第八章 終着(上)

「うぅ……」


 わたしはあとずさりをしたまま、ついに出入り口付近まで来てしまった。

 ここから逃げれば。

 ひとまずは、安心できる。

 でも、本当にそれでいいのか。

 逃げているだけでいいのか。

 今ここで、やらないと、また新たな被害者が増えるかもしれないのに。

 目を逸らしたいのに、逸らしてはいけない。そんなジレンマがわたしを支配した。

 そんなことには関係なく、ゾンビたちは不規則な動きで近づいてくる。

 どうしよう。

 決断しないと。

 わたしが、引導を渡すことを。

 きっと、それが正しいことだから。

 わたしは地面を這うように、近くのキャビネットから武器になりそうなものを物色する。とはいえ、置いてあるのはガラスやビーカーがほとんどだった。

 かろうじて、鞘に入っていたナイフを発見し、手に取る。心もとないけれど、武器はあった方が手ぶらより心が落ち着く。

 そもそも、わたしも死ぬことはないのだし。

 あれ。

 じゃあ……どうやって倒せばいいんだ?


「ァァァァアアアアア」


「! ごめん!」


 飛びかかってきた一体に、反射的にナイフを振るう。思いのほかさっくりとあっさり切ることができ、腕が宙を舞って落ちた。

 でもそれで終わりではなく、わたしの時のようにもぞもぞと腕自体が動いている。

 意思がないだけで、基本はわたしと同じスペックなのか、と判断しようとしたその思考は寸断される。

 何も敵は一体じゃない。複数だ。

 考えるより先に攻撃をしなければ数にやられる。それに思い至った時にはもう後の祭りだった。

 違う個体が、腕を鞭のようにしならせ、わたしの身体を叩いた。その衝撃で、攻撃した腕自体が壊れていた。


「ぐっ……!」


 しかし諸刃の剣のようなそれは、それ相応の威力をわたしに与える。

 再生できるがゆえの自爆戦術。

 予想外の一撃に、わたしは再びドア付近に叩きつけられた。

 痛みはない。だが、全身から力が抜けていた。衝撃の強さに、外界のエネルギーを自らのものへと変換するプロセスに亀裂が入ったのか。

 間を持たず、さらなる一体がわたしに追い打ちをかけに来る――



「そこまでよ」



 と。

 ドアが開かれると同時、凛とした声が通った。

 ピキピキ、パキパキと音。

 見れば、ゾンビたちの動きが完全に停止していた。体勢の悪かったものはそのまま地におち、シャリと音を立てた。

 ……これは、氷?


「大丈夫かしら、黒菜」


 疑問を感じるわたしの耳に、呼びかけた。

 それは。

 わたしは信じられない思いで振り返る。

 そこには。


「ギリギリ、間に合ったようね」


 青山葵ちゃんが、涼しい顔でそこにいた。


「葵ちゃん、これはいったい……?」


 だからこそ、目の前の光景が信じられなかった。

 目の前に起こった現象は、不可思議の一言でしか表せないような様相だったから。

 凍結。

 単語で表すなら、まさにそれだった。

 空気中にはキラキラと氷の破片が舞い、床には霜が降りて、ゾンビたちは完全に凍っている。


「あら。そこまで驚くことかしら。これこそが私の本領なのだけれど」


「はい?」


 何それ、聞いてない。

 葵ちゃんって、超能力者だったの?


「……詳しいことはあとにしましょう。私もお手洗いの体で抜け出したから、あまり長い時間外すわけにはいかないの」


 といって、葵ちゃんはわたしから視線を変え、望月先生のもとへと向けた。


「やっぱり、こういうことでしたか先生」


「やっぱり、というと?」


「生徒が消えていく現象の犯人ですよ。三学期消えたのは黒菜のクラスメイトだけだった。ならば当然、容疑者はそのクラスの人物に絞られます。まあ、私は最初、生徒の犯行だと疑っていたのですけれど。しかし――あなたの黒菜を見る目で、わかりましたよ。あなたが犯人だってことは」


「……そうですか。やはり、知的好奇心による興奮は隠しきれませんか」


 事ここに至っても、先生はいつもの体を崩さない。


「ですが、青山さん。なんです、その力? 一見、物理的でないように見えますが、どういったカラクリなんでしょう」


「……科学者、ね」


 ふ、と葵ちゃんは軽く息をついてその睨みをキツくする。


「なるほど。ここまで人道的異常をきたした行動をしているにも関わらず、結局理論だとか論理だとかからは、抜け出せないんですね」


 いいでしょう、と葵ちゃんは呆れたように首を振り、宣言する。

 文字通り凍りつくような視線と一緒に。



「では完璧なる非科学を見せてあげますよ――この下衆マッドが」



 瞬間。

 ピシピシピシピシィ! と葵ちゃんを中心として何か場のようなものが形成された。

 違う、場のように見えたのは単なる物理現象だった。

 気温低下による空気の凝結。

 耐えきれなくなってガラスが次々と割れた。

 気温は感じない。でも、圧倒的に室温が下がったことは、気配だけで察することができた。


「……!」


 ここに来てやっと先生の表情が強ばる。脚を動かそうとするも、持ち上がらないようだった。

 靴と地面が接着剤でつけたように凍って動かないのである。


「マッドサイエンティストが全くの無科学によって蹂躙される。末路としては最高の演目ね」


 葵ちゃんは冷笑する。氷点下にものぼる温度だ。


「どう殺されたいか、聞いてあげましょうか。身体の髄まで凍って死ぬか、あなたが黒菜にしたように、身体中を滅多刺しにされて死ぬか」


「……これが結末、ですか。なんともつまらない幕引きだ」


「それに関しては心底同感だわ。どうあっても、胸糞悪くしかならない。だから手を下すなら私が躊躇なく、楽にやってあげるわ。感謝しなさい、今まで理不尽をしてきた人間が理不尽に淘汰されるのよ」


「これだけはわかりますよ。あなたは人間ではないのですね。……しまいまで、どこまでが人間なのか、ついぞ知ることはなかった」


「そうね。おそらく、それは禁忌のお題だったから、あなたはこうして死ぬの。それこそ、運が悪かった、とでも言うのかしら」


 葵ちゃんは言う。



「私の友人に手を出した、という時点であなたの生きる権利は剥奪されている」



「……もういいですよ、殺して。私はもう満足ですから。もっとも、後始末が大変そうですけれど」


「あら、私も舐められたものね。いいでしょう、なら最後に一つ、教えてあげるわ」


 葵ちゃんは、自分の髪をかきあげて、告白をした。



「私、俗に言う雪女なのよね」



「はは、なるほど、だから氷ですか」


「いやに素直に信じるわね」


「私はもうじき死ぬんですからどう取ろうが私の勝手でしょう」


「そう。……黒菜」


 興味をなくしたように葵ちゃんは振り向き、わたしのことを呼んだ。


「なに?」


「少し、外で待っていてくれるかしら。……あんまり、見られたくないものなのよ」


「……うん」


 葵ちゃんが登場してから、何もかも理解できていないのだけれど、それは後で聞くことにしよう。

 わたしはその言に従い、大人しく外に出た。

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