第五章 非科学的な非現実(下)

 三十分ほど、街を回っただろうか。

 あれから何も起きていない。

 それは歓喜すべき事実なのだろうけど、実際のところ。

 わたしは――飽き始めていた。

 飽き始めていたから、なんてことのない思考が、わたしの中で開始された。


 ――わたしは今、いったいなんなのだろう?

 ――人間では、ないのだろうか?


 予期もせず、そんなことを考えていた。

 答えはあまり、期待していないけれど。

 ひとまず、今のわたしについて、情報を整理してみよう。

 元はと言えば、一昨日、新学期の初めが発端だ。

 いつも通りの日常を、変化なく穏やかに過ごしていた、まさにその時のことだった。

 不条理に、巻き込まれた。

 理不尽に、巻き込まれた。

 突然、突如、予兆もなく、無数の刃物に刺し貫かれたわたしは、あの時――


 ――死んだ、ということになる。


 考えてみれば、他愛もないこと。禍鱗ちゃんが今、わたしを死んでいると形容するなら、原因はこれとしか考えられない。

 あそこまでの出血量。切り傷。刺し傷。裂傷。

 普通に考えて、あの時死んでいなければおかしいのだ。

 しかし、わたしは今もこうして――


 ――こうして?


 こうして、なんだ?

 生きている、とでも言うのだろうか。

 けれど他に現在の状況を説明する手立てはないわけで。

 生きていて、死んでいる。

 死んでいて、生きている。

 なんて、矛盾まみれの存在になってしまうのは避けられない。

 裏返して、

 生きていないし死んでいない。

 死んでいないし生きていない。

 と、言ってみると……だいぶスッキリする。

 わたしは交わることのない生と死を股にかけた場所にいるわけではなく。

 生でも死でもない、空集合に属している。

 そういうことなのだと、考える。

 だからこそ、どちらとも言えず、また、どちらとも言える。

 今のわたしには生きるとか死ぬとかの概念は存在しない。

 ただ、在るだけ。

 何が?

 …………。

 わたしには――わからない。

 肉体はある。思考能力だってある。

 でも――在るのは?

 わからない。

 わからない。

 わからない……。

 とにもかくにもそんなこと、考えるだけ無駄というものだろう。わからないことを考えることほど――特に、今回のようにゴールへ、答えへたどり着くための手がかりという手がかりもない場合――無価値なものはない。

 そう、わたしはただ、事実を認識することしか、できない。

 話を元に戻そう。

 かようにして、ぜん、鴉日黒菜という人間は一度、その人生にピリオドを打った。

 それはそれは、強引にもほどがある惨劇で。

 ここで疑問なのは、なぜわたしが続けられているのか、ということだ。

 死亡。終わり。

 死後の世界があるのかないのか、わたしにはまだ測ることができないけれど、確信持って言えるのは、死んだら終わり、それが鉄則。肉体はあれど、存在はこの世界からはなくなる。物理的にどうとかではなく、その時、その瞬間からそれは消えゆく――というのがわたしの考え。

 でも、それなら殊更おかしいではないか。

 死んだ、わたしがまだここにいるなんて。

 もう生と死とは無縁の位置にいるのはわかる。

 しかしながら、なぜ、どのようにしてそんな位置へとたどり着いてしまったのか。

 そのプロセスは。


「…………、」


 わたしは、それに関してあるアイデアを持っていた。

 非現実的で、馬鹿馬鹿しいものだけど。

 けれど、一度思い至ると、もっともらしく思えてくる。

 いわく。



 わたしは、何者かに意図されて、のではないのか、と。



 あの時。滅多刺しにされた時。

 最初に『入って』きたもの。

 破裂し、中身の液体を体内でぶちまけたもの。

 それこそが。

 それこそが、わたしを『こう』たらしめている原因なのではないか。

 禍鱗ちゃんは、わたしを不自然と言った。

 その原因も、これに起因するのだろう。

 それならば。

 それならばなおさら――わたしを襲ってきた人を探さなければならない。

 と。

 思考は中断された。

 禍鱗ちゃんがザッと音を立て、その場に立ち止まったからだ。


「てっきり、今日のところは終了かと思っていたのだが……」


 そのセリフでわたしたちに緊張が走る。

 禍鱗ちゃんは刀の柄に手を添え、臨戦態勢を整えた。

 とはいっても、これといってどこかに不審なものがあるわけでもない。いったい、どこに脅威があるというのだろう。


「そこか」


 禍鱗ちゃんはそう呟いて。

 振り返りざまに抜刀(今回は居合いというわけじゃなかった)、


 そのまま、わたしに太刀筋を向けた。


 それを、見て。


「――っ!」


 わたしは反射的に、その場にしゃがんだ。

 なんで、なんで、なんで?

