証人の復活

 蝉の声が遠くに聞こえる。

 僕は部室のドアの前で立ち尽くしていた。ここは夏休みの真っ最中、部員でもない生徒が訪れていい場所ではない。目的が少々後ろめたいものとなると、なおさら逃げ帰りたくなる。そんな臆病心に負けないように花束を握りしめる。

「入らないの?」

 苛立ちと気遣いが半々くらい含まれた万由里の声が降ってくる。

「いや……」

 意を決して部室に入った。密閉されていた部屋にはどろりとした熱気が淀んでいた。「あっつー」

 万由里がふたつの窓を全開にすると、腰に手を当ててぐるりと部屋を見回し、すん、すん、と鼻を鳴らした。泣いているのかと思っていたら、ふっ、と息を吐くように弱く笑った。

「匂い、全然しないじゃん」

 部屋に染みついていた煙草の匂いは、すっかり消えていた。


 机の島の一番奥、修也専用だった机に花束を置くと、僕たちは目をつぶって祈る。しばらくして薄く目を開けると、万由里がまだ合掌していたので慌てて目を閉じ、黙祷を続けた。向こうも負けじと祈り続けているらしく、祈りの時間は延び続けた。我慢大会の様相を呈してきたところで、僕が折れた。

 ドア正面の窓の鉄格子に顔をくっつけて外を見る。理科棟のひび割れた壁のずっと下、地上にはスレート屋根の渡り廊下がある。そこからはこの窓が見えるはずだ。脱出に使うにはリスクが高い。

 僕は非常階段側の窓に移った。階段の地上出口は渡り廊下と繋がっているが、用もないのにこっちまで足を延ばす生徒はいないだろう。非常階段から部室棟には入れないのだから。つまり、非常階段はまるごと死角に入る。

 鉄格子のあいだから腕を伸ばしてみる。非常階段の手摺りにたやすく届いた。僕は非常階段に出て、今度は部室の窓に向かって手を伸ばす。手首から十センチほどが室内に入った。手摺りと窓の下端は同じくらいの高さなので、もう少し僕の背が低かったら手摺りの壁が邪魔になる。

「それが実験?」

 窓から万由里が顔を覗かせた。万由里を連れてきたのには理由がある。

「実験なら、これから始めるところだよ」


 部屋に戻ると用意してきたビニール紐をほどき、階段側の窓を閉めるとクレセント錠のつまみに紐を引っかけた。今、錠は開いているのでつまみは下を向いている。

 ここからが問題だ、と僕は部屋を見回した。

 つまみを上に回転させるには、紐を高いところに引っかけなくてはならない。しかし、ちょうどよさそうなフックが蛍光灯以外に見当たらなかった。掃除の手が入らないので万年埃まみれの蛍光灯が。紐を引っかけたことがあればひと目でわかりそうなものだ。

「世渡さん。あの蛍光灯の上、見てくれる?」

 あーめんどい、とぼやきながらも万由里はおとなしく机に乗ってくれた。

「うわ、汚っ!」

「埃が落ちてたり、何かが触った跡が残ってたりする?」

「全然。なんていうか、埃がカーペット状に堆積してるって感じ」

 僕はひとつ溜息をついて、紐の端を万由里に渡して指示する。天井からかまぼこ状のカバーを吊り下げている二本の棒のひとつに紐を引っかけ、ドアの下まで引っ張る。もう一端の紐の球も適度にほどきながら棒に引っかけてドアの下へ。クレセント錠、蛍光灯、ドアと続くビニール紐の道筋ができた。

