第七章:港未來《ミナトミライ》から
「みんな、もうおうちに帰ったよ」
本当なら中華街から家の最寄り駅に着いてスーパーで夕飯の買い物をしているはずの時間だ。
「タイハクくんやテンテンちゃんも?」
四歳の口を通すとまるで明日も幼稚園で会える友達のようだ。
「きっと帰ったよ」
向こうは今頃、古風な中華風住居に戻って風変わりな母娘に遇ったことなどすっかり忘れているかもしれない。
「タイゲンくんももうすぐ幼稚園に来るんだよね?」
「うん、だからあの子もいい子で帰ったよ、きっと」
多分、この子の中では一緒に遊んだ小さな子が別世界の「幼児園」ではなく自分と同じ幼稚園に来て再会する予定になっている。
「じゃ、帰る」
拍子抜けするほど素直に理可は立ち上がった。
私も再び立ち上がると眠さの熱を増した小さな手を引いて罠のように滑らかな床の上を歩き出す。
「おうちに帰ってコクガオウジの映画も観ないとね。お人形買ったお姉ちゃんとも約束したし」
「そうだね」
とにかく、今は電車に乗れさえすればいい。
乗り込むのは、幅は一・五人程で常より明らかに狭いくせに高さは三、四階分も直結した恐るべきエスカレーターだ。
先に私が手すりに捕まって平らな段の中央に自分の足を置いてから、すぐ後ろの段の中央に娘の足が来るように導く。
これで理可が誤ってつまずいても私の背中で受け止められる。
降りて行く回廊のどの階にも眩い灯りが灯っているのに、エスカレーターには私たち母娘以外の誰もいなかった。
取り敢えずは無事に降りきれた。
「あ、さっきの絵本のお兄ちゃんたちだ!」
“宣統学院 初中部 高中部”
手を繋いだ理可の指し示す先には壁面広告。写真に笑顔で並んで映っているのは、「ラストエンペラー」の溥儀・溥傑兄弟さながら黄色長袍の男子高生と杏色長袍の男子中学生、そして婉容皇后じみた桃色旗袍に牡丹簪の女子高生と朱色旗袍に菊花簪の女子中学生。
東亞書局の前で出会したあの三人はやっぱり制服姿だったのだ。恐らくは休み中でも「外出時には制服着用」とかいう校則でもあるのだろう。
「このオレンジのお姉ちゃんはさっき居なかったよね」
朱色旗袍に菊花簪で笑っている女子中学生(だろう)を指さして理可は麦わら帽子の首を傾げた。
「きっとこのお姉ちゃんも宿題があるから先におうちに帰ったんだよ」
「嘘も方便」と言うが、四歳のこの子には真正面から正確に話せることの方が少ない。
まだ何か言おうとする娘の手を引いて、いつも来るみなとみらい駅に良く似た、しかし、出入りする乗客だけは嘘のように人っ子一人見掛けない改札に向かう。
「あれ?」
改札の青い扉は思いの外あっけなく開いた。
一瞬戸惑ってから、反射的に理可の麦わら帽子を前にして小走りに通り過ぎる。
ガシャン!
