第二章 不可逆前進(中)

 外靴に履き替え、上履きを持って外に出る。

 迷わず直行したのはグラウンドの隅にある水道だ。まずは身体とか服とか洗わないと。

 蛇口の頭を撫でるようにして触ると、ジャーと勢いよく水が走る。

 最初に洗ったのは上履き。ゴシゴシと力を入れて擦ると、血は取れた。布の成分がないのも幸いした。

 次は鞄。閉めていると完全防水ができるので、そのまま流水にさらす。こちらは労力を必要とせずに綺麗にできた。

 最後に服……と行きたいところだったけど、こちらは完全に布なので落とすのは難しそうだ。なのでひとまずは格好が不自然というかホラー映画のそれにならないように、見える範囲だけをできるだけ洗った。


「冷たっ……!」


 足を濡らして後悔した。でもやらなきゃいけない。

 今度はスカート。恥ずかしいけど、こんな時間、誰もいるわけがない。脱いでから、擦って洗った。

 上に着ていたブレザーも同様に。


「あ……穴が……」


 やっと気づいた。刺されたということは穴が空いてるに決まっている。こればかりは誤魔化しきれないかもしれない。

 しょうがないか。

 絞って水気を抜いた後、スカートとブレザーを再び身につけた。

 昇降口に、上履きを戻してから、締まっている校門を、よじ登って乗り越えた。

 そうしてから、わたしはついに帰路についた。


 その、途中のことだった。

 世界がわたし以外いなくなってしまったかのような錯覚を覚える夜道、どうせならといつもは歩けない道路をてくてくとどこか誇らしげに歩いていた時だ。

 黒い。

 いつの間にか、前方十メートルあたりに人影がいるのが見えた。

 着ている服が黒だからか、全然気づかなかった。

 わたしは足を止める。

 頑張って目を凝らしてどういう人物なのかを窺った。暗いところをずっと歩いていたから目は慣れていた。

 目につくのはその頭に被った軍帽である。流れるように視線を下に下げると、当然と言うべきか、軍服を着ていた。

 あまりに時代錯誤な真っ黒軍服。

 しかも、腰には三本、長い鞘が提げられている。形状から見て日本刀でも入っていそうだ。

 そして驚くべきことに、軍服を身にまとっているのは女性だった。少女、が正しいか。どうも顔立ちからわたしくらいの年齢のように見える。

 キリッとした、針のような鋭さを持つ瞳。シャープな輪郭。腰まで伸びた長髪。

 一つだけ少女らしくないことは、スラリと背丈が異様に高いことである。成長期真っ只中の男子くらいの背の高さを誇っていた。

 そもそも、軍服のおかげでそういった整合感はあらかじめ崩されてしまっているけど。

 とにかくそれが、彼女の風貌だった。

 ……うーん。なんでここまで怪しい格好でここにいるんだろう。

 コスプレイヤー?

 そうかも。

 コスプレが好きだけど人には見られたくない、けれどコスプレがしたい。そこで編み出した深夜徘徊プラスコスプレによるスリルを伴った遊びを、決行しているのではないか。

 そこまで察したところで、わたしは見てはいけないものを見てしまったのではないかと申し訳なくなった。

 ここは、見なかったフリをしよう。

 わたしは大人の対応で、回れ右。

 遠回りになるけど、迂回をして帰ろうとルートを頭で検索しつつ、



 ザシュッ、と音がして、



 来た道を引き返そうとした。

 ――は?

 ひゅうん、ぼとり。

 そんな音と一緒に、『わたしの右腕が地面に落ちた』感覚がダイレクトに伝わってきた。

 なんで、そんな感覚が。

 地面に落ちたって……?

 ぐぎぎ、と首を動かして、右腕がどうなっているのか、確認した。

 確認、してしまった。


「――え」


 なかった。

 肩のあたりから、全部。

 右腕は、存在していなかった。

 不思議なことに。

 右手の指の感覚は、問題なかった。握ったり開いたりをしている感覚がある。肘も、曲げられる。

 でも、どこの?

 もう肩口からぷっつりと途絶えているのに、なんでここまで操作ができるの?

 わたしはあたりを見回した。

 後ろ斜め六十度ほどの三メートル先くらいに、あった。

 わたしの意思のままに動く、どこか生命体じみた腕だけが。


「…………、」


 その光景に思わず言葉を失ってしまうが、視界内に映りこんだ存在に気を取られる。

 チン、という静かな金属音。

 軍服の少女が、刀を鞘に収めた音である。

 今のは――この子の仕業?

