第9話 真一の事故

「早紀、しっかり掴まっていろよ。そうじゃないと振り落とされるぞ」

「分かったよ、お兄ちゃん」

 早紀は、運動着やシューズをバッグに入れ、肩にたすき掛けしている。

 昔のヘルメットはちょっとダサイ感じだが、この際、仕方ないだろう。

 達也は早紀の為に、いつもより大人しく発進させた。

 だが、早紀は怖かったのか、達也にしがみ付いて来る。

 バイクで二人乗りしても、走りながら前後で話をする事は出来ない。

 信号で止まった時に早紀に聞いてみた。

「早紀、怖いか」

 早紀は何も言わずに首を振った。その感触が背中に感じる。

「そうか、それなら、またしっかり掴まるように」

 早紀が達也の身体に力を入れたのが分かった。

 達也は、青信号で再び発進させる。


「それじゃ、ここで良いか」

 市体育館の前で早紀を降ろす。

「終わった頃に迎えに来る」

「うちの学校、弱いから直ぐに終わるから、待っていてよ」

 達也も同じ中学だったから分かるが、女子バレー部なんて、部員がギリギリで、毎年1回戦負けだ。今年も、それで終わるだろう。

 それに達也もこれと言ってする事もない。

「そうか、家に着いたら、直ぐに迎えに来ないといけないのも面倒臭いな」

 達也は妹の試合を見て行く事にした。

 観客も学生の親御さんだけで、けっして多いとは言えない人数だ。

 達也はコートを見下ろすベンチに腰を掛け、自分の出身中学の校旗を見た。

 コート上には体操服に着替え、背中に番号を貼った妹が居た。

「おっ、あいつレギュラーなんだ」

 しかし、ベンチの方を見ると、まだ若い女性教員の横には、同じ体操服を着た、それこそ小学校を出たばかりのような子が5人座っている。

「なるほど、3年生は全員がレギュラーって事か」

 女子中学生は9人制で行われる。そして、早紀のいる中学ではアタックなんてほとんどない。

 TVで放送されるバレーボールを見た目からすると、何とも退屈な試合だ。

 それでも、試合は続き、妹の中学は2-0で負けた。

 試合が第一試合目だったので、あまりにも早く終わってしまった。

 達也がロビーの所で待っていると、何人かの目を赤く腫らした女子たちと一緒に早紀が来た。

 恐らく、中学最後の大会で負けた事で泣いたのだろうが、見ていた達也からすれば、なんとセンチなことだろう。

 その集団には、顧問と思われる20代の先生が先頭に居た。

 達也は早紀を見つけて呼んだ。

「早紀、終わったか。それじゃ、帰るか」

 早紀は達也の所に来た。

 そこに、顧問の先生も来た。

「あなたは、川杉さんとどういう関係ですか?」

「えっ、兄ですが」

「えっ、お兄さん」

「ええ、母親から、妹の送り迎えを頼まれたんです」

「そ、そうなんですか」

 20代の若い先生は、達也がヘルメットを持っていたので、悪い仲間だと思ったのかもしれない。

「それでは先生、これで失礼します」

 達也は早紀を促した。

「ええ、それでは気を付けて」

 顧問の先生から早紀を受け取ると、ヘルメットを渡した。

「お兄ちゃん、バレー部の子が『早紀ちゃんは、バイクに乗っている、かっこいいお兄さんが居ていいなあ』って」

 達也は妹の同級生にそう言われて、悪い気はしない。

「そうか?特に、かっこいいって訳でもないだろう」

「そうね、バイクがかっこ良くて、本人を見ていなかったのかもしれない」

 さっき褒められたと思ったのに、今はけなされ、達也はがっかりする。

「でも、また何かあったら、バイクで送ってね」

 早紀は、どうやらお調子者のようだ。


「南海上で発生した台風は、明後日には日本に近づくものと予想されます」

 夕食後のTVが台風の予報を言っている。どうやら、明後日は天気が悪そうだ。そうなると通学も容易ではない。

「あーあ、台風か。学校が休みにならないかな」

 早紀がTVを見ながら言うが、その意見に達也も同意する。

 予想された台風の日になっても朝のうちは雨こそ降ってないが、雲は厚く、今にも雨が降って来ても不思議ではないような空だ。

 それに黒い雲が異常な速さで流れている。

 達也は合羽を持ってバイクで家を出た。

 学校に着くと、窓ガラスに雨が当たり出し、それが昼頃になると窓に当たる雨の音が強くなってきた。

 お昼が終わって、5時間目が始まろうという時だ。担任が入って来た。

「今日は台風が来るらしいから、臨時休校になった。みんな気を付けて帰る様に。

 特に遠方から通学している者はこれから雨がひどくなる予報が出ている。川の氾濫とかにも気を付けるように」

 昼からの休校が決まったので、達也も帰る支度をして学校を出た。

 最寄りの駅を降りると、更に雨が強くなっている。駅舎の中で合羽を着て、達也はバイクに跨った。

 ヘルメットのバイザーに当たる雨で視界が悪い。

 達也は物凄い雨の中をどうにか家に帰り着いた。

 夜、夕食が終わった時だ。早紀が呼ぶ声がする。

「お兄ちゃん、電話」

「ほーい、誰からだ?」

「うんとね、新村さんとか言う人」

 信二だ。こんな夜に何事だろう。

「もしもし、信二か?」

「達也、兄貴が家を出て行った」

「はっ?」

 達也は、信二の言った意味が理解出来ない。

 真一も大人なので、家ぐらい出るだろう。

「家を出て行ったってどういう事だ?」

「この台風の中、兄貴が車で出て行ったんだよ」

 たしかに、こんな台風の夜、車で出かけるなんて普通ではないが、何か急用でもあったのではないだろうか?

