第五章:東亞書局

「わあ、涼しい!」


 書店特有の紙とインクの匂いと共に冷気が押し寄せると、理可は感嘆の声を上げた。


 この街にもエアコンはあるのだ。


 そういえば、さっきの茶館も出た瞬間、むあっと熱気に包まれたから、館内は冷房が効いていたのだ。


 さて、店員さんのいるカウンターは……。


 見回した所で横に手を引かれる。


「これ、欲しい」


 扉の外からも見えた“魔法少女白蘭”の等身大パネルの後ろには、“魔法少女白蘭 電影版 金銀暴波”の写真絵本が平積みされている。


 のみならず、その隣には真っ青なサテンのチャイナドレスを着た“白蘭”、金糸ケープに朱色ドレスの“金焰公主”、そして銀糸ケープに水色ドレスの“銀雪公主”の着せ替え人形も箱入りで陳列されていた。


「エルサのリカちゃん、売ってる」


 確かにまるでリカちゃん人形だ。


 というより、私が子供の頃に売っていた「ちゅうかなぱいぱい」や「ちゅうかないぱねま」の着せ替え人形はこんな感じだった。


 この白蘭ちゃんは黒髪、やや小さい目で今の金髪で瞳の大きなリカちゃんよりアジア的な風貌をしている。


 赤毛の“金焰公主”と白髪の“銀雪公主”も基本は同じ顔立ちだ。


「お母さん、これ、買う!」


 背後から声がした。


 振り向くと、“特價”とプラカードを差したワゴンが目に入る。


 恐らくはセール品入りのワゴンだろう。


「コクガオウジのお人形、やっと見つけた!」


 小学校低学年くらいの、お団子頭に藍色旗袍の女の子がワゴンに並んだ箱の一つを取り出す。


“黒鵝皇子”と記された箱には黒い羽付きの衣装を纏ったリカちゃんのボーイフレンド風の人形が入っていた。


「今日はもう電影院で小冊子買ったでしょう」


 臙脂えんじ色の旗袍に束髪の母親が近付いてくる。


 小脇には“魔法少女白蘭”の映画パンフレットに加えて“現代婦女生活”と題された雑誌らしい本を抱えていた。


「この前はこれ、売り切れてて買えなかったもん」


「それ、王子様の人形?」


 理可の声に母娘はおや、という顔つきで振り返る。


「さっきの子だね」


 男性人形の箱を手にした藍色旗袍の女の子が親しげに笑う。


 そういえば、さっき建國電影院で“魔法少女”の映画の説明をしてくれた子だった。


 こちらの方でも思い出す。


「これ、黒鵝皇子コクガオウジっていう、『魔法少女』の前の電影に出てきた敵の皇子様なの」


 ワゴンには“魔法少女白蘭 電影版 黒鵝飛翔”と題された写真絵本も並んでいると今更ながら気付く。


 絵本の表紙では、お団子頭の魔法少女と並んで白面に切れ長の目をした若い男優が黒い翼で身を守るようにしてどこか悲しげに瞳を伏せている。


「悪い人なの?」


 理可が怪訝な顔で尋ねた。


 絵本の表紙の俳優もお人形も「イケメン」と形容するに相応しい。


「いい皇子様だったのに牢屋に閉じ込められて呪いをかけられたの。最後もいい皇子様に戻ったのに湖に落ちて死んじゃうの。羽がいっぱい湖に散らばって……」


 話す内に悲しい気持ちが蘇ってきたのか、藍色旗袍の女の子は泣きそうな面持ちになって“黒鵝皇子”人形の箱を抱き締める。


「かわいそう」


 四歳の娘は観てもいない映画の荒筋の説明だけで貰い泣きの表情になった。


 私と臙脂色旗袍のお母さんは顔を見合わせて苦笑いする。


「これ、もう一個しか残ってないから買って」


 黒い羽根付き衣装の青年人形が入った箱を抱いた女の子は食い下がる。


 確かにワゴンには写真絵本は数冊残っているが、後は“超級魔法棒”と記された魔法ステッキらしいオモチャ、隈取を施した“孫悟空”、灰色のブタというよりイノシシに見える“豬八戒”のぬいぐるみなどだ。