 居合斬りだとか、そういった早業を行使したのだろうか。

 しかし、その刀の長さでは、わたしとの距離、十メートルには遠く及ばない。刃が伸びたとでも言うのだろうか。

 そんなことは関係ない。

 今重要なのは、この子がわたしの腕を予兆もなくちょんぎったかもしれない、という可能性だ。

 脈絡なく、ぱったり会っただけで。

 コスプレイヤーなんかではなく――殺人鬼。

 人を、殺す。

 殺人鬼は、こちらを光る眼で、無感情にこちらを見ていた。

 殺すのは当然、とでも言うように。

 生かすのは不全、とでも言うように。

 無慈悲に、刀に手をかける。

 と、いきなりわたしの目線の高さが急降下した。

 原因は目の前に差し迫った現実にある。

 やばい、腰、抜けた――!

 無様に尻もちをついて、足を向こうに向けてしまった。これでは、動けない。

 殺人鬼は今もわたしを殺そうとしているのに。

 抵抗すら、できない。

 どうしようもなく怖くて、恐ろしくて、身じろぎすらできない。

 それなのに、こんな時なのに、わたしの脳は全く違うことを考えていた。

 ――なんで、わたし、痛みを感じていないんだろう。

 腕を撥ねられたのに。斬られたのに。

 さっき刺された時に、あそこまで痛みにも勝る痛みにあっていたのに。

 先の激痛のせいで、わたしの痛みにする耐性がついたのか、あるいは痛覚が麻痺してしまっているのか。

 それに、考えてみればおかしいことだらけだ。

 なんで、わたしは切断されて別個になった腕を、動かすことができたんだ?

 そもそもからして、なんでわたしの腕の切断面からは、一滴たりとも血が垂れていないんだ?

 これは現実逃避だ。眼前にある死を直視したくなくて些細なことでも思考をそちらに向けてしまう。

 殺人鬼が、刀の柄を握る。

 ああ、終わりだ。今度こそ。

 愉快犯でもなんでもない、ただの殺人犯に殺される。

 今日はなんて運の悪い日だったんだろう。気まぐれで忘れ物を取りに帰っただけなのに、背後から突然滅多刺しにされ、そして今殺されかけている。

 ああ、でも、そんなこと、どうでもいいか。

 わたしは全身の力を抜き、ゆっくりと瞳を閉じた。

 だって、まさにこれから死ぬんだし――


「……………………?」


 そう予言のように直感していたのに、いつまで経っても向こうが動いた気配がない。

 おそるおそる、瞳を薄く開く。

 ちょうど、軍服の少女が軍帽の位置を整えたところだった。


「……純正か?」


 そんな一言。

 その一言はしかし、わたしにはわけがわからない。


「純正って、どういう……?」


 純粋で、正しいっていうそのままの意味なのか。わたしはなんとなく、専門用語っぽいニュアンスを感じ取ったのだけど。


「……ふん」


 それに答えることはなく、少女は鼻を鳴らしただけだった。

 直後。

 シルエットがブレたと思ったら、刹那のあいだに高速で移動をし、その場から消えていた。見事なまでの俊敏な動き、あの軍服の中に、結構な重装備をしていたのだろうか。

 ただ、謎だけが残った。

 あの子が誰なのか。なぜわたしを殺そうとしたのか。なぜわたしを見逃したのか。


「…………わかるわけないじゃん」


 ポツリと漏らして、気持ちを切り替える。

 とにかく、助かったのだ。本日二回目の奇跡的な生還。それでいいじゃないか。

 ……さて。

 わたしは次なる問題に目を向ける。

 ひとりでに動く手。まあ実際には、わたしが動かしてるんだけどさ。

 動かすのをやめ、わたしは右手に近づく。筋肉どころか伝達神経その他色々が遮断されているのは明白なのに不自由なく動かせるものだから、本当に斬れているのか、不審に思ってしまう。

 肩が回せないことだけが、切り離されていることを物語っている。

 一瞬断面を見てしまって、あまりのグロテスクさに目を背けた。断面が見えないように、腕を掴み取る(ただし自分の)。

 どうするんだ、これ。わたしこれから隻腕で生きていかなきゃいけないのか。それは嫌だな。これで学校行ったら変に目立ってしまう。

 ……そうか。動くのだから、どうにかなるかも。

 どういう原理かは知れないけれど、この右腕、自在に意思を反映できる。

 それなら――


「――くっつけちゃえ!」


 思い切って、切断面と切断面を、かっちりと合わせてみた。

 人間の身体の内部は血と肉と骨。ぐりぐりやったら多少は接合できるだろう。

 ちなみにこの間も、痛みという痛みは何にも感じなかった。

 実際に。

 肩が回せるほどにくっつけることができた。

 どころか。


「なに、何が起こってるの……」


 綺麗に切れた制服を、少しまくる。

 痕跡がない。

 傷口なんてなく、不自然な凹凸もできていない。

 かといって、接合された、治癒した、というふうでもなかった。

 斬り落とされた、という事実ごとなくなってしまったかのように。

 何ともなかった。

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