仮面の裏

 一ヶ月ぶりくらいに帰宅した気がする。

 実際は倫明の家に一泊しただけだったが、その短い時間にみっちりとめくるめく出来事が詰め込まれていた。疲労を感じないはずの身体がずっしりと重く、足もふらつき気味だった。

 正面玄関の電子ロックに指を差し入れると、ぴっ、と短く鳴って鍵が開く。静脈認証は僕のことをずっと同一人物だと認めてくれる。ありがたいような、申し訳ないような感じだ。


 玄関から入って自室を目指していると、階段を下りてきた誰かとばったり出くわした。

「あ」

 驚いた気配がしたので首を上に向けると、満がこちらを見下ろしていた。ポロシャツとジーンズのラフな格好だったが、髪にはきちんと櫛が入っていて折り目正しい印象を受ける。こうして顔を合わせるのは三ヶ月ぶりくらいだろうか。

「……久しぶり」

「昨日からどこに行ってたんだ。家の一大事に」

 満の声にはやけに緊迫したものがあった。

「何かあったの?」

「泥棒だよ。夜のあいだに忍び込んだみたいで、汚れた足跡が家中にあった。警察を呼んでいろいろ調べてもらったけど、犯人がどうやって忍び込んだのかはわからないらしい。その上、朔がいなかったから大騒ぎだった」

「僕の仕業だって?」

「いや、足跡から朔じゃないことは確かだった。でも、おまえが手引きしたんじゃないかってみんな疑ってる」

「手引きなんかしてないよ」

 そういうことか、と昨夜のことを思い出す。〈沼の人〉一行が復活したあと、カオリの「共犯者」は姿を隠していたから、五人の行き先を知らなかった。五人がどこに向かうことになるのかは予測できないし、夜の一本道を尾行するのも危険だ。そこで僕たちが訪れそうなところを片っ端から当たった。侵入が発覚してしまったのは、「彼」が自分の不潔さに気づかなかったから。そして、土足なのに埃ひとつ落ちていないこの家の清潔さを忘れていたからだろう。

「そういうのはもう二度とないから、安心して」

「どういうことだよ」

「何でもない。……部屋に行っていい? 話したいことがあるんだ」


 僕たちは二階にある満の部屋に入った。僕が今使っている部屋より一回り大きい。小五まで僕はここと隣り合う同サイズの部屋を使っていたのだが、満と毎日出くわすのがなんとなく嫌で、自主的に三階の空き部屋に移った。弟と疎遠になったのはそれからだ。

 満の部屋は整理整頓が行き届いていて生真面目さが漂っていた。窓際には立派なアップライトピアノがあって、いつでも演奏できるように部屋は防音仕様になっている。

 分厚いドアを後ろ手に閉めて、満に訊いた。

「ピアノ、弾いてる?」

「最近はまったく。完全防音も宝の持ち腐れだ」

「でも、防音なのは便利じゃないか。音量を気にせず歌の練習ができるんだから」

 息を呑むような沈黙があった。

「……いつから気づいてた?」

「昨日、『心臓ディスコーダンス』をたまたま聴いたんだ。ボーカルの声が満にそっくりで気になって、悪逆ヒドゥンっていう学生バンドについて友達に訊いた。メンバーの名前はゾンネ、ヴィント、エールデ、フォルモントで、全部ドイツ語。たぶん本名を言い換えたものだ。そしてボーカルのフォルモントは『満月』――安直だよ」

「この手のネーミングは安直でいいんだ。そのほうが愛着が湧く」

 聞きたいことが多すぎて、つい時候の挨拶じみた質問を投げる。

「……バンドはうまくいってる?」

「ああ。このあいだアップした新曲の評判がよくて、九月のシティ・フェスに出られそうなんだ。これを足掛かりにして知名度を上げれば、商業デビューの道も見えてくる」

 それから満は、悪逆ヒドゥンのたどった軌跡をぽつりぽつりと語った。


 すべてのきっかけは中三の冬、学校で遭遇した見知らぬ同級生の言葉だったという。


 ――俺が思うに、おまえは朔に似すぎてるんだ。


 僕と間違えて満に声をかけた、鍵本修也だった。そもそも向こうが間違えたのに、出合い頭に説教をされたら誰だってむっとする。満はごくまっとうな反論をした。


 ――当たり前だよ、双子なんだから。

 ――俺は精神の話をしてるんだ。朔は凄いぜ。身体はちっちゃいままなのに中身はしっかり成長してる。でもおまえは、昔の朔と同じ顔をしてる。


 僕の異変を両親が察し、対外的にその存在を抹消するかどうかが話し合われているころだった。満は降って湧いた将来の義務に押し潰されそうになっていた。


 ――じゃあ、どうしろっていうんだよ。


 自分では何も思い通りにできないのに。

 すると満は腰に手を当ててしばし考えこむと、ふと上を向いた。合唱部のコーラスが微かに聞こえていた。


 ――歌えばいいんじゃないか?