「おうちにはずっと前に買ったパイランちゃんとユイレンちゃんの人形しかないもん。ユイレンちゃんは首取れちゃってるし」


白蘭パイラン”に対して“玉蓮ユイレン”とでも書くのだろうか。


 着せ替え人形の仲間がまだいるようだ。


「分かった」


 質素な臙脂色の綿の旗袍を着たお母さんは息を吐く。


「次のお誕生日にもう新しいお人形は買わないからね」


「やったあ」


 藍色旗袍の女の子は“黒鵝皇子”の箱を掲げて跳び跳ねた。


「じゃ、失礼します」


 束髪の母親は笑顔で会釈すると、お団子頭の娘と共に店の奥に向かう。


 多分、あっちがカウンターだ。


 理可の手を引いてそちらに足を進めた途端に押し戻される。


「リカもこれ、買う」


 まるで便乗するように四歳の娘は白髪に水色ドレスの“銀雪公主”の箱を取った。


「買わないよ」


 慌てて取り上げて戻す。


「欲しい!」


 理可はリノリウム(と思しきツルツルした素材)の床にワンピースの裾を引き摺るようにして座り込んだ。


 四歳児は言い出したら聞かない。


「お誕生日に買ってあげるから」


 そもそも今、買おうにも手持ちの日本円のお金がこの世界で使えるか怪しいのだ。


 最初の茶館を出る際には何も言われなかったが、あれは恐らく元いた世界の茶館と同じ前払いのシステムだったからだろう。


「ほんと?」


「お誕生日にはあげるよ」


 帰ったらアマゾンかメルカリでリカちゃん用のアナ雪風水色ドレスを探そう。


 ハンドメイドで出している人もたくさんいるはずだ。


「絶対だよ、指切りして」


 理可は小さな小指を立てて突き出す。


「はい、指切りげんまん、嘘ついたら針千本のおます」


 入り口で自動ドアのガーッと開く気配がして誰かの足音が近付いてきた。


「指、切った」


 屈んだ私の背中のすぐ後ろを顔の分からない靴音が横切る際、突き刺さる目線を感じるが、もう振り返らない。


*****


「こちらトッカヒンですので二百十エンになります」


 スキャナーを手にした、しかし、服装はいかにも業務服じみた暗緑色サージの長袍にクリーム色の丸帽子を被った若い男性店員が人形を買う母娘に告げる。


 臙脂色の旗袍のお母さんは手持ちの渋い紫のビーズバッグを探り出した。


 さっき見たプラカードからして“トッカヒン”とは“特價品”、日本語でも読みは同じ“特価品”の意味合いだろうが、通貨は恐らく日本円の“エン”ではないはずだ。


 隣の理可の手を握り締めながら、息を詰めて手前の束髪のお母さんを見守る。


 この人がこれから取り出すお金は時代劇みたいな銅銭?


 それとも、私の知らない人物の顔が刷られた紙幣?


 少し荒れた手がやや煤けた紫のビーズバッグの口から飛び出す。


「ウゾクで払います」


 取り出された鮮やかな虹色のカードには“烏賊”と斜体字で記されていた。


 確か、これは中国語でも日本語と同じ“イカ”の意味ではなかったか。


「畏まりました」


 店員はいかにもマニュアル通りといった口調と表情で続けた。


「こちらにタッチをお願いします」


 臙脂色の旗袍の肩が一歩前にずれた瞬間、見覚えのある小さな黒いプレートが目に入る。


 あれは元の世界のスーパーやコンビニでも良く見掛けるSuicaやPASMOのカードリーダーだ。


 ピッ。


“烏賊”と記された虹色のカードが黒い面に押し当てられると、聞き覚えのある電子音が響いた。


「ありがとうございます」


「じゃ、またね」


「バイバーイ」


 人形の箱を抱えて去っていく藍色旗袍の女の子とワンピースの理可は曇りのない笑顔で手を振り合う。


 束髪のお母さんと私はどこか苦笑いじみた顔で頭を下げ合う。


「パイランちゃんのデンエイ、黒鵝皇子が出てくるのも面白いから見てね!」


 入り口近くの等身大パネルの辺りに来て藍色旗袍の女の子は思い出した風にお団子頭を振り向けて再び声を掛けた。


「見る!」


 麦わら帽子の理可は迷いなく即答すると、私を振り返った。


「帰ったらユーチューブで見ようよ!」


 この子はYouTubeさえ開けば観たい番組がいつでも観られると信じて疑わない。


「探してみようね」


 確かアマゾン・プライムで「ちゅうかなぱいぱい」や「ちゅうかないぱねま」は配信されていた気がするから、それでお茶を濁そう。


「あの」


 意を決して言い掛けると、カウンター向こうの男性店員は既に緊張気味の面持ちで私たち母子を眺めていた。


「いかがされましたか?」


 まだ大学生くらいに見える彼はこちらに抱く違和感を気取られまいとするかのように儀礼的な微笑を浮かべる。


“東珍傳説 三巻 日本死闘編”


 背後に貼られたポスターには一方はカーキ色の軍服、他方は振袖を着た二人の美少女が背中合わせに立つイラストが描かれ、そんなタイトルが記されている。


 これは川島芳子の漫画かな?


 頭の片隅でそんなことを思いつつ切り出す。


「ニホンマチに行くバスか電車に乗りたいんですが、どちらに行けばよろしいですか?」


 ニホンマチは元の世界ではなくこの街と地続きの、いわば異世界の一部だ。


 朧気に察しつつも、そこに向かうべきなのだという気がした。


「それなら」


 青年店員の強張った笑顔が和らいだ。


「ここから出てすぐにドウラタイカの、あ、この辺りで一番大きな建物があるんですが、そこの地下が駅になっています。そこからキョクトウセンに乗ればニホンマチに行きますよ」


 横浜のクイーンズスクエアがみなとみらい駅に直結しているようにこちらの銅鑼大廈ドウラタイカも駅を組み込んだ構造のようだ。


「キョクトウセンでニホンマチまではどのくらいかかりますか?」


 字にすれば“極東線キョクトウセン”だろうかと思いつつ再び尋ねる。


「いや、ハンジカンほどですよ」


 半時間はんじかん、三十分と捉えて良いのだろうか。


 そもそも駅に着いたとして電車に乗るのに手持ちのPASMOや日本円は使えるのだろうか。


 使えないとすれば、駅員に「こちらのお金は盗難された」とか事情を話せばこちらのお金を借りるとか出来るだろうか。


「ありがとうございます」


 次々と疑問や不安が押し寄せるが、取り敢えず、この彼とのやり取りはここまでにして穏やかに別れよう。


 笑顔で頭を下げると、相手も務めを果たして安心した風な微笑で一礼する。


「またお越し下さいませ」


「おにいさん、バイバーイ」


 私に手を引かれながら、娘は辮髪の店員に開いた方の手を振った。


 すると、相手は学生じみた顔に一瞬、思案の表情を走らせると今度はおどけた風な笑いを浮かべて手を振り返す。


「バイ、バアイ」


 ぎこちない片言の響きだ。

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