「これから紐を引っ張るから、何かあったらストップかけて」

「何かって、何よ」

「蛍光灯が天井から抜けそうになったりとか」

 廊下に出て、鍵を使ってドアを閉めると、ドアの下からはみ出したビニール紐を引っ張る。結構固いな、と思いながら力を込めて引いていると――

「あ、ちょっと、ストップストップ」

 と、万由里の焦った声がしたので、とっさに手を緩める。

 盛大にガラスの割れる音がして、甲高い悲鳴が重なった。

 何が起こったのかは明らかだ。紐を緩めるのが一瞬遅かったな、と反省したそのとき。

「おい!」

 叫んだのは廊下の向こうから走ってくる小さな人影――倫明だった。彼はまずドアに飛びつくとドアノブを力任せに引き、足で蹴りつけた。

「ちょ、ちょっと、倫明」

「何やってんだよ。まさかおまえ、あいつを閉じ込めたのか?」

「違うよ。とにかく落ち着いて、鍵を開けるから」

 ドアを開けた先には、床にひっくり返って両足を高く上げた万由里と、机の上で粉々になった蛍光灯があった。どうやら蛍光灯の落下に驚いてバランスを崩し、机と壁のあいだに落ちてしまったらしい。

「いったあ……」

 万由里は後頭部をさすりつつ上体を起こし、めくれ上がったスカートを素早く直した。

「どういうことだ、朔。なんで世渡がここにいるんだよ」

「……倫明こそ、どうしてこんなところに?」

 倫明は途端にきまり悪そうな顔になって、背後の万由里を指さした。

「こいつが学校に行くって言ったんだ。理由は秘密だって。そんなの――何だか嫌な感じだろ?」

「ってことは、世渡さんと一緒にいたんだ」

「にやにやするんじゃねえよ。こいつはただネイに会いに来ただけだ」

 倫明は尋問する刑事のような張りつめた表情に戻った。

「朔、俺の質問に答えてないだろ。おまえたち、ここで何やってたんだ?」

「実験だよ。カオリが修也を殺した方法は本当に正しかったのか検証したかったんだ」

「だったら、俺たちに隠しておく理由がどこにある」

 あるんだよ、と買い言葉で突っかかりたくなるのを我慢して黙っていたら、倫明は衝撃の一言を口にした。

「昨日の夜、倉庫に行ったんだ」


「……何のために」

「しいて言えば、おまえの態度が不審だったからだな。俺たちが倉庫に近づくのをやけに警戒してただろ。しかも、二階から下りてきたとき、おまえの足の裏には血がついてた。蒸発しないってことは人間の血だ。行きがけにはなかったのに。こいつは妙だろ?」

 僕は何も言わず、話の続きを促す。

「まあ、家からちょっと抜け出したかったってのもあるけどさ。……で、行ってみたら」

 二人の死体が無くなってたんだ、と倫明は言った。

「床に広がった血がこすれて、赤い道みたいに部屋の外まで続いてた。まるでやつらが生き返ってずるずる床を這ったみたいに。でも、誰かが死体を引きずった跡だってすぐにわかった。血の道は倉庫の中で途切れてて行き先がわからなかったから、部屋の中を徹底的に調べることにした。そしたら梯子で血痕を見つけて――雑巾を濡らして梯子の上から下までざっと撫でたって感じで、かすれた血がこびりついてた」

 思わず舌打ちしたくなる。浅永朔の名にふさわしくない失態だ。

「倉庫の二階に何があったんだ? おまえはあのとき二階で何を――誰を見た?」

 倫明は気づいている。頭上の空間で起こっていた運命的な邂逅に。


 ――同じ人格を持った人間が二人もいるというのは、とても気持ち悪いことだから。


「二階に上がったの?」

「いや、なんとか足場を作って梯子を上がったけど、天井の扉が開かなかったんだ。だけど、何かを二階から降ろしたことはわかる。血に濡れた何かを。……朔、これっておまえと関係あるのか?」

