ちゅうかなまち
吾妻栄子
第一章:どこでもない中華街
「ママ、起きて! 起きて!」
揺さぶられて一気に現実に引き戻される。
「ごめん、ごめん」
ふくよかな
どうやら花茶を啜っている内にうたた寝してしまったらしい。
「
夏休み最後の今日、四歳の娘と電車で二十分の所にある中華街に遊びに来た。
今年は夫の夏季休暇が理可の幼稚園の夏休みと折り合う形では取れなかったので、代わりに私がそんな日帰りの小旅行を繰り返している。
「全部食べたよ!」
笑顔で頷く娘とは裏腹にこちらは目を丸くする。
昔の中国の茶館を模した店内は、お揃いの青と白のストライプ模様の半袖サックワンピースを着た私たち以外、全員とも
*****
「ママ、次はどこ行くの?」
麦わら帽子の理可が私を見上げて尋ねる。
「どこって……」
店の外も旗袍や長袍で行き交う人だらけだ。
しかも、お土産屋さんで売っている、いかにもコスプレ風のテカテカした赤や青のサテン地ではなく、日常的な木綿地を纏った人が大半だ。
“建國電影院”
“東亞書局”
“銅鑼大厦”
目に入る屋号も、建物も、妙にだだっ広い石畳の路地も、私がこれまで幾度も訪れた中華街とは異なる。
どこかゴマ油臭い匂いも日本の都市の一角で観光地化された中華街のそれよりもっと生々しい。
だが、リアルタイムの中華圏のどこかとも思えない。
大体、今時は旗袍や長袍など日常的に着ている人は殆どいない(日本の着物と似たような位置付けだ)。
「ドウラタイカまでお願い」
不意に耳に飛び込んで来た声に振り向く。
私は思わず繋いだ小さな手を握り締めた。
シックな珈琲色の旗袍に真珠色のビーズバッグを抱えた女が人力車の座席に腰掛けている。
「はい!」
若い車夫が石畳の路地を走り出した。
つと、車上の女がこちらに眼差しを向ける。
すると、相手もいかにも古風な中国美人めいた切れ長い目を大きく見開いた。
“何、あれ”
そんな心の声が聞こえるような面持ちだ。
この街では麦わら帽子にサックワンピースを着た私たち母子こそが異様な出で立ちなのだ。
ジリジリと照り付ける夏休み最後の陽射しは変わらず眩しいのに、人力車の駆け去った後の路地を吹く風は埃っぽくてひやりと冷たい。
*****
とにかく、この街を出なくてはいけない。
そんな思いに駆られて歩き出す。
「あのおっきいビルの向こうに行くよ」
取り敢えず“銅鑼大厦”と屋号を掲げている、あの巨大な塔じみたビルまで行けば、そこを分水嶺にして普段通りの風景が広がっている気がした。
中華街の門をくぐれば一般的な都市の眺めが待ち構えているようにだ。
「あのおっきいビル、なんてかいてあるの?」
繋いだ小さな手の汗ばんだ温もりだけが今は確かな現実に思えた。
「ドラタイカ、かな?」
そういえば、人力車に乗った女性も「ドウラタイカ」とか言っていたが、あのビルだろうか。
四歳の子の歩幅に合わせて歩く私を、後ろから次々旗袍や長袍姿の住人たちが追い越していく。
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