第六章:異邦人の塔
ついに来た。
大通りの路地から理可の手を引いて象牙色の大理石の階段を上りながら、ふっと息を吐いて見上げる。
鏡じみた窓ガラスが午後の陽射しをきらびやかに照り返す、巨大な塔じみたビル。
非常に洗練され、完成された姿であるにも関わらず、何故かまだ建築の途中であるようにも見える。
音もなく吹き抜ける風は暑さの名残を残したアスファルトの匂いがした。
今までいた大通りの、あのゴマ油じみた臭気とは明らかに異なる。
見知った街に戻ってきたような、もっとのっぺらぼうな世界に入り込んでいくような。
入り口の自動ドアは鏡さながら手を繋いだ麦わら帽子とワンピースの母娘が近付いてくる姿を映し出すだけで、中の様子は窺い知れない。
予想より一瞬早く自動ドアが開く。
次の瞬間、麦わら帽子に青と白のストライプワンピースの私たちはクリーム色旗袍とネイビーブルー長袍と向き合う格好になった。
この街ではもはやお馴染みの服装だが、それを纏う風貌に改めて驚かされる。
建物の中に立ち並ぶテナントからのきらびやかな灯りを背にクリーム色の旗袍を着て立っているのは、ビターチョコレートじみた暗褐色の肌をした、五十がらみの黒人女性。
ネイビーブルーの長袍に身を包んでいるのは、プラチナブロンドに青灰色の目をした、まだ二十代半ばに見える白人男性。
中華風の服飾は彼らをこの街の住民に紛れさせるよりも、むしろ異質さを浮かび上がらせているように見えた。
「ハーイ」
黒人女性が何かを察した風な笑顔で人懐こく声を掛ける。
隣の白人男性も小さな理可に向けておどけた風に手を振った。
「ハーイ」
こちらも強いて笑顔で返す。
「はあい!」
娘はそういう遊びの合図と解釈したのか、笑って声高に告げると異邦人の二人に大きく手を振った。
私たちは入れ替わるようにして自動ドアを通り過ぎる。
「わあ、お店いっぱい」
娘は数時間前(のはずだ)、中華街に足を踏み入れた時と同じ感嘆の声を上げる。
焼けた肉の温かな匂い、 菓子の甘い香り、そして花茶の香気。
どうやらこの一帯はレストランやカフェやお菓子屋さんのテナントがメインのようだ。
つるつるした象牙色の大理石の床。
磨かれたガラス板で通路と仕切られた店舗。
見上げれば、上の階は回廊状に幾重にも連なり、吹き抜けの天井は遥か高かった。
やはりガラス張りの天井からは青々とした空と流れてゆく雲が切り絵のように覗いて影を落としてくる。
初めて目にするはずなのに、どこかで見たような光景だ。
もっとはっきり言えば、ランドマークタワーやクイーンズスクエア、あるいはワールドポーターズを歩いた時の感じに似ている。
“麥當勞 McDonald's”
“星巴克珈琲 STARBUCKS COFFEE”
“聘珍樓”
“寿司鐵板燒 君千代”
目に入る文字列でやはり馴染みのない場所だと思い知らされる。
取り敢えず、駅は地下だそうだからエスカレーターかエレベーターを探そう。
歩き疲れて眠いのか少し熱を帯びてきた理可の手を引いて奥に歩みを進める。
ブーッ、ブーッ、ブーッ……。
包み込むような甘いコーヒーの香りを嗅ぎ取ったところで聞き慣れた振動音が耳に飛び込んできた。
「もしもし?」
スマホを取り出して“圏外”の表示を確認したところで取り澄ました声が響いてきた。
「タイカのスタバ」
声の方角を振り向くと、すらりとした体に珈琲色の旗袍を纏った女が、真珠色のビーズバッグを膝に乗せ、ゆったりとソファに腰掛けて、シルバーのスマホに話し掛けていた。
さっき大通りで人力車に乗っていた人だ。
やっぱりこのビルに来ていたらしい。
向こうは気付く様子もなく抜けるように白い横顔を見せて語り続ける。
「五階に新しく入った家具屋で色々見てたの」
丸テーブルに置いた透明プラスチックのカップを取り上げてストローに口を着ける。
多分、緑色だから抹茶クリームフラペチーノだ。
「いい長椅子見つけたの、フランス製の」
甘いコーヒーの香り漂うアメリカのカフェ風の店で、抹茶味のフラペチーノを啜りながら、スマホでフランス製の家具について語る、チャイナドレスの女。
「今度引っ越す部屋はユーロピーアンにしたいから」
微妙に巻き舌で発音する“ユーロピーアン”は、恐らくカタカナ日本語で言う“ヨーロピアン”だ。
眺める内に広い肩に薄紫の長袍を纏った、波打つ黒髪で肌の浅黒い、しかし彫り深い顔立ちからラテン系と思われる若い男性が白い紙カップを手に現れて別なソファに腰掛けた。
ここは一体、どこの国なんだろう。
「見つけたよ」
すぐ背後で声がした。
「アシュン!」
ソファの中国美人はこちらに向けた顔をパッと輝かせた。しかし、次の瞬間、私たち母娘に目を止めると、思い出した風に固まった面持ちになる。
“また見掛けてしまった”
無言のままそんな表情を見交わす。
「来る途中、ホウオウバシが封鎖されててね」
ふわりとベルガモットじみた香りを漂わせ、栗色の辮髪をゆったり垂らした、黒絹の長袍の背中が私たちの脇をすり抜けてソファの彼女に近付く。
「あすこにいた日雇いの連中が随分しょっぴかれたみたいで……」
