第四章:パラレルな中華史

 開けた場所に出てもさっきと同じゴマ油臭い石畳の大通り。


 タッタカ走る人力車にスーッと抜ける自転車。


 自動車を見掛けないせいか街中でも排ガス臭くないと改めて気付く。


 と、向こうから不意に二階建ての緑のトラムがやって来た。


「あ、バスだー」


 理可が笑って指差す。


「あれは路面電車だよ」


 そう言えば、この通りにも電柱は並んでいるし、何より映画館もあるのだから、電気は通っているはずだ。


 さっきの茶館にだって電灯は普通に点いていたし。


 あの翡翠簪のお婆さんだって「ニホンマチで電車に乗った」と話していた。


 そう思い当たると、多少はほっとする。


 視野の中でトラムが大きくなる。


 窓に並んでいるのはいずれも辮髪や束髪に詰襟の中国服を着た顔ばかりだ。


 そして、こちらを眺めて「え?」と固まった面持ちをしている。


――洋装の方はこの辺りではあまりお見掛けしないもので。


 テンテンちゃんのお父さんの言葉が蘇る。


 多分、この街での私たちは日本の街を中国服で歩く人と同じか、あるいはそれ以上に奇異なのだ。


 物珍しげにこちらを見入る、しかし、目線を合わせようとすれば逸らす人々を乗せたトラムが横を通り過ぎていく。


 車体には広告が施されており、「ラストエンペラー」の溥儀と婉容皇后のような豪壮な緋色の婚礼衣装を纏った男女の笑顔の下に“華央婚礼中心”と赤文字で記されていた。


 多分、結婚式場か何かだろう。


「あれ、王子様とお姫様?」


 手を繋いだ娘が笑顔で遠ざかる広告の男女を振り返った。


「そうだよ」


 今更ながら夫に連絡しようと取り出したスマホは、“圏外”。


「あ、エルサ!」


 小さな手がまた新たに私の手を引っ張る。


“東亞書局”