背中のすぐ後ろで改札の再び閉まる金属的な音が響いた。
スマホは圏外なのにPASMOの磁気カードはこの世界でも有効なのだ。
外の世界と連絡は取れなくてもこの世界内部での移動手段は確保されているらしい。
「こっちから電車に乗って帰るの、ママ?」
「そうだよ」
帰れると信じよう。
駅員の姿すら見当たらない改札を通り抜けた後は誰もいないのに律儀に動いているエスカレーターに乗ってホームに降りる。
“港未來”
私たち以外には人影のないホームは駅名以外はみなとみらい駅のホームそのものに見える。
セメントに
「あっ、タイハクくんたちだ」
娘の声に振り向くと、反対側の路線の壁広告が目に入る。
“朱雀幼兒園 馬車路站 走五分”
どうやらタイハクくんやテンテンちゃんの通う「スザクヨウジエン」の広告らしい。
写真では丸帽子に辮髪の男の子とお団子頭の女の子、そして束髪に紺地の旗袍姿の若い女性が笑顔で手を繋いで並んでいる。
多分、園児と先生なのだろう。
“鳳凰橋醫院 東興大路站 走十分”
これは病院かな? 「走十分」で「徒歩十分」という意味だろうが、こういう広告の「徒歩十分」は大体、実質は徒歩十五分以上で結構な距離があるものだ。
“永華婚紗 銅鑼大廈七樓”
これは恐らくウエディング衣装の専門店だ。このビルの七階にあるらしい。
頭が痛くなりそうな壁広告の群れに背を向けて案内板に近付く。
見慣れた東急東横線そっくりな路線図の上には“極東線路線図”と記されている。
“中華街”
“東興大路”
“馬車路”
“港未來”
“青島街”
“藍灯租界區”
見慣れない駅名が並ぶ路線図の終点は“澁谷”となっているが、果たして私の考える渋谷駅と同一だろうか。
――まもなく二番線にラントウソカイク・シブヤ方面、急行シブヤ行が十両編成で参ります。途中停車駅はラントウソカイク、キクナ、ツナシマ、ヒヨシ、ムサシコスギ、タマガワ、デンエンチョウフ、ジユウガオカ、ガクゲイダイガク、ナカメグロです。この電車はキクナとジユウガオカで各駅停車に連絡します。
聞き覚えのある女声の自動放送だが、停車駅の名前になると耳慣れないものに響いた。
ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン……。
響き渡る音と共にサーッと肌寒い風が私たちに吹きつけてきた。
“急行 澁谷/EXPRESS SHIBUYA”
電光の方向幕が目に飛び込む。
キンコン、キンコン……。
金属的なチャイムが鳴り響いてガラスのホームドアが開いた。
「乗るよ」
ホームと電車の僅かな隙間に理可のサンダルの足が躓かないように目を配りつつ温かに汗ばんだ小さな手を引く。
ひやりと冷房の効いた車内の空気に肌が粟立った。
人影のない車両は、しかし、少し摩耗した風な青いビロード張りのシートも、やや擦られてツルツルし過ぎないグレーのリノリウムの床も、微かに漂う金属とセメントの入り交じった匂いも、全てがいつも乗る「みなとみらい線」の電車だ。
「ここに座ろうか」
真ん中のシートに腰を下ろす。
そうすると、サンダルの足の疲れがどっと押し寄せた。
前に中華街からランドマークタワー、クイーンズスクエアまで歩いてきてみなとみらい駅から電車に乗った時にもこんな感じだった気がする。
「バイバイだね」
隣の理可は反対側のホームの“朱雀幼兒園”の壁広告で笑う丸帽子の男の子とお団子頭の女の子に向かって寂しく呟くと小さな手を振った。
チャララ、チャララ、チャラララ……。
このオルゴールと木琴を絡み合わせた風な曲はみなとみらい線の発車メロディーそのものだ。
キンコン、キンコン……。
再びチャイムが鳴り響いた。
――扉が閉まります。
女声の自動放送が告げる。
スーッ、バタン。
腰掛けたシートが微かに揺れて、銀色の扉が私たちと「港未來站」を遮断する。
電車は緩やかに動き出した。
キーン、ゴォーオオオ……。
獣の鳴き声に似た音と共に電車は加速する。
真っ暗になった車窓に目をやれば、ワンピースに麦わら帽子の母娘がシートに所在なげに腰掛けていた。
「ねえ、ママ」
振り向くと、理可は潤んだ赤い目でこちらを見上げている。
「今日で夏休みはおしまい?」
鼻を啜るのと同時に涙が小さな頬を伝い落ちた。
「そうだよ」
無事に帰れれば、明日からこの子の幼稚園が始まる。
ただし、始業式の日は午前保育だから、お弁当を作らなくていい代わりにすぐにお迎えに行ってお昼をこの子の分まで作って食べさせなければならない。
「明日から幼稚園?」
「そうだよ、明日からまた行くの」
元の世界に戻れれば、だ。
赤い泣き顔がパッと笑顔に変わった。
「さくらちゃんやゆうきくんに会える?」
青い鳥幼稚園のお友達だ。
「多分ね」
「さくらちゃんはハワイに行くって言ってた。ゆうきくんも北海道のおばあちゃんのうちにお泊まりするんだって」
「そうなの」
「二人とも明日、幼稚園に来るかな?」
「来ると思うよ」
少なくとも今朝までの幼稚園の連絡網でさくらちゃんやゆうきくんのお宅が旅先で事故に遭ったとか行方不明になったとかいう知らせは来ていない。
「じゃ、また皆で遊べるね」
笑顔のまま、娘の瞼がうつらうつらし始めた。
――次は
車内放送が私たちの上に響いた。
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