第二章 不可逆前進(下)
なんとか、自宅に到着した。
ライター大の携帯端末を起動して立ち上げ空中に表示させたディスプレイにを見ると、午前二時になっていた。
遅くなりすぎた。いや、図ったわけじゃないし、巻き込まれるだけ巻き込まれただけなんだけど。
静かに、入ろう。
そう決心して、わたしは家のドア横にある指紋認証と虹彩認証を突破してロックを解除してから、ゆっくりと音を立てないようにドアを開けた。
もちろん、家の中は真っ暗だった。どうやらみんな寝静まったらしい。わたしの帰りが遅いのは、年頃だからということで片付けてくれたのだろうか。
これ幸いと、わたしは靴を脱ぎ、自分の部屋に直行する。
電気をつけて姿見に身体を写した瞬間、目を疑った。
――制服のところどころがビリビリに破けていて、顔面も、見える手足も血が通ってないみたいに蒼白な高校二年生の姿が、そこにはあった。
とりあえず、早急に服を着替えた。こんなの見られたらどう思われるか。
白すぎる肌を見せないため、余裕のあるジャージを着終わったところで、コンコンとノックがなされた。
『黒菜? 帰ってきたの?』
「あ、うん」
そう返して、わたしは指紋認証で錠を解除し、顔を出す。
お母さんだった。ついさっきまで寝ていたのか、髪型が乱れていて、寝惚けまなこだった。
「そう。家出とか失踪じゃなくてよかったわ」
心配していないふうにそんなワードを言い放つお母さん。もしも、があればそれが事実になっていたかもしれない現実に、わたしは「そんなことしないよ」と苦笑いした。
「でも、こんな時間までいったい何してたの」
「寝てた」
必ずしも嘘というわけじゃない。だって夕方から真夜中まで浪費しちゃったのは、紛れもなく意識が飛んでたのが原因なんだもん。
「ふうん。成長期だし、そういうこともあるかもね」
すんなりと納得してくれた。すんなりすぎて若干不安になっちゃったけど。
「あら。あなた、美白になってない?」
わたしの顔を見て、驚いたように言う。
「そ、そうかな」
髪をいじって、わたしは居心地の悪さを誤魔化した。
「うん。儚げさが増したわ」
「へ、へえ」
儚げって、褒め言葉なのかな。脆いとか弱いとか、そっち系な感じがするけど。
「でも、少し行きすぎね」
といって、お母さんはわたしの頬を撫でた。
「血行が悪くなってるのかも。冷たいし。何もかけずに地面に寝たんじゃないの?」
「う……」
完全正解だった。頬触っただけでそこまでわかるとか、お母さんやばくない?
……まあ、結婚する前は生物学者だったらしいし、難しくないことなのかな。
図星を突かれたわたしを見て、お母さんはニッコリと微笑んだ。見るだけで安心できるような、そんな笑顔だ。
「お風呂に入ってきたら? 寝てきたなら、もう眠気はないでしょ」
「あ、うん。そうする」
「……その前に。本当に、寝てただけ?」
「え?」
部屋から身体を出してお風呂へ向かおうとしたわたしの背中を、お母さんが呼び止めた。
その声は先とは打って変わって、シリアスなものだった。
「……うん。寝てただけ、だけど」
お母さんは、どこかわたしの異状に気づいたのかもしれない。
けれどわたしでさえ状況が把握できてない。そんなことを説明ができるわけがない。
わたしが肯定で返すと、お母さんは穏やかな微笑みを取り戻した。
「そう。なら、いいんだけど。結構冷えてるっぽいしできるだけ長く入りなさいよ」
「はーい」
そんなやり取りののち、わたしはお風呂場に直行した。
で、今。
「おっかしいな……」
わたしは表示されている給湯温度とにらめっこしていた。
全身の写った鏡には、わたしの真っ白になった肉体が写っている。これはこれで行けるかも。新たなキャラクター追加だね。
普通に考えて、あそこまでおびただしい量の出血したら、そりゃあ全身白くもなるわけだ。
でも、それ以外に変わったことはない。いや、変わったことはあったけど、外見的に。これがここまで生き延びての感想だった。
「生き延びて、か……」
全く、ここまでこの言葉がしっくりくる体験をしたのは、わたしが初めてじゃなかろうか。
滅多刺しにされ。
腕を斬り落とされ。
「……それにしても」
鏡の中のわたしが、わたしから見て右側を向く。
その右肩に。
そこにはピンピンしたほどよい肉付きの(わたしが言うのもなんだけど)腕が健在していた。
