第36話【——魔王、来たる】
『高二男子・水神元雪から見える光景』
診療が終わり外科医院の玄関を出た。ようやくこれから登校だ。診療開始時間が午前九時からだからどのみち今日は遅刻だな。時刻は九時半少し前になっていた。
平日の住宅街、人通りは無い。時間帯のずれた通学路は既にそれだけで異世界だ。ランドセルを背負った小学生はいないし通学用リュックを肩に掛けた中学生も自転車に乗った高校生もいない。自分はそんなところを一人で歩いている。
真っ昼間なのに人の姿がないというのはその風景を見慣れぬ者にとってはそれだけで非日常の世界に来てしまったような錯覚を起こさせる。こんな時は突然なにかが起こるのでは、という不安が止め処もなく押し寄せる。気づけば自分は小走りに走り出していた。
「そんなに走ってもどうせ今日は遅刻じゃないか?」
声が突然真後ろから聞こえてくる。声の大きさが一定のまま。自分の靴底がアスファルトを叩く音にきっちりと合っているもう一組の靴音。
誰かが自分の後を追うように走っているのは明らかだった。声の主に心当たりなど無い。
「誰だ?」走りながら短く問うた。
「魔王」
「んだとっ⁉」
「魔族の『魔』に王様の『王』」
思わず走る速度を緩めてしまう。心のどこかに予感があったからなのかもしれない。今の状況のせいだ。かつがれているという考えは頭のどこにも浮かんでこない。
「じゃあ西平真央とでも名乗っておくかな」
それを聞いて自分は走るのをやめてしまった。その靴音でさえきっちりと合っていた。
振り返る。この時初めて声の主の顔を見た。一目で気に食わない奴だと感じた。俗に『イケメン・ヤロー』。こんな奴と一緒にいたらこっちが惨めになる。そんな顔の奴だった。どういうわけか東王東高の制服を着ている。別に頭からツノを生やしてはいない。身長が2メートルを超す巨漢だとか毛むくじゃらだとかという事もない。どこからどう見ても、頭から靴の先まで見ても普通に人間だ。
しかし自分は今現在まともじゃない世界の中にいる。だからこんな姿であっても、
「なんで魔王がそんな名前なんだよ?」と言えていた。
「ここは東王というんだろ? だから反対にしてみた。『東』の反対は『西』で、『王』の反対は『平』だから」そう答えられた。
「なんで〝ひら〟なんだよ?」
「平民の〝ひら〟だから」
これはなにかの寓意か?
「王様を自称しててその字を使うのか?」
「だから下の名前は真ん中の『真』に中央の『央』とした」
「どうせ偽名だろ」
「当たり。でもキミも僕と話すとき『魔王さん』とは呼びたくないよね」
それで偽名を名乗ったってか? 魔王を自称するくせに漢字なんか解して。
「まずは和解の握手を」自称魔王がおかしな事を言い出した。
自分が何かを思うよりも前にもう左手の方が差し出されてきた。
やけに白い手首。その手首には傷————フラッシュバック。思い出した‼
それは容疑者の写真を見せられて初めて『この顔に見覚えがある!』というパターンだ。確かにあの時この手首の傷を見た。なぜ今まで思い出さなかった⁉
じゃあ昨日の通り魔は——
そう言った自分はもう歩くことすら止めていた。咄嗟にここから逃げ出しそうなものなのに。
握手のために差し出された自称魔王の左手はそのままの位置にある。さすがに身体が自然に後ずさりを始めた。一方頭の中では確認作業が続いている。
こんな顔だったか? アイツは。しかし手首の傷には……見覚えがある。
自分にしては大胆な言動をしたと思う。
「もしかして……昨日グラウンドで襲いかかってきた?」と言っていた。
「ほう?」と、自称魔王の自称西平クンが声を出し、「その通り」とあっさり言われてしまった。
え? え? ええっ⁉ 自分で訊いてて自分で驚く。
『魔王』などと聞いてもなぜか少しも恐ろしくはなく、どこかバカにしているようなところさえあったが『通り魔』と聞いて肺が空気を思うように吸えなくなったような。動悸が激しくなってくるような。
「話しが早くて助かる。実はその件で謝りに来たんだ」
自称魔王は出した左手を引っ込めながらこれまで以上に変なことを言い出した。自分で『魔王』を名乗りながら律儀そうな事を言う。そういうキャラか、魔王って。
「魔王が謝る?」と思わず口走ってしまった。
「キミのそのスクバっていうのかな、穴を開けてしまったのは僕だから」
! ! ‼ なぜコイツが知ってる⁉ 自分のスクバが台無しにされたことをコイツが知ってるとしたら間違いなく『コイツがやった』で決定だ。思わず、
「それだけなのか?」と言っていた。
「それだけ、とは?」
「これだよ、これ!」と自分は左手の甲を見せた。四角い絆創膏が貼ってある。
「そんなのは知らないなあ」とすっとぼけたような事を言われる。
お前のせいで縫うことになったんだぞ。律儀でもなんでもないぞ、コイツは。
「もう一つ謝らなければならないことがあるんだ」
まだ謝る?
