第二章 不可逆前進(上)
「…………。…………ぅ」
わたしは、重いまぶたを持ち上げた。
硬い床に眠っているらしく、地面からは弾力が感じられない。
なんでベッドで寝ないかな、昨日のわたしよ。翌日身体中痛くなって辛いんだけど。
でも幸いにも、身体は痛くなっていなかった。
――ん?
起きた?
ええっと、わたし、さっき滅多刺しにされて死にそうじゃなかったっけ?
しかし、わたしの身体はどこも痛まないし、呼吸も正常。体温の異変もない。手をグーパー交互にできるし、身体も動く。
……もしかしてあれ、夢オチ?
そこまで推定して、わたしは安心したようにため息をついた。
なあんだ、よかった。まあ、走馬燈が見えないって言うのはちょっとおかしい気がしてたんだよ。定番のあるあるだし。それにしてもいやにリアルで、心地悪い悪夢だった。わたし、寝る前にホラー映画でも見たっけ?
何はともあれ本当に、良かっ――
そこでわたしの思考は寸断された。
ため息をすれば、深く空気を吸う。呼吸のメカニズムから言って、これは当然なことだ。
そのせいで、わたしは認識したくなかった現実を目の当たりにすることになった。
痛々しい、鉄の匂いが鼻の中どころか喉まで占領したのだ。
「え」
血。
血の匂いだ。
そう思い至るのにはわずかなラグしか要しなかった。
混乱、混濁。
入り込んできた情報に思考が停止した状態。理解が追いつかず、意図をせずに身体が動く。
難なく、うつ伏せの状態から立ち上がることができた。
そこまではよかった。
ストン、カチャガチャカンカン、キャリキャリ、ガラガラガラ、そんなふうに。
直立した瞬間、わたしの後ろで、無数の物体(察するに、金属だろうか)が下に落ちる音が響いた。
「な、なに」
突然の音にビクビクしながら、わたしは反射的に距離を取り、振り返った。
誰もいなかった。
代わりに。
畳に、包丁や千枚通し、カッターやナイフに鎌等々。わかったのはこれくらいだけど、数多の種類の刃物という刃物が、落ちていた。
「ひっ……」
その先々に、赤い、酸化して黒く変色している塗料を塗りたくられて。
「え、と。これ、は」
光景が信じられずに後ずさりしていると、やがて壁にぶつかる。そこは窓のある一面だった。
目を逸らしたくて、外を見る。
見通せないほどに暗かった。
そして、目立たないように努力をしているんだろうけど、異色を放っているのは浮かんでいるのは満月。
高さからして、今は真夜中、と言ったところか。それを瞬時に判断できる自分を不思議に思ったけど、そこは知識が残っていたのだろうと納得する。
窓を開け、空気を換気しつつ、もう一度、今度は新鮮な外の空気で深呼吸をする。
冷静になろう。今何が起こっているのか。それを把握するのに専念しよう。
自分に言い聞かせて、意を決し、ゆっくりと室内を振り返る。
やはりわたし以外には誰もいない。あるのは刃物だけ。
そこで、わたしはおかしい点を発見する。
あれ。
なんで、センサーでつくはずの明かりが、ついていないんだろう。
そういえば、倒れる前。その時にも明かりはついていなかった気がする。
故障、あるいは停電でもしているのだろうかと、手動のスイッチを押してみると、問題なくパッと光が灯された。
「とことん、不気味な状況だな……」
光がついたことで異常な、異状の光景が、くっきりと見て取れる。
見渡す限りいつもの部室。
けれど、出入口付近の様子が、異質さを物語っていた。
そこだけ、ペンキを零してしまったかのような一色で塗りつぶされている。赤黒い血液色。ヘモグロビンが酸素を離すことでできる独特な色。
思わず、口を覆う。これがわたしのだと思うと気持ち悪くて気持ち悪い。
とても直視できるものではなかったので、一通りの確認を済ませると、そちらを背後にするようにして座り、ぼんやりと満月を見た。
わかったこと。
悪夢だと思っていたあれは、一分一秒全てが真実事実の出来事だったということ。
「……まったく、良くない」
風は取り換えられ、呼吸が息苦しくない程度には匂いは落ち着いていた。
そもそも。
あれが――後ろに落ちている刃物という刃物のことだ――わたしの背中に刺さっていて、あの血をドバドバと出して、為す術もなく倒れて意識を失ったのだとしたら――いったい、どうしてわたしは生きているのか。
自分が生きているのを疑いたくはないけれど、行程を考えると考えない方が無理というものだ。
まず、焦点に当たったのは、初撃で『入って』きたものだ。
あれは中で破裂して、わたしの体内に何かを撒き散らしたようだけど……。
「造血剤、止血剤、回復促進薬……、そういったものがあの中に諸々入っていたとしたら、わたしが生きている理由は説明できるか」
殺さないように滅多刺し。
死なない予防線を張ったところで、執拗に身体を痛ぶり切り裂く。
人を傷つけて血を見る。わたしを襲ったのは、そういうのが楽しくて仕方がない愉快犯だったのだろうか?
「とにかく。生きているのなら僥倖だよね」
運が良かった。命は尽きなかった。
今はそれだけで良かった。
「さ、帰ろう。随分真夜中になっちゃったけど、何て言って家に入ろうか……」
すっくと立ち上がり、一刻も早くここを去ろうと足を動かす。
鞄を手にしたところで、その鞄も血に染まっていることに気がついて、立ち止まった。
この鞄は帰りにしっかり洗うとして、この部屋の後始末はしていこうか。陰惨な室内を見てそう考えたけど血が染み付いてしまっている畳を見て、諦めた。この分じゃ汚れを落とすのは無理だろう。せいぜい、明らかに異様さを光らせている刃物の大群を滅多に開かない戸棚の中に入れるくらいしか、今のわたしにできることはなかった。
鞄から生徒証を取り出そうとして、ないことに思い至る。そういえば、スキャンして足を踏み入れようとしたところでやられたんだっけ。
ならこの室内に落ちてるはずだ……と、あったあった。本の上に乗っかるようにして落ちていた。
あ。元はと言えばわたしがここに引き返してきたのってこの本を取るためだった。
そう思い直し、本も一緒に取って鞄に入れた。この鞄は水を弾く素材だから、血は中まで染みていなかった。
今度こそ生徒証をスキャンして、わたしは部室から外に出た。血は乾いていたので、あちこちにつく心配はなかった。
……よく考えてみると、わたし、真夜中に外に出てるけど法律的に大丈夫かな……。見つからないように注意しないといけないけど、スキャン型のドアだったからログには残っちゃっただろうし……。
考えたところで仕方ないことか。
よく見えない夜の廊下を非常灯を頼りに進み、なんとか昇降口にたどり着く。昼間の時より、何十倍も長く感じられる道のりだった。
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