 白い電気看板にゴシック体の店名が浮かび上がる。


 ガラス張りの自動ドアであろう扉の向こうには、先程の“魔法少女白蘭”に“金焔公主”、そして“銀雪公主”の等身大パネルが立っていた。


 と、その扉の向こうから、一度に三人が連れ立って出てくる。


「ラストエンペラー」の溥儀・溥傑兄弟のような、黄色や杏色のどこか制服じみた綸子の長袍を着た男の子が二人。


 そして、こちらも古い写真で見た后妃の婉容や文繍を思わせる、薄桃色の絹の旗袍に白牡丹の簪を髪に挿した女の子が一人。


 全員とも年の頃は中高生くらいか。


 手には一様に“歴史百夜”と題された分厚いハードカバーを抱えている。


「これ、短編集だから途中の一話だけ読んでその感想書きゃいいんだよ」


 一番背の高い黄色の長袍の少年が変声期特有のざらついた声で他の二人に告げる。


「それで、読書感想文の宿題は終わりだね」


 薄桃旗袍の少女は安堵した風に頬笑む。


「でも、出すのは明日だから今日中に急いで書かないといけません」


 他の二人よりやや小柄で幼い杏色の長袍の少年が泣きそうな、明らかに声変わり前の高い子供の声で語った。


 そうだ、今日で夏休みは終わりなのだ。


 走って行こうとする娘の小さな汗ばんだ手を握り締めながら思い当たった。


「分かった。じゃあ、お前は最初のコダイの部に載ってる、この『セイシとテイタン』にしろ」


 黄色長袍が目次らしいページを開いて示す。


 遠目には漢字だらけの文面だ。

 コダイがそのまま“古代”なら示唆されたタイトルは“西施せいし鄭旦ていたん”だろうか。


 私の知る古代中国史に当て嵌めれば、それが一番妥当だ。


「これが多分、一番短いやつだ」


「分かりました」


 杏色長袍は細いがきっちり編み込まれた辮髪を揺らして頷いた。


 この男の子は多分、他の二人より年下なのだろうが、何だか先輩・後輩というより主君と臣下のように見える。


「じゃ、私はこの『ブソクテン最後の恋』にする」


 薄桃旗袍の女の子が頭の白牡丹を震わせながら黄色長袍が開いた目次の途中を新たに指さす。


 これも“武則天ぶそくてん”しか該当者が思いつかない。


「他は軍記っぽいのばっかりでつまんなそうだし」


 女の子はまだ肉の薄い華奢な肩を竦めた。


 私の知る中国史も代表的な百個の逸話に搾れば明君賢相、はたまた暗君佞臣、智将・勇将の軍記に傾国の美女が定期的に絡むパターンだ。


 その「傾国の美女」像自体もいかにも大仰で嘘臭く、女性への蔑みがそこはかとなく見えるものだったりする。


 白に薄紅を仄かに含んだ花簪を黒髪に挿した十五、六歳の少女の顔はまだ輪郭も丸く幼い。


 だが、その表情には雪の女王や魔法少女に熱狂する理可やテンテンちゃんたちにはない、醒めた反抗や憂鬱も秘めていた。


「じゃあ、俺はこの最後の『トウチンコウシュ、蒙古を制す』だな」


 黄色長袍の少年は打ち切る風に言い放つと本をパタンと閉じる。


「トウチンコウシュの話ならこの前、デンエイでも観たから簡単だ」


 コウシュは公主でお姫様、デンエイは電影で映画と解せたが、“トウチン”が判らない。


「私も観たけど、悲しかった」


 薄桃旗袍の少女はぽつりと呟いて俯く。


 そうすると、服装のせいか余計に古い写真の婉容皇后や文繍淑妃に似たメランコリックな風情になった。


 その姿から、唐突に思い出す。


 清朝の王女だった女スパイ、川島芳子かわしまよしこあざなは確か“東珍とうちん”だった。


 そして、最初はモンゴルの王子と結婚した。


 蒙古を制した“トウチンコウシュ”とは、川島芳子のことなのか。


 私の知る史実では、川島芳子はモンゴルの王子とは短期で離別して日本軍のスパイになり、傀儡国家満州国の建国に携わって戦後は国民党政権により銃殺刑になったはずだ。


 背後をスーッと自転車が通り抜ける気配がしてゴマ油を含んだ石畳の匂いが鼻をつく。


 何故か背筋が寒くなる。


「それ、何の絵本?」


 母親の一瞬の隙をついて幼い娘は見知らぬお兄さんお姉さんに駆け寄った。


 この街の人の常で三人は麦わら帽子にワンピース姿の母子に驚きの表情を浮かべる。


「エルサと他のお姫様たちのお話?」


 理可はガラス扉の向こうで笑う魔法少女たちの等身大パネルを指さして尋ねる。


 どうやらこの子の中では実写版の「アナと雪の女王」やお姫様絵本の専門書店と認識されているらしい。


「ごめんなさいね」


 固まった面持ちの三人に取り敢えずは謝る。


「よそのお兄さんお姉さんの邪魔しちゃ駄目」


 小さな娘の肩を引き寄せる。


「リカもあのご本、欲しい」


 三人がそれぞれ手にした“歴史百夜”を指し示した。


「セイヨウガイからいらしたんですか?」


 薄桃旗袍の女の子が頭の白牡丹を微かに揺らしながらぎこちない笑顔で尋ねる。


「あ、はい」


西洋街せいようがい”だろうか。


 確かに私たち母娘は洋服、テンテンちゃんのお父さんが言うところの“洋装ようそう”だ。


「ニホンマチじゃないの?」


 今度は黄色長袍の男の子が目を丸くする。


 改めて向かい合ってみると、背はもう私より高いくらいだが、治りかけのニキビ跡の頬に残る顔はまだ幼かった。


「顔も俺らと変わらないし」


 言葉も不完全だが通じる。


 そうなると、薄桃旗袍の女の子も自信を失った体で黄色長袍と戸惑った顔を見合わせる。


「でも、この前、デンシで見たニホンマチの女の人はもっと派手なお化粧でとっても短いスカートでしたよ」


 年少の杏色長袍が無邪気に私たち母娘を示しながら語った。


 テレビは中国語で確か“電視”と書くが、この子の言う“デンシ”もそれに該当するのだろうか。


「お姉ちゃんの頭、花のお姫様みたいでとっても綺麗!」


 理可が笑顔で私を振り返る。


「どうもありがとう」


 清朝の后妃じみた装いの相手は穏やかな笑みで返すと、まだこちらを珍しげに見入っている連れの二人に告げた。


「そろそろ行きましょう」


 私には全容の知れない歴史の物語を手にした三人はその場を離れていく。


 つと薄桃旗袍の少女が鮮やかな鴛鴦おしどりの刺繍を施した布靴の足を止めた。


「この先、危ない所もありますから」


 振り向いた白牡丹の簪が石畳の路地から吹き抜ける風を受けて震える。


「お母さんとお子さんは気を付けて」


 語る瞳にさっと不安な翳りが差した。


 どうやら、私たち母子に土地勘がないと察しているらしい。


「じゃ、失礼します」


 鴛鴦の布靴が再び歩き出す。


「三組のシャンシャンも弟さんと出掛けたら人さらいに遭いかけたって」


「俺もそれ聞いた。大廈がまだ建設中であちこちに日雇いがいた頃だよな」


「あいつら、まだホウオウバシの下とかにいっぱい寝泊まりしてますよね」


 三人の少年少女は声を潜めて語りながら雑踏に紛れて遠ざかる。


「あれ、本屋さん行くの、ママ?」


「お店でちょっと道を聞きましょう」


 とにかくこの街を出る方法を知りたい。


 出来ないなら、多少でも安全な場所に身を置きたい。

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