「キミの大切な深見さんを殺そうとしたのはこの僕だ」
ハっ?
「まさか僕がキミのスクバに穴を開けようとしていたとか勘違いしないだろうね? するわけないさそんな無意味なこと」
そら、確かに無意味だ。同意する。
「ましてキミを殺すなどあり得ない。この口調で分かるだろ? キミのことは兄弟みたいに思ってる。なんならキミが兄貴でもいいさ」
これには不同意だ。
「じゃあ深見さんはなぜ生きている?」
相当不謹慎な事を口にしているけどここには深見さんはいないから。
「自覚が無いのか? まさかキミが立ちはだかるとはね」
そんなカッコイイこと、この自分がしてたのか?
「断っておくけどもう『深見さん』とやらは狙わないよ。だって〝あの剣〟を持ってないんだからね」
冗談じゃないぞ! じゃあ今〝剣〟を手にしてる仁科さんの命はどうなるんだ⁉
「この後なにをするつもりだ?」
「それよりさ、歩きながらにしようか、遅刻にだって限度というものがあるだろうから」
またしてもだ。魔王を名乗る奴にしてはまともすぎる。
自分は返事もせずその提案に乗っていた。確かに学校に到着するのが十時半ではまずい。歩き出す。しかもふたり並んで。ふたり分の靴音がまたしても一つに合ってしまっている。
合わせるな!
歩きながら口にする。どうしても言わなければならないことがある。
「仁科さんもたまたま『呪いの剣』に手が触れてしまっただけなんだ。そしたら吸い付いて離れなくなってしまって——」
「黙ってくれないか」
「でも次は仁科さんの命を狙うんだろっ⁉」
「僕も〝あの剣〟を持つ者に命を狙われている」
もう歩くのを止めてしまっていた。あの剣の名前は『勇者の剣(ユウシャノツルギ)』ということになっていると知らされてしまっている。つまり魔王からしたら勇者は刺客以外の何者でもないという理屈に確かになる……
「キミは素晴らしい」
「どこが?」
「黙り込んでしまうところが」
「分からない」
「狂信者は微塵の迷いもなくこう言う。『汝勇者よ、躊躇うことなく魔王を殺せ』とね」
「魔……、いや西平君ってことになってるのか、これは〝騎士道精神〟ってやつなのか?」
自称魔王は自分の顔を真顔で見た。その直後、はははははっ! と笑い出す。
「どこからそういう発想が出てくるんだい、キミは?」
「いや、今のはそういう感じだったろ! 『仁科さんの命を守りたかったらキミが戦うことだ』、と正々堂々予告をしに来たんじゃないのか⁉」
カカカカカカっ、「これは傑作だ」
だんだん品が無くなってくる。
「なんか西洋ファンタジーだね、キミは。賤しくも魔王を名乗っているんだ。そんな魔王がいるだろうか?」
よくよく考えればいそうもない……
「まあ人間にもその〝騎士道精神〟とやらが備わっているのかどうか、大いに疑問だけどねえ」
「いったい何しにここに現れたのか、もう意味が解らない」
「僕はキミを買っている。好きだと言った方がいいのかな。実はこんなに心の底から笑ったのはずいぶん久しぶりだ。魂の琴線に触れるんだな」
「ますます何を言っているのか解らない」
「たとえば、だ。さっき件の剣のことを『呪いの剣』と言ったろう? 名付け方がいいね。その通りさ。連中は『勇者の剣(ユウシャノツルギ)』なんて言ってるけどね」
魔王側(ただし自称)も〝あの剣〟を同じ名で呼んだ。あれはやっぱり『ゆうしゃのつるぎ』なんだ。
「まあいくら波長が合うからといってあまり無駄話もよろしくない。キミが最も気になることについて述べようと思う」
ごく、と唾を飲み込む。
「深見さんの次は仁科さん、正直次々乗り換えるのはどうかと思うけど——」
「それ無駄話だから!」
「ああ悪い悪い。単純に僕が仁科さんを殺そうと考えているのなら、わざわざ僕はキミにこんなことを言いに来ない。予告することで覚悟が固まってしまったり警戒が厳しくなってしまったりするだけだから。言いたいことはただ一つ——」
「——仁科さんの命を守りたいと思わないかい?」自称魔王の顔は極めて真顔だった。
「守る方法があるのか⁉」
「問題はあの『呪いの剣』だ。誰であろうと〝あの剣〟を手にしている者は魔王の敵だ。が、あれを持ってさえいなければ魔王の敵ではない」
「あの剣を手から離れさせる方法があるのか?」
「おぼろげながら見えてきた」
おぼろげ……って。
にや、と自称魔王の口元に笑みが浮かんだ。
「キミは今僕に不信感を抱いている——」
「いや……」
「その感性は悪くない。むしろもっと研ぎ澄ませ。さて、そんな鋭い水神君にひとつだけ質問してみよう。『正しい判断』をし続けるにはどうしたらいいでしょうか?」
「なんで名前を知ってんだよっ?」
「けっこういろいろ知っているさ」
自称魔王は自分の顔を穴が開くほどにじっと見つめ続けている。根気強く待ち、なんでもいいから答えを言わせようとしている。
人を試しているのか?
