第二章:建國電影院

「あ、おともだち!」


 理可が古びた灰白色の煉瓦造りの建物の見える方角を指す。


 この子が「おともだち」と言うのは、実際のところ、顔見知りではなく単に同世代の子供のことだ。


 そう思いつつ、目を移したところで息が止まった。


 丸い帽子に裾の長い服、しっかり編み込んだ辮髪をちょこんと背中に垂らした男の子が二人いた。


 まるで「ラストエンペラー」の幼帝溥儀や「幽幻道士」のベビーキョンシーだ。


 年の頃は五歳と三歳位だろうか。


 似通った円らな瞳から兄弟と知れた。


「あそぼうよ!」


 青と白のストライプワンピースが駆け寄ると、小さな弟はまるで吼える犬でも目にしたように兄の背に隠れる。


「だれ?」


 丸帽子の兄は理可に向かって小首を傾げる。


 私が早足で近付くと、丸帽子の兄弟二人はどちらも固まった面持ちになった。


「ごめんね」


 この子たちからすれば私たち母子こそ変な格好をしたお化けみたいな異邦人なのだ。


「わたし、リカちゃん」


 麦わら帽子の娘は飽くまで笑顔で告げると、アニメのお姫様がするように両手でスカートを広げて見せる。


「ぼく、タイゲン」


 兄の背に隠れていた弟が拍子抜けするほど素直な声で答えた。


「おれはタイハク」


 丸帽子の兄は背後の建物を指す。


「今日はデンエイを観に来たんだ」


 建物の入り口には“建國電影院”と切り文字の看板が出ている。


「映画館なのね」


 近くの看板には上映中らしい映画のポスターが貼ってある。


“香港之夜”


 これはセピアが勝った写真をトレースした風なポスターだ。


 主人公らしい男女の背景に広がる街は1960年代の香港だろうか。


 どうも、この世界の「香港」と私が認識している「香港」という都市が完全に一致しているのか自信が持てない。


“魔法少女白蘭”


 これはお団子頭に真っ青なサテンのチャイナドレス、魔法ステッキらしい水色の棒を手にして笑う若い女優さんの写真ポスターだ。


 昔、見た「ちゅうかなぱいぱい」や「ちゅうかないぱねま」に似ているが、この女優さんはどちらでもない気がする。


“西遊記”


 こちらは京劇風の隈取りをしたお猿さんのアニメだ。


 中国本土で制作されたアニメの絵柄がこんな風だった気がする。


「おれら、サイユウキのデンエイを見るんだ」


 辮髪のお兄ちゃんは笑顔でアニメ絵の猿を指差す。


 どうやらここでは「西遊記」はそのまま「サイユウキ」、映画は中国語の「電影」を「デンエイ」と日本語的に音読みした言い方をするらしい。


 基本は日本語で話していてもそんなズレがある。


「これ、エルサ?」


 理可が魔法少女のポスターに首を傾げる。


 青い衣裳がディズニー版の「雪の女王」に見えるらしい。


「パイランだよ」


 辮髪の小さな弟が目を丸くする。


「お姉ちゃん、知らないの?」


 おばちゃんも知らない。


「ほら、あんたたち」


 つと、温かな甘栗の匂いがふわりと鼻を撫でた。


「あら」


 振り向くと灰色の髪に翡翠の簪を挿した、苔緑の繻子の旗袍を纏ったお婆さんが紙袋を抱えて歩み寄ってくるところだった。


「ニホンマチからいらしたのね」


 温かな甘栗の香りを放つ紙袋を胸に抱き、穏やかな瞳を何か察した風に私たち母娘に注ぐ。


「お祖母ばあちゃん」


 辮髪の兄弟が駆け寄った。


「栗ちょうだい」


「デンエイの前に食べようよ」


 幼い孫たちに腕を取られながら、古式ゆかしい旗袍のお婆さんは苦笑いして続ける。


「私も昔、ニホンマチに住んでたんですよ」


「そうですか」


 こちらも曖昧な笑顔で頷く。


 何故かこちらの詳細を説明するより相手の常識に従うべきに思えた。


*****


「ニホンマチにいた頃は毎日お洋服を着て電車でお仕事に行っていました」


 朱塗りの木のベンチに腰掛けて温かな甘栗を勧めながら、お婆さんは懐かしげに微笑んだ。


「あそこは何でもチュウカナマチより進んでいますね」


「チュウカナマチ?」


 中華な街、と頭の中で変換される。


「それでも、この辺りもだいぶ拓けてきましたよ」


 翡翠の簪を揺らしながらお婆さんは頷いた。


「あんな大きなビルも建ちましたし」


 向こうに聳え立つ“銅鑼大厦”を示す。


 青空の下に煌めく巨大な塔はすぐ近くに見えて遠くも思えた。


「じゃ、次はおれたち隠れるから、リカちゃんが鬼だよ!」


「いーち、にーい……」


 丸帽子の中国服兄弟に麦わら帽子にワンピース姿の女児を加えた子供たちが駆け回る。


 噛み締めた焼き栗の香ばしい甘さだけは普段と変わらない。


「チュウカナマチもここ数年で随分変わってたまに電影院デンエイインに孫たちを連れに出ると迷いますね」


 お婆さんは子供たちを眺めながら円らな目を細めた。


 あの男の子たちは隔世遺伝的に祖母に似たのだと改めて思う。


「そうですか」


 私にはそもそも過去のチュウカナマチがどんなだったかが分からない。


「私の若い頃は戦後すぐでしたから、この辺りも建國電影院ケンコクデンエイインとちょっとしたチャカンくらいしかありませんでした」


“チャカン”とは恐らくさっき私たちが花茶や杏仁豆腐をいただいたような茶館だろう。


「あの頃はニホンマチまで出ないとなかなか本も買えませんでした」


 相手はパチリと栗の殻を潰して中身を紅をうっすら引いた品の良い唇に運ぶ。


「戦後すぐは統制も色々厳しかったものですから」


 笑顔で頷きはしておくものの、この人の語る“戦後”は私の想定するそれとは恐らくずれている。


「みーつけた!」


 洋服の少女が植樹の陰にいた辮髪のより幼い相手を指差した。


「みつかっちゃった」


 小さな男の子は丸帽子の頭を掻く。


 この弟の方がタイゲンくんだったか。


 太元、泰源……。


 問い質せないまま当てはめるべき字を思い巡らす。


「お兄ちゃん、どこ?」


 二人の子供たちは残りの一人を探し始めた。

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