「何か、用があったんじゃないか?」

「それが裕子さんの事のようだ」

「裕子さんの?」

 達也は裕子が身体を売っている事を知っている。それが真一にバレたのではないかと思った。

「裕子さんと何があったんだ?」

 達也は裕子の事を惚けて聞いてみる。

「土曜日に裕子さんが、男性と車に乗っているところを見たらしいんだ。それで、そのことを裕子さんに聞いたらしい。

 それで裕子さんは付き合っている人が居るって事が分かったらしい」

 信二の話は伝え聞きでしかない。真一は本当にそんな事で飛び出したのだろうか?

「でも、それで飛び出すか。真一さんもいい大人だし」

 達也の言葉に信二も落ち着いたようだ。

「ああ、確かに。ちょっと待ってみるよ」

 信二からの電話はそれで切れた。

 それからは、夜が更けるに従って風雨も強くなってきた。窓に当たる風の音と雨の音がその強さを物語っている。

 例え車で出かけたとしても、このような中では危ないだろう。真一は今、何を考えているのか。

 ベッドに入って達也は、真一と裕子の事を思った。

 夜が明けると、外は既に風も収まっていて、雨も降っていない。

 窓を開けてみると、雲の流れは速いが、所々青空も見えている。

 だが、窓から見える道路には木の枝が、それにどこから飛んできたのか、ベニヤ板も散乱していた。

「これじゃ、学校は休みにならないな」

 達也は仕方なく、学校に行く準備をした。


 学校に来ると既に信二が居て、達也の姿を見ると近づいて来た。

「おはよう」

「実は昨日、兄貴が事故った。今、入院している」

 信二は、挨拶もせずに真一が入院した事を言って来た。

「入院?どうしてそうなったんだ?」

「昨日、兄貴が車で出て行って、旧道の橋の欄干にぶつかったらしい。たまたま後続の車の人がそれを見ていて、救急車や警察を呼んでくれたということだ」

「それで、真一さんは大丈夫なのか?」

「入院はしているが、まあ、軽傷の方だ。シートベルトをしていたのが良かったらしい」

「車とかは?」

「そっちは廃車だな。それと退院しても、しばらくはバイクにも乗れないみたいだ。左足に力が入らないらしい」

 真一は裕子の事を知って飛び出した。何か、裕子の事で知ったからだろう。

 そうでなければ、普通の対応ではない。

 達也は裕子に聞いてみる事にした。達也が聞いた所で、何も解決するとは限らないが、今の達也にはそうする事しか思い浮かばなかった。

 以前、エアコンの取り付けで裕子の自宅に行った事がある。その記憶を元に近くに行ってみると、見たことがあるマンションがあった。

 裕子の部屋の前に来ると表札に「杉田」とあった。

 達也はインターホンのボタンを押す。

「ピンポーン」

 直ぐにインターホンから声がした。

「はーい、どちらさまですか?」

「川杉達也です」

 一瞬、インターホンの向こうが静かになった。

「ちょっと、待ってて」

 ちょっとと言ったが、5分ほど待たされた。

「ガチャ」

 裕子が扉を開けて出て来た。

「あら、達也くん、どうしたの?」

「真一さんが事故って入院しました。ご存じですか?」

「ええ、啓くんから電話があったわ」

「それで、事故った原因は裕子さんのようなんですが、何かあったのではないかと思って心配で訪ねて来ました」

「……、そう」

 裕子は、それだけ言うと目を逸らした。

「あ、あのう…」

「近くの喫茶店にでも行きましょう。さすがに女性の部屋に上げる訳にいかないから」

 達也は裕子に誘われて、喫茶店に向かう。その間、裕子とは話はしない。

 席に付くと、裕子はコーヒーを頼んだ。達也も同じものにする。

「達也くんもコーヒーなの?レスカじゃないのね」

 裕子は、達也を子ども扱いしているようだ。

 達也はそれに構わず、真一の事を話し出す。

「それで、真一さんの事なんですが…」

「うん、先週の土曜日に他の男性の車に乗っている所を見られてね、実は前にも見られた事があって、真くんにどういう事だと詰め寄られたの。前の時は、別の人の車だったし…」

