歌舞伎町の蝶々

@mokumox

第1話 ホームレス・ミーツ・ガール

2016年の12月、歌舞伎町は肌を刺すような刺々しい寒さに、毛布のように包まれていた。

僕はそんな中を、人々の群れを掻い潜るようにただひたすら歩いていた。

歩くという行為はいい。寒さをしのげるし、それに人々の群れに紛れることによって、社会に少しだけ受容されている気分になる。

歌舞伎町という街には、とにかく様々な人々がいる。

仕事帰りのサラリーマン、居酒屋のキャッチ、スカウト、ホスト、ヤクザ、キャバクラ嬢、風俗嬢、そしてホームレス。

ホームレス。それが僕だ。

もっと詳しく説明するなら、家を出る時に着ていた黒のジーンズとパーカー、使い古して今にも底が抜けそうなニュー・バランスのスニーカー、薄汚れたバックパック、伸びきった黒髪、やつれた顔、そんな風貌をした17歳の青年をイメージしてくれればいい。とにかく、それが、僕だ。

ホームレスという存在はこの日本社会において不可視の扱いを受けている。

けれどももちろん、僕らは社会の底といった極めて狭いスペースの中で影を潜めながらちゃんと生きている。

公園で行われる不定期の炊き出し、飲食店のゴミ漁り、雑誌の販売、アルミ屑の回収、

やることは人によって様々だ。そしてホームレスという存在は、大半が高齢者を占めている。

医療サービスも受けられない彼らには、日々が死活問題なのだ。

そんな中に、僕は17歳という年齢で飛び込んだ。いや、飛び込まざるを得なかった。


16歳の頃、父親が死んだ。蜘蛛膜下出血だった。

幼い頃から父親は僕に無関心で、遊んでくれた記憶など二度や三度しかない。

だから、僕は父親の死に対して最低限の悲しみしか感じなかった。

けれど、母は違った。

彼女は父のことを愛していたし、精神的な部分において依存していた。

そんな彼女にとって、父の死は修復できないくらいのダメージを残した。

精神疾患を抱えるようになり、僕はずっとそばについて面倒を見てやらなければならなかった。当然高校には通えなくなり、中退することにもなった。

そんな乾燥した生活が1年ほど経過したとき、天使の顔をした悪魔がドアをノックしてきた。


「ほほえみ」という新興宗教団体が日本には存在する。

掲げているお題目としてはこうだ。「死者は死者でなく、生者の祈りにより再会できる」

ある日この団体の構成員が、僕の家にいきなりやってきた。

どうなったか、もはや説明することすら不要かもしれない。

心の弱った母は「ほほえみ」の教えにどっぷりと染まり、ひたすら祈り、挙げ句の果てに喜捨という名目で団体に金銭まで捧げるようになった。

そして、その”教え”とやらを、僕にも信じるよう強要してきた。

僕はそれがたまらなく嫌だった。死は死であり、生者はそれを時間をかけて受容していくしかない。それが母には分からなかったのだ。

そうして深夜、母が寝ている間、僕はひっそりと最小限の荷物をまとめ、家を出た。

7月の蒸し暑い夜だった。

それが僕のホームレスとしての人生のスタートだ。


親戚は誰もいなかったし、唯一いるとすれば険悪な関係にある祖母だけだ。

そこで最初の1週間はインターネット・カフェに宿泊した。

昼は図書館で本を読んで暇を潰して、夜になるとそこで寝る。

そんな日々を過ごした。

働くという選択肢は真っ先に考えた、だけれど、親の承諾書も家もなしに17歳が働ける場所など僕が探した範囲では見当たらなかった。

金銭に余裕がなくなってくると、僕は残り僅かな金で新宿に向かい、ホームレスたちの集団に紛れ込んだ。補導されてしまえば家に逆送りだし、そうするしかなかったのだ。

いかにも簡易的なテント、あるいは住居ともいえるものが立ち並んだ場所だった。

僕はそこにいる老人たちに声をかけてみたが、年齢からして冷やかしだと思われ、相手にされなかった。ただ、一人だけ話を聞いてくれる人がいた。佐々木さんという人だった。

彼は僕の実情を話すと、ここら一帯のルール(ホームレスたちにはホームレスのルールがある)、炊き出しの時間、稼ぎ方を教えてくれて、テントも貸してくれて、まるで弟子のように面倒を見てくれた。

僕はしばらく佐々木さんと行動を共にした。

佐々木さんは僕をクロと呼んだ。(僕が全身に黒い服を着ていたからだ)