 わたしはやっぱり斬られるべき存在だったの?

 そんな疑念は、しかし、次の瞬間には吹き飛んだ。

 禍鱗ちゃんがわたし目掛けて振り回した得物が、ザシュッと音を立てたのだ。

 音源は……上?


「繧抵シ滂シ医⊇縺イ!」


 意味のわからない、音がした。

 顔を上げて確認することができたのは。

 真っ二つにされた……口だけがある顔。

 まもなくそれは、粒子となって消えていった。


「本体ではない……端末か。では本体は」


 禍鱗ちゃんは間を置かずに動き出していた。

 さらに振り返って、最初向いていた方へ、返す刀を振り下ろした。

 最低でも十メートル、そのあたりで、蜃気楼のように背景がぼやけた。

 現れたのは、真っ黒な何か。

 犬のように四足歩行かと思えば、そんなことはなく、脚が何本も生えていた。その本数は数えることができず、影のように揺らいでは変化する。そこから伸びる首、及び頭には、その形以上のものはなかった。全てがシルエットのような造形だ。曖昧模糊としている。

 グロテスクに、目を至る所からギョロリと覗かせていた。その視線はどれも禍鱗ちゃんを睨んで離さない。

 思わず、気持ちが悪くなった。

 斬り離された一本の脚は、夜の闇に溶けるようになくなっていた。

 禍鱗ちゃんは構わず、刀を一度鞘におさめ、居合の体勢に入った。これが一番の必殺技らしい。


「『永久とわに』――」


 その、モーションに入った瞬間に。

 身の危険を察したのか謎の影はトプン、と暗闇に潜り込んだ。

 チッ、と禍鱗ちゃんは静かに舌打ちをした。

 そうして膝を曲げてエネルギーを溜め、


「決して逃がすものか」


 一気に射出された。

 目にも止まらぬ速さで、禍鱗ちゃんが飛んで行った。

 すぐに姿が見えなくなってしまった。


「……えと」


 おそらく、あの影を追いかけに行ったのだろうけど。


「どうしよっか」


 先導するインストラクターがいなくなってしまった。

 朱里ちゃんと葵ちゃん、二人を見ると、二人とも相違なくたまげた顔をしていた。

 それもそうか。禍鱗ちゃん、最初っから最後まで常識外の行動しかしてないもんね。わたしも驚いてるけど、呆気に取られた、の方が大きい。


「どうする? ……禍鱗ちゃん、戻って来ない気配があるけど」


 再度、二人に意向を聞いた。


「ん。ああ、どうするか」


 今度こそわたしの問いは届いたようだ。

 思案しようとする朱里ちゃんが何か思いつく前に、キッパリと、葵ちゃんが行動案を提示した。


「帰りましょう。禍鱗だって、私たちのような邪魔になる懸念のある因子にうろつかれるよりはマシでしょうよ。それとも……朱里は、あれを見てなお、身を危険に晒す気なのかしら」