もちろん、異常はない。
「人類は知らない内に自己再生能力を身につけたのかな……?」
幼少時代からこの方、怪我という怪我をしたことのなかったわたしは、突拍子もなくそんなことを思った。
すごいすごい。技術だけじゃなくて、人間自身も進化してたんだ。まあそれくらいないと技術に押しつぶされちゃうから、このくらいはあって然るべきかな。
でも。
そこまで得心してなお、疑念は残る。
なんで。
「――なんで、あったかくないんだろ」
そうなのだ。
入ってすぐに流したシャワー(現在進行形で流れている)を浴びたわたしは、首を捻らずにはいられない。
全く、温度を感じない。
給湯の温度は、はっきりと四十度を示していた。湯気も立っているから疑いようはない。
感覚がないわけじゃない。今もこうして、水が身体を打っていることは我が事のように(実際に我が事だ)感じ取ることができている。
わたしの身体を触っても同じ。触っている感触はあるけど体温を感じられない。思えばお母さんに頬を撫でられた時も、お母さんの体温を感じることができていなかった。
何が、起こっているんだろう。
「……なーんて、考えても仕方がないよね」
専門家っていうわけじゃないんだから、症状の原因は想像でしか語れまい。ショックで神経が麻痺したとかね。
考えるのをやめてシャワーを止め、湯船に浸かる。
水圧で身体が圧縮されて、自然息が出る。
「ぷふぅー……」
極楽極楽……と、言いたいところなんだけどあいにく、あったかく感じないとお風呂は極楽にならないらしい。
なんだか無性につまらなくなったわたしは、口まで水に沈め、ぶくぶくと息を吐いた。
忘れてたけど明日も学校か。新学期二日目。
明日もあの二人に、会える。
二度にわたる命の危機をくぐり抜けたわたしは、そんないつものことでさえ、尊く、かけがえのないことのように思われた。
「ん!」
不意に、頭をよぎった。
ハッ――制服、どうしよう。
あんな血が染み付いたスカートやブレザーで行けるわけないよ……。どころかブレザービリビリだし、さらに言えばシャツだって穴空いてる。
修繕はできそうだけど、あと四時間くらいで学校なんだよ、間に合わない。
いっそのこと休んじゃうか、でもそれだとみんなから不自然がられるに違いない。まだ新学期始まってから二日目。学校には行かなければ。
しょうがない、目立っちゃうけど異装して行くか。それっぽい色なら、なんとかなる……かも?
ん? あと四時間だって?
わたしは何気なく見た現在時刻を二度見する。
「やばっ!」
もう時刻は四時を回っている。
出発時刻を換算すると、わたしに残された時間はあと三時間と少し。
ああ――こうしちゃいられない。
わたしは飛沫を上げて立ち上がり、脱衣所へと駆けた。
ゴシゴシと、身体を拭くのもそこそこに、最低限の着るものを着たあと、ドタドタと自分の部屋へ。
上は替えのシャツにパーカーを羽織るとして、スカートはどうしよう。
クローゼットを一心不乱に開けると、一筋の光明が見えた。
制服には夏用と冬用の二パターンある。今日着ていったのは言うまでもなく冬用。それは使い物にならない。
でも、それならば。
「はあ、よかった」
安堵のため息と一緒に、その場にへたりと座り込んだ。
これで私服のスカートを穿かずに済みそうだ。
それがわかるとわたしは今日(もう跨いでいるけど)という一日を区切るようにして、ベッドへと潜り込んだ。
……一睡も、できなかった。
日常は、不変じゃない。
変化のエネルギーは、いついかなる時でも、わたしたちを狙っている。
絶妙なバランスで、奇跡的に『いつも』を保っているだけなのだ。
だからこそ、その『普通』という壁がぶち壊されてしまったあかつきには、もう『普通』には戻ることができない。
それが本人の意思でも、
本人が望んでいないことでも関係ない。
たとえ巻き込まれる形であっても。
始まりは終わり、終わりは始まる。
無限のように思える中での境界線がそれだ。
どうしても避けることができない、理。
ならわたしは、もう終わったのかな。
そしてまた、始まったのかな。
少し歯車のズレた、日々が。
幕を開けたのかな。
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