 僕は答えない。嘘をつく代わりに沈黙を守った。

 ずいぶん長いあいだ僕たちは視線を合わせていたが、倫明がふっと笑って場の緊張が途切れた。

「そんなことより、どうすんだよこれ」

 と、粉々になった蛍光灯と、天井から虚しく垂れさがった二本の棒を示した。

「誠心誠意、小村先生に謝るしかないね」

「部員でもないのに壊すって相当ヤバいだろ。間違いなく部室出禁だぞ」

「別にいいよ」

 部屋の中を見回す。どこから出土したかもわからない土器の壺。専門書と膨らんだファイルで埋まった棚。修也の靴で黒ずんだ机――

 主の去った部屋は僕の眼には空虚なものに映った。新たな主を迎えたところで、決してもとの色を取り戻すことはないだろう。割れた蛍光灯が二度と光を放たないように。

「古代史研究部は、もうなくなるんだから」

 三人の視線は示し合わせたように、修也の定位置だった机に向けられていた。

「おまえ、入部しないのか」

「倫明は入るの?」

「そりゃ――いや、やっぱ俺もやめとく」

「世渡さんは?」

「わたし、もうこの部屋には来ないつもりだから」

 僕はポケットからおろしたてのスマートフォンを取り出して、貴司と仄香に同じ文面のメッセージを送信する。ほどなくして了解の返事があった。

「倫明、カオリを持ってきてくれる?」

 カオリの心臓は復活の目を見ないまま、倫明の家で厳重に保管されている。その名前を出した途端、倫明は露骨に嫌そうな顔になった。

「何のために。あいつを釈放するってことなら断固反対だ」

「今日、これまでの事件の真相をみんなの前で明らかにしたい。それにはカオリの協力が必要なんだ。もちろん脱走対策は十分にする」

「事件の真相、ねえ」

 倫明の言葉の端には拭いきれない疑念が滲んでいた。

「……わかった。で、そのみんなってのにこいつは含まれるのか?」

 と、万由里を指さした。

「世渡さんは人間だから、あまり危険な真似はさせられないよ。人質になる危険もあるし」

 信じられない、と万由里は声を荒げる。

「あんたたち、この期に及んであたしを部外者にするつもり?」

「もし問題が起こったとして、死ぬのは君だけなんだよ。そんな責任は負いたくない」

「あのカーチェイスに巻き込んでおいて、よくもまあそんなこと言えるよね。あたしはあたしの責任で参加したいと言ってるの。最後まで除け者にするなんて絶対に許さない。……あたしは、全部ちゃんと消化して終わりにしたい。でなきゃ、一生後悔したまま死んじゃうような気がするから」

 机の上に置かれた花束を見る。僕のものより一回り大きい花束。

「いいよ、世渡さんも一緒に来て。その代わり、何があっても他言無用だから」

「もちろん」

 万由里はまっすぐな目をして頷いた。

「じゃあ、今日の五時にあの倉庫で集合だ。遅れないように」

 倉庫? と二人とも首をひねったが、別に異論は出なかった。


 ゲートを乗り越えて小道を進んでいくと、倉庫の前にはもう五人が集まっていた。

「遅せえぞ、朔」

 倫明の叱責をへらへらと受け流しつつ、僕もその輪の中に入る。

「みんな、わざわざ集まってくれてありがとう。倫明、カオリ出して」

 倫明は手に提げたビニール袋から銀色の塊を取り出した。あの日から変わらずボールペンが突き立っている。

 貴司は非難するような視線を僕に向ける。

「なあ、朔。こういう重大なことをやる前には、まず俺たち全員で話し合うべきじゃないのか? メールでも教えてくれなかったから、俺、ついさっき倫明の話を聞くまで何も知らなかったんだぞ」

「別にいいんじゃないの? 朔くんには何か考えがあるみたいだから」

 少々神経が昂っている様子の貴司と比べ、仄香は通常運転の冷静さだった。


 僕たちは倉庫に入ってカオリ復活の準備を始める。心臓の針金を少し浮かせて細いワイヤーを通し、例の鉄パイプの罠に結わえつけた。心臓を床に置いて、水泳の授業で使う筒状の大きなタオルを乗せる。ワイヤーが身体から出ていてはうまく服を着られないと考えてのことだ。