「コクガオウジ!」
隣で理可がすっとんきょうな声を出した。
「さっきの本屋さんで売ってた人形の王子様だよね?」
満面の笑顔で黒絹長袍の男性を指差してこちらに尋ねる。
「止めなさい」
小さな腕を戻そうとする頃には栗色の辮髪の頭もこちらを振り返っていた。
「そうだよ」
向き直った黒絹長袍の青年は小さな白い面の切れ長い目を細めた。
「よそから来た子なのに観てくれてありがとう」
ベルガモットの匂いが近付いてきて理可の小さな麦わら帽子の頭を撫でる。
その様子を目にすると、ソファに座していた中国美人もふっと和らいだ表情になって声を掛けた。
「ニホンマチからお母さんと来たの?」
似通った滑らかに白い肌といい、切れ長の瞳といい、この二人は夫婦や恋人同士というより姉弟のように見える。
理可は見知らぬ二人に麦わら帽子の頭を大きく頷かせた。
「今日はママと中華街に杏仁豆腐食べに来たの!」
今となってはそれが遠い過去のように思える。
「それから、映画館でおともだちとかくれんぼして、パイランちゃんとエルサの本を見せてもらって、本屋さんでリカちゃんとコクガオウジのお人形を見たんだよ!」
笑顔で語る幼い娘を黒絹長袍と珈琲色旗袍のカップルはもちろん、奥の席で白い紙カップに口を付けていたラテン系男性も微笑んで見守る。
「コクガオウジのお人形、一個だけ残ってたから、お話したお姉ちゃんが喜んで買ってったの」
「そうなんだ」
黒絹長袍の青年は女性と見紛うほどほっそりした白い手で笑窪の出来た理可の小さな頬をそっと撫でた。
「おうちに帰ったら、コクガオウジのお話見るね!」
何の疑いも迷いもなく言い切る。
「ありがとう」
ちらと母親の私に目を走らせると、何か察した風に苦いものを含んだ笑顔で青年は立ち上がった。
ベルガモットの匂いがまた甘いコーヒーの香りを押し出すように立ち上った。
「じゃ、またね」
悪戯っぽく笑って理可に小さく手を振る。
中国美人とラテン男もそれに倣った。
「バイバーイ」
大きく手を振る娘の空いた方の手を引いて歩き出す。
包み込むような温かなコーヒーの香りはたちまち花茶の濃い香気に取って代わり、次いで酢飯のツンと来る臭気が通り過ぎて、ひやりとした大理石の匂いになった。
“港未來站 地下4樓”
開けた視野に電光の表示板と下に続く巨大なエスカレーターが入ってくる。
降りて行くエスカレーターにも上ってくるエスカレーターにもぽつぽつと人影が見えた。
いずれも詰襟で裾の長い中華服のシルエットに思えたが、もはやそちらに進むしかない。
「どうしたの」
繋いでいた手から急に後ろに押し戻されて一瞬よろけてしまった。
ここの磨かれた大理石の床はサンダルの足には清潔さよりもむしろアイスバーンじみた危うさが先立つ。
「行かない」
先程より熱を帯びた手の理可は早くも涙ぐんでいる。
これはもう眠くてぐずる合図だ。
四歳の娘はワンピースのスカートを広げるようにして冷たい床の上に座り込んだ。
手を繋ぐこちらも釣られて屈み込む格好になる。
近付いた床からツンと象牙の匂いがした。
「もう電車に乗っておうちへ帰るよ」
ガラガラガラガラ……。
背後からの音に振り向くと、クリーム色の長袍を着た、しかし金縁眼鏡を掛けた赤ら顔も膨張したように肥った巨体もカーネル・サンダースそっくりの白人のお爺さんがキャリーケースを引きながら歩いてくる所だった。
どうやらエスカレーターで上がってきたらしい。
詰襟の首回りが暑いらしくキャリーケースを引きつつ黒いハンカチで顎の下を盛んに拭っている。
「ハーイ」
目が合うと、お爺さんは金縁眼鏡の目を細めた。
「はい」
こちらも極力笑顔で頷く。
ガラガラガラガラ……。
車輪の音もクリーム色の長袍の背中も遠ざかって中華服の人ごみに紛れていく。
あの人ですら、この街のれっきとした住民なのだ。
ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン……。
磨かれた床から微かな震えが伝わってきた。
どうやらこの下で電車が新たに出たらしい。
「電車乗るの、こわい」
この子は普段やることでもやりたくない時には「こわい」と言う。
そして、こんな風に座り込んでひとくさりぐずる。
「別に怖くないよ」
普段と違うのは今は私も少し怖いということだ。
そもそも普段いる場所ではないから。
「もっとここで遊びたい」
鼻と目の縁を赤くして娘はごねる。
この子には風変わりな“おともだち”やお兄さんお姉さんが遊んでくれる街なのだろうか。
「もう遊ぶような所はないよ」
親切に遊んでくれる人ばかりとも限らない。
――お母さんとお子さんは気を付けて。
本屋の前で遭った牡丹簪の女の子もそう語っていたではないか。
象牙の匂いを放つひやりとした大理石の床にしゃがんでいると、むしろ今まで安全でいたこと自体がこれから突き落とされる前振りのように思えてきて背筋が寒くなる。
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