第一章 ありふれた日常の倒壊(下)

 廊下を歩いて階段を降り、昇降口に到着。上履きを脱いで下足を履き(なぜかここだけアナログ的だ)、今度は校門へ向かう。


「あ」


 校門を出かけた時に、ふと気づいた。


「ん、どうした?」


「ちょっと忘れ物しちゃった。読みたかった本。わたし取ってくるから帰ってていいよ」


「そう。黒菜、じゃあね」


「また明日」


「うん」


 手を振って別れを告げてから、踵を返した。

 まだ明るい夕方だし別に急ぐ必要はないので、歩く。

 昇降口でまた履き替えをし(面倒くさい)、階段を上り(面倒くさい)、廊下を歩く。

 廊下には掃除ロボットが通っていた。事故でも踏まれないように、バケツ型で背丈を高くしている。無骨だけど、動きだけなら可愛いこともある、かも。

 なんとなくポンポンとバケツ型掃除ロボットに手をかけると、搭載してあるスピーカーから放送がなされる。

 穏やかな、女性型の合成音声だった。


『まもなく、下校時間です。まだ学校に残っている生徒は速やかに帰宅の準備を整え、早急に帰りましょう』


 掃除兼見回りロボットだった。

 時間を呼びかけてるこれ、初めて見た。


「はーい、わかりましたー」


 一応返事をして、わたしは掃除ロボットの脇を通り過ぎる。

 それにしても貴重なもの見たなあ。明日朱里ちゃんと葵ちゃんに自慢してあげよう。

 ……と、そこまで考えたのはいいんだけど、なんだか不自然なことに気づいた。

 あまりにも、人気が少なすぎるのだ。

 さっき朱里ちゃんたちと降りた時には通りすがる教室とかの中に人がいたりしたのに、戻ってきてみるとこれである。まさか、上履きに履き替えてる時にすれ違ったあの人たちでもう学校には人が残ってない……?

 ……たまたまかな。たまたま、部活が早めに切り上げられたのかもしれない。

 そう言い聞かせるも、静寂に包まれた廊下の中で、わたしは言いようのない不安感を感じ始めた。

 ……あれ、職員室に明かりは灯っていたっけ。何気なく通り過ぎたことについて、わたしは逃避をするように思考を向けた。

 誰もいない校舎。

 奇々怪々な話には付き物なシチュエーションである。


「なんて、何考えてるのわたし……。ダメだ、ありえないって言っときながらしっかり朱里ちゃんの影響受けちゃってる……」


 ないとわかっていながらも、怪談だり何だりを聞かされると夜寝れなくなってしまう性質だ。

 こんなことなら、思い切って二人に付き添ってもらえばよかった。

 後悔しているあいだに、オカルト研究会の部室の前についた。

 生唾を飲む。

 心臓が、ドクドクと緊張によって拍動が増しているのがわかる。


「落ち着け……まだ暗くもないじゃん」


 未だに夕焼けが、地上をオレンジに照らしている。たしかにお化けが出るのにはまだ早い。

 強引にそう思案して、深呼吸する。すると、少しは楽になった気がした。


「それに、ここの生徒じゃないと校舎には入れないし。誰かがいるなんてことはありえないよ」


 鞄から生徒証を取り出して、今さらなことを確認して、馬鹿馬鹿しくて思わず笑ってしまう。

 さて、早く本を取って帰ろう。

 わたしはスキャナーに生徒証をかざして、扉を開けた――。

 その時だった。

 もしかすると、こんなふうに考えてしまったから、遭遇しないかもしれなかったことを、引き寄せてしまったのかもしれない。

 そんなことは考えるだけ無駄だった。


 ――背中の中腹あたり、臓器で言えば胃がある場所に、何か、棒状の何かが『入った』気がした。


 いや。

 刺さったのか。

 視覚外、それも思わぬ出来事に、わたしの感覚は麻痺し、痛みを伝達するのを忘れてしまっているようだった。

 けれど、刺さったのではなく、『入った』で表現は間違っていないようだった。

 その棒状の何かが、わたしの体内に完全に侵入したあたりで、破裂したのだ。

 中から出てきたのは――液体?

 ここに来て、ようやっとわたしの神経と脳が正常に働き始めた。

 すなわち。

 激痛。


「――あ、ああぁ――ああァああぁぁああァああぁああ――!!」


 視界が一面赤になったり白になったり黒になったり、明滅をしていた。目の前にあるのはさっきまで朱里ちゃんと葵ちゃんと一緒に過ごしていた部屋のはずなのに、全然わからなかった。

 しかし。

 それだけで終わりでなかった。

 ザクッ、ブシ、と。今度は正確に、わたしは異物が背中を貫いたのがわかった。

 刃物ということはわかる。包丁か、ナイフか、カッターか。

 そんなことはどうでもいい。

 というか、推測する暇などなかった。

 ザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザク、ズッ、ブスグチャ、そんな調子のいい音を立てて、続けざまに、刃物がわたしを穿ったからだ。

 もし、針地獄があるのなら、それはこんな状態のことを言うのだろう。

 痛い。

 痛い。痛い。痛い。痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

 一瞬で、頭の中がそれで埋まった。

 そのあとで。

 熱い。

 それしか感じなくなった。

 以上に熱い。まるで身体の中から火を焚かれているような。

 それと一緒に、身体がどんどんと冷えていくのも実感している。

 明らかに矛盾してるのに、熱くて寒かった。

 背後から攻撃されたままに、わたしは前のめりに倒れた。

 温かい液体が、床に広がっていく。寒いわたしは縋るように、わたしはその水たまりに身を丸めた。

 わたしとしてはそれが精一杯だった――けれど、防衛本能からなのか、わたしの視線はたった今危害を加えたのが誰かを確かめるように、出入口の方へと飛んだ。

 しかし、タンッと地面を蹴る音がして、辛うじてそこに見えた人影は姿を消した。

 わからずじまい。

 わかったのは、走り去る折、わたしの返り血を浴びた白衣を翻していたことだけ――。

 そして自動のドアは閉まる。

 これで密室は完成、か。

 そのまま、意識が落ちそうになったが、激痛がそれをさせない。

 鼻腔に充満する、鉄くさい、生々しい匂い。

 わたしの身体はもうピクリとも動かない。

 その代わり、液体がさらなる勢いで円を描いて広がっていく。とともに、熱い箇所が、髄の方へと限定されていった。

 まさに風前の灯火。

 そろそろ火は消える、それを直感してしまった。

 なのに、それなのに、わたしは走馬燈を見ることすらままならない。

 わたしが思ったのは一つだけ。


 ――死ぬって、こんな感覚なんだ。


 痛覚が飛んでしまったのか、余裕すら生まれていた。

 時間が、何倍にもスローに映る。

 視界が霞む。喉がカラカラに乾く。

 息も絶え絶え。ヒュー、ヒュー、と過呼吸になっているのが、他人事のように思えた。

 どこかから傍観しているような、そんな気持ちになる。

 無数の刃物が刺された少女の、猟奇死体。

 セキュリティは万全だったはずなのに起きた、密室殺人。

 手がかりは血のついた白衣。逆に言えばそれ以外にない。

 解くのは朱里ちゃんか、葵ちゃんか。いや、あの二人なら意外と名探偵コンビになれるかもしれない。

 新連載、乞うご期待。

 被害者は――わたし。


 そんな笑えないノンフィクションを、エンターテインメントのフィクションのように紹介したわたしの意識は、緩やかにフェードアウトしていった――。

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