 達也は裕子の次の言葉を待った。

「それで私もカッとしちゃって、今までの事をしゃべっちゃったの。そうしたら、真くんが罵って来て、結局、言い争いになったのね」

 そこまで言ってから、裕子はバックの中から煙草を取り出し、火を点けた。

 紫煙の臭いが、周りに漂う。

「裕子さんは、煙草を吸うんですか?」

 裕子は清楚な感じがして、とても煙草を吸うような感じには見えなかった。

「私だって、煙草くらい吸うわ」

 達也はその瞬間、今まで裕子に抱いていたものが音を立てて崩れた。

 誰かの愛人とか、身体を売っているとか、そんなの本人が言っているだけで、女性の強がりみたいなものだと思っていた。実際に達也が見た訳でもないので、どこか違うんじゃないだろうかとも思っていた。

 だが、裕子が煙草を吸う姿は、いかにも商売女という姿だ。

 脚を組み、身体をくねらせて、煙を出している。

 その瞬間、達也も真一の気持ちが分かった気がした。

 真一も裕子に対して、イメージがあったのだろう。そして、そのイメージに惚れたが、実際に会ってみると、そのイメージとはかけ離れた女性だった事に気付き、居ても立っても居られなくなったに違いない。

 実際、いまの達也がそんな気分だ。

 それは真一が恋愛、いや女性に対して免疫がなかったと言えばそれまでだろうが、今まで信じていたものが崩れるのを我慢できなかったのも事実だ。

「真一さんのお見舞いには…?」

「今は会わない方が良いと思うの」

 裕子は、煙草の火を灰皿で消して、今度はコーヒーを飲みだした。

 達也もコーヒーを飲む。

「そうかもしれませんね」

 達也は何と答えていいか分からない。

 今の真一だって、裕子には会いたくないはずだ。

「私の事、軽蔑した?」

「あっ、いえ、そんな事…」

「いいのよ、軽蔑したって。でもね、私だって生きて行くためには、仕方ない事だってあるのよ」

「裕子さんは、それでいいんですか?」

「えっ?」

「今の生活で満足しているんですか?」

「そうね、満足ね。私みたいな女は…」

 裕子の言葉が途切れた。

「でも、裕子さんは絶対、違うと思います」

 何が違うのか、今の達也には説明できない。だけど、今の裕子は会った時の裕子ではないと思った。

「うん、エールだと受け取っておくわ」

 裕子はそう言うと、伝票を持って席を立つ。

「あっ、僕の分は…」

「いいのよ、高校生に払わせる訳にはいかないわ」

「すいません」

 達也は、裕子に奢ってもらう事になった。

 一度、浜松市の中心街まで来たので、帰りにも時間がかかる。それに9月にもなると陽の落ちるのも早い。

 既に真っ暗になった道を達也は家に向かって走った。


「お兄ちゃん、お帰り。えっと、上田さんって人から電話があったよ」

 家に帰ると、妹の早紀が上田から電話があった事を伝えてきた。

「上田から?」

 達也は上田が自分の家の電話番号をどうやって調べたのか不思議に思ったが、高木が事故を起こした直後に、クラス全員に連絡先を記載した連絡体制表が配られていた事を思い出した。

 恐らく、上田はその連絡体制表を見て、電話して来たに違いない。

「何だろう?」

 達也も同じ連絡体制表から、上田の家の電話番号にかけてみる。

「はい、上田です」

 お母さんだろうか、それとも姉だろうか、若い女性の声が出た。

「僕は上田くんと同じクラスの川杉と言います。上田くんから電話を貰ったようなので、掛け直しましたが、上田くんはご在宅でしょうか?」

「はい、ちょっと待って下さい。明~」

 上田を呼ぶ声が、黒い電話を通して聞こえる。

 しばらくすると、上田が電話を取った。

「もしもし」

「川杉だけど。電話を貰ったようだけど」

「今度の日曜日、時間はあるか?」

「はっ?」

 上田はいきなり聞いて来た。

「あっ、いや、話が見えなかったな。実はお前の事を父さんやスズキの人たちに話したんだ。お前はバイトでスズキの工場に来ていただろう。

 それを聞かれて、学校のクラスメートだと言うこと、バイクに乗っている事を話すと、今度、相良工場で行うテストランに連れて来てもいいという事になったんだ。

 お前に時間があれば、どうかなと思って…」

「えっ?」

 達也は上田の言っている事が直ぐに理解できなかった。

「もちろん、新村には悪いが、お前だけしか招待できない」

「えっ、えっ、いいのか?」

「まあ、テストも最終で、ほとんど市販ベースだからな、良いって事だろう」

「いいのか?」

 達也はもう一度聞き返した。

「ああ、大丈夫だ。良ければ、日曜日の朝8:30に相良工場の正門警備の所へ来てくれ。朝が早いが大丈夫か?」

「それは問題ない。朝8:30だな。是非、行かせて貰う」

 達也は上田から誘われた事は天にも登る程、嬉しかった。一流企業の開発工程、しかもテスト段階に立ち会えるのだ。

 普通の高校生には、あり得ない話だ。

 達也は裕子の事は、既に頭にはなかった。

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