佐々木さんは廃品回収を職にしていた。カラスが鳴き出す前に起き、自転車でポイントを回る。それで集めた金属類を僅かな金に変えるのだ。

僕もその仕事を手伝うことになった。ポイントを手分けして自転車で回るのだ。

この仕事のおかげで、新宿の地理にはずいぶんと詳しくなった。

儲かる仕事とはとても言えなかったが、食べるぶんには困らなかった。

ある日の仕事の最中、僕はボロボロのアコースティック・ギターを拾った。

佐々木さんにそれを見せると、弦を調節してなんとか弾ける状態にまでしてくれた。

「クロ、俺もな、昔、弾いてたんだよ」

僕は佐々木さんに一通りコードを習い、それを弾くことを趣味にした。

曲も何曲か作った。それを佐々木さんに披露するとえらく気に入ってくれた。

「それ歌って、歌舞伎町で物乞いでもやればいい、あそこはなんでもありだ」佐々木さんは言った。僕は咄嗟の提案で少し驚いたが、頷いた。

確かに、生活の足しになるかもしれないし、歌うことで何より僕はここにいるんだという存在証明になるんだと思うと、なんだか心が躍る気分だった。

僕は翌日から、歌舞伎町で弾き語りをすることにした。

最初のうちは、誰からも怪訝な目で見られ、嘲笑されることもあった。

だけどそれでもよかった。僕という存在を社会に認知させたかったからだ。

時間が経つうちに、足を止めてくれる人も現れ、ダンボールの箱に小銭を投げ入れてくれる人も現れた。大した収入にはならなかったが、僕はここにいると叫んでいるような気持ちで僕はこの趣味を始めることにした。

始めてから一ヶ月ほどたったある日のことだった。

いつものように足を止めて聴いてくれる人はいるけれど、そこに僕と同じかそれ以下の年齢の少女が立っているのは初めてだった。

彼女は曲が終わると足元の段ボール箱に一万円を入れた。一万円。

彼女の年齢で気軽に物乞いに差し出せる金額ではないはずだ。

僕は動揺して、「どうして?」と尋ねた。

彼女は答えた。「なんだか、わたしと似てるから」

それがアヤとの出会いだった。


僕らは歌舞伎町の近くにある喫茶店でしばらく話をした。アヤは17歳で、僕と同い年だった。そして彼女もまた母親と確執があり家出をしているということ。年齢を偽り、歌舞伎町の違法風俗店で働いていること。精神疾患を抱えていること。高円寺のアパートで暮らしていること。そしてそんな暮らしの中で、孤独に、それでいて誰かに認めてほしそうに歌っている僕を見て興味を持ったこと。