 ――歌う……

 ――好きなんだろ、歌が。作曲の真似事をしてるって朔から聞いてるぞ。


 夢と呼ぶには淡すぎる夢、ほんの気紛れのようなものだった。何かが変わるかもしれないと思って詞を書き、メロディを組み立てた。でも、それを形にすることなんてはなから考えてもいなかった。

 修也は名乗りもせずに立ち去ると、二度と満の前に姿を現さなかった。

 それでも修也の言葉は、有名私立高校に進学しても胸に引っかかったままだった。満は逡巡しながらも、同級生四人で『悪逆ヒドゥン』を結成した。初めは学園祭のライブで一度演奏するだけのコピーバンドのつもりだったが、セットリストに一曲だけ紛れ込ませた満のオリジナル曲が高評価を得た。それならクラスのみんなに聴いてもらおうと動画投稿サイトにアップロードしたところ、学校の内外から予想外の反響があった。

 それからというものの、満は勉強漬けの日々から一転、作詞作曲と演奏活動にひたすら打ち込むようになった。おかげで成績は低下の一途をたどっているらしいが、まだ両親は気づいていない。ASAホールディングスの跡取りとなるはずの「一人息子」が、良俗に反したパンクロックにどっぷりのめり込んでいることも。満の書く曲はどれも、良俗や道徳に唾を吐きかけて踏みにじるような代物なのだ。身元がばれたら一大スキャンダルになってしまうので、ステージに立つ際は仮面が欠かせない――


 満はそこまで話したところで深々と頭を下げた。

「父さんと母さんには黙っててくれよ、頼むから」

 言われなくても黙っているつもりだったが、僕は交換条件を出す。

「それじゃ、一曲何か歌って」

「こんなところで歌えるか」

「ここ、防音じゃないか」

「絶対に嫌だ。CDなら流してやってもいい」

 満はオーディオコンポに無地のCDをセットする。再生ボタンを押した瞬間、爆音が弾けた。


 ――俺たちの心臓の足並みは揃わない!


 序盤から執拗にリフレインされるフレーズ。腹に響くドラムの重低音をリードするギターは、暴れ馬を叩く鞭の鋭さだ。激しいシャウトを挟みつつ、満は「人間不信」のテーマを高らかに歌い上げる。

 心臓の鼓動が揃わないように、人はみな違うのだから誰も信じてはならない。心臓の奏でる不協和音を止める手段はひとつ。


 ――殺せ! この旋律を乱す者を!


 激しいロックに身を打たれて忘我の境地に至っていたところ、ひとときの間奏で我に返った。

「最近評判がいいのって、この曲だったんだ」

「ああ。『心臓ディスコーダンス』」

「やっぱり歌いながら踊ってるの?」

「ディスコのダンスじゃなくて〈discordance〉――不協和音って意味だ」

 陽気なタイトルだと思っていたら、正反対だった。

「どうしてこういう曲を書こうと思ったの?」

「僕たちはパンクロックバンドだから、その雰囲気に似つかわしい曲を作らないといけない。ニーズに応える役柄を演じて、フォルモントが書きそうな詞を考えてるんだ」

 フォルモントの叫びは自分の叫びじゃない、と満は言っている。

「……これがおまえの本心だろ」

 僕の呟きは鳴り響く爆音に掻き消されたらしく、満は怪訝そうに見返してくる。

 だから、大声で続けた。

「おまえは仮面を被って本音を叫んでるんだ。僕が憎い、って」

 満はすでに決定された将来に抗い、不本意な道を歩む不満をぶちまけている。殺せ、殺せ、と繰り返されるシャウトは殺意の表明だ。ASAホールディングスの代表者を引き継ぐはずだった兄に対する殺意。

 顔を上げて苦笑いを浮かべる満。

「同情はするけど恨みはしないよ。おまえはおまえで大変そうだから」

「じゃあ、おまえは現状に満足してるんだ。僕が表舞台に立てる身体だったら、僕を羨ましく思うわけだ」

 満の顔から笑顔が消えた。

「そんなわけがない」


 ――殺せ! おまえの歩みを止める者を!


 尖ったシャウトが耳朶を引っ掻いて血を滲ませる。

「小さいころからわかってたんだ。僕はリーダーには向いてないし、表舞台に立ってみんなを牽引していける器も備えてない。そういうことは朔がやってくれるって、ずっとそう思って自由に生きてきた。だけど、気がついたときには浅永家の息子は僕一人だった。嬉しくはなかった。はっきり言って絶望したし、朔を恨んだよ。勝手に全部放棄して逃げ出すやつがいるかって」

「ひどいな。好きでこうなったわけじゃないのに」

「朔のせいで僕が埋め合わせをすることになったのは事実だろ。できることなら歌ったり、適当に働いたり、そんなふうにして気ままに暮らしたかった。……鍵本は僕の迷いを見抜いて、逃げ道を示してくれた。そのことは本当に感謝してる。できれば生きてるうちにまた会いたかった」

 満は修也の名前を知らなかったが、顔は覚えていた。報道された顔写真を偶然見て、三年の年月を経てようやく知ったという。

 御八塚高校内で自殺した「鍵本修也」――彼の名前を。

「修也は凄いやつだったんだ。わかるだろ?」

「ああ、わかるよ」

 本人も意図していないところで人に影響を与え、知らず知らずのうちに人のよすがになっている人物。鼓動が揃わないはずの僕たち四人が奇跡的なハーモニーを保っていたのは、修也が強固なベースラインを維持してくれたからかもしれない。

 満はピアノを見つめた。小さいころ、二人でかわるがわる弾いていた古いピアノ。

「鍵本はわかってたのかもしれない。僕が今の道を進むべきじゃないってことに」

「今でも、そう思う?」

「ああ」

「その重荷を捨てる方法があると言ったら?」

 怪訝そうに満はこちらを見返した。

「どうやって。おまえには継げないだろ」

「確かにそうだ。でも、修也はきっとこう考えてた」

 氾濫する音の流れが。

 やがてその高みに達して、白く弾ける。

「ASAホールディングスを継ぐべきなのは、浅永朔だって」


 ――殺せ! おまえの明日のために!


 ぶつり、と演奏が途切れて部屋は静かになった。

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