第三章 天敵と後輩(上)

「朱里ちゃんおはよう!」


「お、黒菜か。おはよ――って、どうしたんだその顔。真っ白じゃねえか」


 通学路、朱里ちゃんを見つけたと思って声をかけたらこれである。


「昨日から貧血で……」


「それは大変だな」


 ぺたぺたと、顔を触ってくる朱里ちゃん。


「うん。たしかに冷たいし、血が足りてないんだな。そんな時は肉だ肉。肉を食え」


「ここに肉ないよ」


「そうか。じゃああたしの血を飲めばいいんじゃないか?」


 朱里ちゃんは襟を掴んで差し出すように自分の首を見せる。血を飲んでも血が作られるわけじゃないよ。


「吸血鬼じゃあるまいし……」


「お、昨日の伏線」


「伏線にもなってないよこれ」


 肩を並べて歩きながら、取り留めのない会話を交わす。


「……で。あたしは真っ先に肌の方に注意が向いたわけだけども。どうしたんだその格好。新学期早々、グレ始めたのか?」


 朱里ちゃんは早速パーカーに夏スカートの装いのわたしに疑問を投げかけてきた。


「き、昨日、ね。あのあと、紆余曲折様々な困難が待ち受けててブレザーと冬スカートは天に召されました……」


「マジかよ。やべえな。やっぱりあたしがついていった方がよかったか」


「やっぱり?」


「昨日も話した通り、近頃は物騒なこと多いだろ。単独行動は危険だったんじゃないかって、あいつとの帰り道話してたんだ」


「…………、」


 その予感は見事に的中だ。

 世の中物騒だらけということを、昨日は身をもって実感した。

 危険というか、死にかけたし。


「……朱里ちゃん」


 思い出すと急に心細くなって、わたしは友達の名を呼ぶ。


「ん、なんだ?」


「……手、繋いでいい?」


「うお、どうした藪から棒に」


 ま、いいけど、と朱里ちゃんが手を差し出してくれたので、それを握る。ショックだったのは、ここでも体温を感じることができなかったことだ。

 けれど、人に触れている、という事実はそれだけでわたしを落ち着かせた。


「それにしても、冷たいな。冷え性でも発症したんじゃないか」


「かも、しれないね」


 話している間に前方に校門が見えてくる。

 と、その時。

 わたしは反射的に身体を朱里ちゃんの影へ滑り込ませた。


「何してるんだ黒菜。今日ちょっとおかしいぞ」


「ご、ごめん……」


 でも、身体が反応してしまったのだからしょうがない。

 まさか。

 まさか、ね。

 人違い人違い。

 だって、こんなところにいるわけがないじゃないか。心配性も度が過ぎたら幻覚が見え始めるのかもしれない。心配していた出来事が起きないわけないと狂信して、心配な出来事を無理矢理に起こす。それじゃただの異常者だ。

 こういう時は考えないのが吉だ。昨日の経験則からも言える。考えれば考えるほど、その事象を引き寄せてしまう気がする。

 わたしは首を振って、思考を取り払った。


「黒菜と朱里じゃない」


 後ろから声をかけられて、ビクッとなりながら振り返る。


「あ、なんだ、葵ちゃんか」


「なんだとは心外ね。まるで私はお呼びでないみたいじゃない」


「そういうことじゃなくて。安心したんだよ、見知った顔だったから」


「フレンドリーな新しいクラスメイトが声をかけて来ないとも限らないからな」


「……そうやって一番平気そうにしている朱里が、実は一番のコミュ障だからね」


 鼻で笑って、わたしたちの方に歩いてきた葵ちゃんも合流して、校舎に入る。


「今日は、まだガイダンスかしら」


「たぶんね。今週いっぱいはそんな感じだと思うよ」


「なんだよつまんないなあ。……いや、授業もつまらないけどさ」


「往々にして学校とはつまらないものよ」


「そこまで達観しちゃってるんだ……」


 そんなことを言っているけれど、青山葵ちゃんは学年、いや、学校中で有名な存在である。

 眉目秀麗、成績優秀、才色兼備。

 座学の成績は一年のあいだトップしか取っていない。対人格闘の実技でも、朱里ちゃんと拮抗できる実力を持っていて、体育も芸術科目もマスターしている。中学の時も、他を寄せつけなかった。

 つまりは完璧人間なのだ。

 ライバルとなっている朱里ちゃんのような能力は兼ね備えていないのに、わたしが葵ちゃんと友達になれたことは幸運以外のなんでもないだろう。

 まあ、わたしはずっと朱里ちゃんと幼なじみで引っ付いていたから、そうなることは順当だったのかもしれない。

 と、なんでいきなり葵ちゃんについて色々考えてしまったのかを考えて、すぐ答えが出た。


「……そういえば、今日眼鏡は?」


「壊したわ」


「壊したの!?」


「事故でね。だから今日は仕方なく、コンタクトで来たの」


「はっはー。ドジったな葵」


「は?」


 人を殺しそうな睨み方をした。

 わたしはまあまあ、と宥めてチラリと葵ちゃんを窺う。

 眼鏡がないと、その美貌が際立って見えた。目もとを覆うものがないから、可憐な目が直で見られるのだ。


「葵ちゃん、コンタクトの方がいいんじゃ?」


「嫌よ。気持ち悪いったらありゃしないわ。それに眼鏡じゃないとズーム機能と分析機能が使えないじゃない」


「あの眼鏡そんな多機能だったんだ!?」


「眼鏡に機能を搭載するのは当然じゃないかしら」


 そうなんだ。

 眼鏡売り場に縁がないから全然知らなかった。


「いや、そんなことしてるの葵だけだろ」


 朱里ちゃんが、呆れたように言う。

 いったいどっちが真実なんだ?

 まあ、いいか。そんなこと。

 教室に差し掛かると、葵ちゃんがニヒルに笑う。


「じゃあ、今日も退屈ないつも通りを過ごしましょうか」


 その響きはわたしの耳によく聞こえて。

 かけがえのない日常に戻ってきたんだと、実感した。

 そんなことは決してないのに。

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