「それにしても一万円もくれていいの?」

「いいの、わたしこう見えて結構稼いでるから」

僕は少し沈黙した。それからアヤが言った。

「ねえ、もしよかったらわたしの家にこない?、一人で暮らしてると退屈だし、たまにどうしようもなく寂しくなるの」

「本当に?」

「もちろん、最初にわたし言ったでしょ、あなたとわたしって似てるの、ところでなんて呼べばいい?」

「クロ、そう呼ばれてる」

「面白い、猫みたいね」アヤは笑った。

「君のことはなんて呼べばいいの?」

「アヤ、でいいよ」

「わかった、アヤ」僕は口に出して彼女の名前を呼んだ。

「そうしたらはやく支度して家に行きましょう、荷物はそれだけ?」

「そうだけど、挨拶しないといけない人がいるんだ」

「誰?」

「僕の師匠」

「師匠」アヤは繰り返して、また笑った。

「恩人なんだ、色々と教えてくれた」

「ならちゃんと挨拶しなきゃね、わたしここで待ってるから行ってきて」

僕は喫茶店を出て、佐々木さんのテントに向かった。中に入ると佐々木さんがお湯を沸かしてコーヒーを飲んでいた。

「どうした、クロ、今日はもう終わりにしたのか」

「違うんです、実は家が見つかったんです、住んでいいって人がいて」

佐々木さんは少し沈黙したあとに笑って言った。「そうか、それはよかったな、いつまでもこんなとこに若いやつがいるもんじゃないわな」

「なので最後に佐々木さんにご挨拶に来ました、なんの関係もない僕を面倒見てくれて本当にありがとうございました」

「いいんだよ、俺も若いやつと話すのは久しぶりで楽しかったわ」

そう言うと、佐々木さんは手で出ていくように合図をした。

「よかったな、クロ、もうここにくることがないといいな」

僕はこみ上げる寂しさを堪えて、もう一度礼を言ったあとに、アヤの待つ喫茶店に向かった。

アヤはスマートフォンをいじりながら、モンブランを食べていた。

「終わったよ」僕は声をかけた。

「そう、わかった。じゃあ行きましょう?」

僕とアヤはそのまま喫茶店を出て、中央線に乗り、高円寺駅へと向かった。

高円寺駅からしばらく歩き、アヤの住むアパートに着いた。

こざっぱりとした、クリーム色の外壁のアパートだった。

「ここの104号室」アヤが言った。

「どうやって借りたの?」

「探せば方法はあるんだよ」アヤは笑って言った。よく笑う子だ。

僕は何も言わずにアヤが鍵を開けるのを待っていた。

「おいで、いま暖房つけるから」

アヤの家の中は控えめに言って雑然としていた。脱ぎ捨てた洋服や通販のダンボールや空いたペットボトルで床が見えない状態だった。

「ごめんね汚くて、でも外で暮らすよりましでしょ?」

「たしかに」僕は言った。

僕はなるべく踏んでよさそうなのものを選びながら家の中へと進んでいった。

「お風呂とかどうしてるの、今まで」

「インターネット・カフェで週に1、2回入れるかどうかだよ」

「だと思った、どうりで薄汚れてるわけね」アヤはそう言うと続けた。

「これから一緒に住むんだから、お風呂も毎日入っていいよ」

「ありがとう」僕は言った。

「ご飯はもう食べた?」

「ううん、まだ」

「じゃあなんか適当に作ってあげる、家は汚いけど料理は上手なんだよ」

「楽しみにしてる」

「作るからそこの椅子にでも座ってて」

時間は22時を回っていて、たしかに何も食べてないので空腹だった。

アヤの作った料理は、およそ17歳の作る料理とは思えないほどしっかりしていた。ご飯に味噌汁に生姜焼きにほうれん草のお浸し。

「おいしい。久しぶりにこんなおいしいご飯を食べた」

「そう?それはよかった、普段自分のためにしか作らないから」

「誰かに習ったの?」

「ううん、独学。今はこんな職業だけど将来はちゃんとしたいから、その一環なんだ」

「そっか」僕はアヤの職業を思い出し、不憫に思った。

「ごちそうさま。本当においしかった」

「そうしたらお風呂入りなよ、タオルとか用意するから待ってて」


僕はシャワーを浴びている間、僕がいま置かれている状況について考えてみた。

こうやっておいしいご飯を食べれて、風呂に入れて、暖かい場所で寝られる。

それらは確かに有難いことだった。

でも、なぜ”僕”だったんだろう。

なぜアヤは僕を拾ったんだろう。

似ているから、とアヤは言った。

いくら考えても分からなかった。

だから考えるのをやめて、僕は風呂を出て、コインランドリーで洗濯した新しい服に着替えた。アヤの声が聞こえた。

「終わった?、わたしはもう寝るけどクロはどうする?」

「僕も寝るよ、どこで寝ればいい?」

「布団は一つしかないから一緒に寝るしかないよ、あとクロは変なことしないって信じてるからね」

「もちろんだよ」

布団の敷いてある場所まで行くと、アヤはなんだかよくわからない薬を飲んでいた。

「クロは普通に寝れる?」

「最近はあまりよく寝れないんだ、なんでだかわからないんだけど」

「ならこれ飲みなよ」アヤが薬を手渡してきた。

「ロヒプノール」アヤが言った。

「これ飲むとよく寝れるよ」

「ありがとう」

僕はグラスに水を注ぎ、ロヒプノールという名前の錠剤を飲み下した。

それから僕らは一つの布団に収まった。枕もちょうど半分ずつ使った。

アヤは眠そうな声で話しかけてきた。

「今日はいい日だったな、クロに会えたから」

「ずっと考えてたんだ、なんで僕なの?、他にも弾き語りの人間なんてどこにもいるだろ」

「違うんだよ、わたしには分かるの、寂しそうな人間が、自分を見てくれって人間が、わたしがそうだから分かるのかもしれないね」

僕は何も言えなかった。

そのうちおそらくロヒプノールの効用らしき強い睡魔が襲ってきた。

アヤはすでに寝息を立てて寝ていた。

僕もこのまま睡魔に身を任せることにしよう。明日がどうなるかはわからない。

ただ今は眠ろう。僕は隣で寝ているアヤを見ながらゆっくりと瞼を閉じた。

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