 シニカルに、目を細めて朱里ちゃんを見据える。


「……、わかったよ。あたしだって踏み入れちゃいけないところに足を突っ込んじゃったっていうことには薄々気づいたさ」


 心残りの様子で、朱里ちゃんは渋々首肯した。

 炎なんかよりも奇怪な影の生命体。朱里ちゃんはそれを目の当たりにしたことで、どこか禁忌じみたものを感じ取ったのかもしれない。

 それはきっと正解だ。

 それは確実に正解だ。

 あんなのとはたとえどんなことがあろうとも関わってはいけない――本能が、そう言っていた。

 専門家でもなければ。

 禍鱗ちゃんのようなプロでなければ。

 だから、帰ろう。

 平穏な、表の世界へと。


「……あ、でもそういえばわたし、家族にはお泊まりに行ってくるって言ってたんだ」


 思い出した。真夜中の間外出するには、それ相応の言い訳が必要だったのだ。


「それ、あたしもなんだけど」


 挙手をして、朱里ちゃんはわたしと同意見であることを表明した。

 どうしよう。泊まるって言ったのにこんな時間に帰ったら、絶対怪しまれる。夜な夜な奇行に走る娘のレッテルを貼られかねない。

 でも朱里ちゃんも同じ理由で抜けてきた手前、そっちにお世話になることはできないし――


「なら、私の家に来ればいいわ。一人暮らしのようなものだし」


 悩んでいると、葵ちゃんが「仕方ない」というふうに、解決案を示してくれた。


「いいのっ?」


 実は今まで一回も葵ちゃんの家には行ったことがなかった。遊んだりする時はいつもわたしか朱里ちゃんの家、もしくはどこかへ遊びに行っていた。


「ええ。まあ、不自由はないことは保証するわ」


「よっしゃ、それじゃあお邪魔させてもらうと――」


 その時。

 ズズズ、とノイズのような音とともに、宙にバグのような乱れが映し出された。

 それは朱里ちゃんの背後。

 口だけがある、顔。

 真っ黒で、禍々しい。

 さっきと同じ。


「!」


 朱里ちゃんも葵ちゃんも、全く気づいていないようだった。

 その顔は、大きく口を開け、狙いを定める。

 朱里ちゃんの、頭に。

 なりふり構ってはいられなかった。

 いや、そんな判断とかそれ以前に、身体が勝手に動いていた。なるほど、身体が勝手に動くってこういうことなんだ、とわたしはどこかで感心していた。

 たった二、三メートルの距離。それを自らの出せる最大のスピードで詰めた。


「うおっ!?」


 朱里ちゃんはわたしの急接近に意味不明でびっくりしたようだけど、それがどうした。

 わたしはそのままの勢いで、朱里ちゃんを突き飛ばした。「ひゃん!」なんて可愛い声を出して、尻もちをついていた。

 これで一安心するにはまだ早い。

 今度はわたしが、その危険の眼前にいるのだ。

 わたしは勢いづいているのとは反対に、左脚を後ろにぐいと引いて、踵に遠心力を持たせる。

 そこからの、回し蹴り。日頃、なんのためにやっているんだろうと思っていた護身術の成果が、今出た。

 打点は視界外だったのでなんとも言えないけど、何か、弾力のあるものを蹴った感触は感じた。

 ガチリ、と音。

 皮膚が挟まれた感じがあったけど、気にせずに連続で脚を動かす。その度にヌメっとした嫌な心地。


「地に還りなさい」


 その間、袖口から迅速にナイフを取り出し変形させた葵ちゃんも加勢に来た。

 サクッ、と砂場にスコップを刺した時のような、軽い音がして、そこから一気に触れていた気味悪いものが消えてなくなる。

 そして、


 、という『わたしの脚が落ちた』音。


 …………あ。

 感覚、なかったけど。

 猛烈に嫌な予感がしながら、ぎぎぎ、と首を捻って後ろを振り返る。

 そこにはあの顔の残滓のような粒子が散っていて、



 その地面には、横たわっている太ももから先のわたしの左脚。



 全然、気づかなかった。というか、感覚は消失しないのだから、視認する以外で気づきようがない。

 あの時、蹴りを入れたと思ったのは間違いで、噛みちぎられたのか。

 うーん……。痛くもないし、血も出ない。

 それは別にいい。むしろいい。

 いいんだけど。


「…………、」


 わたしは無言で自分の脚に近づいて、断面と断面をドッキングさせる。難なく脚はくっつき、そもそも切断したという事実が消え去ったかのような、綺麗なものになっていた。

 ……我ながら、怖っ。

 圧倒的、怖っ。

 自分が紛うことなき化け物になったということを再認識させられながら、わたしはため息をついた。

 ……で。

 ……で、だよ。

 振り向いて、同行者二人を視界に入れる。

 両者、信じられないものでも見たかのように、固まっている。

 もう無理だ。錯覚で済ませられるどころのレベルじゃない。

 わたしの事情を、余すことなく見せびらかしてしまった。

 生きておらず、死んでいない。そんな事情を。

 そして時は戻せない。

 普通でいつも通りな平常運転の日常なんてものはとっくの昔に破綻してしまっていた。

 避けようのない無理難題が、わたしに降りかかる。


 ……さて。

 どうしよっか?

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