車、オートバイ部品とあった。
従業員も1,000人以上いるみたいだ。大企業といっていいだろう。
「国鉄とかないな」
「国鉄は赤字だから、解体されるという噂だしな」
「だけど、先輩で国鉄に行った人がいるじゃないか?」
「まあ、コネか何かだろう」
浜松にも新幹線の基地がある。そこに就職できればいいとは思うが、恐らくそれも倍率が高いだろう。達也は企業一覧を見て、再び溜息を吐く。
「ただいま」
「おかえり」
達也が家に戻ると、母親が迎えてくれた。
「母さん、就職面談があるから、来週ぐらいに学校へ来てくれって」
「達也、あんたどこにするか決めたの」
「うん、東海相模部品製造という車やバイクの部品を作っている所にしようかと思う」
達也は信二と同じような所にしようと思っている。
「ふーん、あなたが、そこでいいならいいんだけど…」
恐らく母親も、その会社の名前を知らないんだろう。そんな答えしか返ってこない。
「それより、早紀はどこの学校を受けるのか決まったのか?」
和室でテレビを見ている早紀に聞いた。
「私は『浜松女子高』にしようと思っている」
「へー、早紀は将来何を目指すんだ」
「看護婦さんかな」
「早紀が看護婦さんか。それは患者が可哀そうだ」
「もう、人が何になろうが、いいじゃない」
早紀は膨れたが、達也は自分より先のことを考えている妹の方が、将来が明るいような気がした。
浜松女子高には、確か看護科があった。早紀はそこを受けるのだろう。
だが、看護科は倍率が高いらしい。達也も中学の受験を経験しているので、大体の学校のレベルは分かる。
「浜松女子の看護科って、結構レベルが高いんだろう。テレビばかり見ていて、早紀は大丈夫なのか?」
兄として、ちょっと心配になった。
「まあ、どうにかなるでしょ。当たって砕けろよ」
「当たって、砕けてばかりにならないきゃいいけど」
「もう、いいじゃない」
早紀は、とうとう怒った。
自分も一流企業に就職できないので、早紀のことは言えたもんじゃない。
達也は内心、自分を嗤った。
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