「危なさそうな事をしなければ、たいていそれが『正しい判断』になる!」そう言った。それが考え抜いた〝答え〟だった。
「なんだ、その程度か。あっという間に鋭さが無くなってしまったなぁ」
「じゃあどういう返事だったら良かったんだ⁉」
「その前に、だ、自分では『危なくなさそうだ』と思っていても、実は危ない、ということはままあるとは考えないか? 『危なくなさそうだ』というのは個人の判断に過ぎない。ではどうすればその判断を間違えないか? ここが要点だ。はい、どうぞ」
どうぞって——
「よく考える!」そう答えた。
「まったく残念。正解は〝情報収集〟」
「……」
「判断するには情報あってこそ、情報が無いのに判断したら単なるヤマカンだろう?」
「……まあ」
「キミは今仁科さんの手に貼り付いているあの剣についてどれほど知っているだろうか? 『一度手にするとくっついて離れなくなる』くらいしか知らないだろう?」
図星だ。
「時にあの剣を拾わせた者はもうキミの前に姿を現してはいないか?」
「よくは解らないけど、たぶんそうだろう」
「どういう奴だった?」
「……ちょうど西平……クンみたいな感じだったか? やけに端正な顔をしたふたり組の女子に出くわした。ふたりの顔が同じだったんだ。どういうわけか自分の通う高校の生徒に化けていた」
「なるほど聞いたとおりだ」
「きいた?」
「まったく同じ顔をしたふたりの女、というのがね」
「そいつらが前の持ち主なのか?」
「いいや。前の持ち主は深見さんだろ?」
「そうじゃなくその前!」
「なら直近で僕が殺した勇者ね」
「……うまい訊き方がないかな……」
「だったらこう訊けばいい。黒幕は誰でしょう?、と」
「それがその二人か?」
「僕が聞いたとおりだ。まず間違いないだろう。で、その連中は何かを教えてくれたかい?」
「そいつらに『手にくっついた剣を外す方法を教えるから』、って言われた」
「それで何かを教えてくれたかい?」
「いや、そう言われてグラウンドに呼び出されたんだ。そうしたら襲撃された——だからグルじゃないかって疑われている」
「まさかそのふたりと僕がグル?」
「そう」
「腹が立つ」
自称魔王は〝本当に忌々しい〟といった顔をしていた。
「つまり結局何一つ教えてはくれなかったと」
言われて自分は肯いた。
「真実を報せると都合が悪いから何も言わないのだ、とは考えないかい?」
「そうかもしれない……」
「あの『呪いの剣』について僕の知る限りの情報を伝えると言ったら、キミはここから立ち去るかい?」
去れるわけがない。
「あの剣の正体が知りたい」、そう言っていた。
自称魔王は少しだけ息を吸った。
「目には目を歯には歯を魔術には魔術を。魔術を持たず使えずの人間たちがモノに道具に魔術の力を込めたんだ。それがあの剣だ。長い年月の間、何十万の、いや百万以上いってるかな、どれほどの勇者たちがあの剣の犠牲になったか分からない」
「逆じゃないか? あれが〝勇者の剣〟なら犠牲になるのは魔物とか魔王のはずだ」
「ははぁ、キミは一人の伝説的な勇者が次々魔物を倒し最後に魔王を倒すという美しい物語、英雄譚を求めているな。だが真実は数え切れないほどの勇者の死と引き替えに少しずつ魔王を切り刻んでいるだけ」
「じゃあ、あの剣を持った人間の手から剣が離れなくなるというのは……」
自称魔王はニコリと笑った。
「ご明察だよ。無理やり魔王と戦わせるために離れなくなるんだ。しかも己の意志とは無関係に魔王に近づいていってしまう。最初からそういう仕組みで造られた剣だ」
だがいいんだろうか——
これを信じてしまっていいんだろうか————
湧き上がってきてしまう自分の内心を無視してしまっていいんだろうか?
「どうしても訊いておきたいことがある」自分はそう口に出してしまっていた。
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