 部屋に続くドアを開ける。まっすぐな夕日が床へと伸びて、丸まったタオルを柔らかく照らした。薄汚れた廃倉庫の中でそこだけが美しく切り離されていた。

「始めようか」

 僕は心臓からボールペンを引き抜いた。

 ふっ、と一陣の風。パウダースノーのように輝く粒子がタオルをふわりと持ち上げた。その下に人の形をした膨らみが盛り上がっていく。髪の黒と肌の白がタオルの隙間からなまめかしく覗いた。

「凄い……」

〈沼の人〉の復活を初めて目の当たりにした万由里は、神秘的な光景に語彙力を失ったらしい。凄い凄いとひたすら連呼している。

 やがて、カオリはタオルを胸元に引きつけながら立ち上がった。僕たちの存在に気づいて目を見開く。

「……何のつもり」

 一歩踏み出そうとして、ぐ、と声を詰まらせた。ワイヤーに心臓が引かれたのだ。

「これが、わたし……」

 カオリと初対面の仄香は驚愕に顔をこわばらせた。自分と瓜ふたつの顔を目の前にしたら、普通はそんな反応をするのかもしれない。

「本当にそっくりだな。これじゃ見分けがつかないはずだ」

 貴司がしきりに頷いている隣で、倫明は不快そうに目を背けている。

 困惑して立ち尽くしているカオリに僕は問いかけた。

「君に訊きたいことがあって復活させた。でも、嘘はついてほしくないんだ。嘘をついたとわかればまた封印するしかないけど、全部正直に話してくれたら助けてあげられるかもしれない」

「そんな都合のいい話、信じると思うの?」

「嘘をつくメリットはないはずだ。こういう約束をすることで君が真実を語っているという証明になる。みんな、これで彼女を信用してくれる?」

 三人は曖昧に頷いた。これから何が始まるのかと各々考えをめぐらせているようだ。

「まず訊きたいのは、君たちが鍵本修也を殺したのか――」

「殺してない!」

 カオリはやや食い気味に言い返した。

「このあいだ僕が訊いたとき、それを否定しなかったのはどうして?」

「何言ってるのかわからなかったからだって。その鍵本って人、会ったことも見たこともないんだよ? だいたいみんなしてシュウヤシュウヤって、あんたたちどんだけそいつにべったり依存してるの? 見た目と同じで精神年齢も小学生で止まっちゃってるの?」

 倫明が本能の赴くままに殴りかかろうとしたので、とっさに羽交い絞めにする。

「こいつに言いたい放題させておけるか。舌に釘打ってやる」

「喋れなくなるのは困るから」

 倫明の身柄を貴司に預けてから、カオリに向き直った。

「君が修也を知らなかったとしたら、仄香と入れ替わったあと自然に演技ができるはずがないよね。僕たちの会話の中から情報を拾っていくだけではどうしても綻びが出てくる。僕のことを『朔』って呼んだりとか、密室の件を知らなかったりとか、そういった些細なミスはあったけど、致命的な誤りは不思議と犯してなかった。例えば、君と仄香のお母さんが亡くなったこと」

 仄香の母親が自殺したのは、誘拐事件の一ヶ月後。

「あの日の夜、君はお母さんが自殺したことを話した。ずっと紗寧子のもとにいた君が知り得るはずのない情報だ。話しているうちに君が泣き始めたからびっくりしたけど、あれは演技じゃなくて、?」

 帰る場所が完全になくなって、本当にひとりぼっちになったと知ってしまったから。

 カオリは僕を試すように上目遣いでこちらを観察している。

「もうひとつはデニムシャツの件だ。仄香は倉庫を訪れたとき、フェンスの上でシャツを引っかけてしまった。仕方なくシャツはそこに放置して倉庫に入り、襲撃を受けた。倉庫の中に隠れていた君はその事情を知らない。でも不思議なことに、仄香と入れ替わった君はフェンスの上のシャツが自分のものだと知っていた。仄香は上着の下にTシャツを着ていたし、

 ゆっくりと全員を見回した。


「カオリに必要な情報を伝えて、仄香と入れ替わるのを手伝った人物――

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