彷徨える沼
僕は天井に頭をぶつけて首の骨を折った。骨がくっつくのを待って顔を起こすと、三人とも天井に張りついていた。倫明はカオリの背中を切り開いてシールドつきの心臓を抉り出していた。
「朔、何か細いものないか」
足の下に転がっていた紗寧子のポシェットにはボールペンが入っていた。倫明はぐるぐる巻かれた針金の隙間からペンを突き刺し、心臓をポケットに放り込んだ。
倫明がさっそく外に出ようとするので、慌てて止めた。
「いくらなんでも裸はまずい。ここに服があるから着なよ」
と、カオリの服を渡す。倫明はプリーツスカートとショーツを持ち上げて渋い顔をしていたが、観念したのかおとなしく着替えた。
「……まさかこんな場所で女装するなんてな」
倫明は仏頂面をしていたけれど、もともと見た目が中性的なので似合っていた。
ネイの入ったポシェットを持って窓から這い出すと、トラックは森の斜面で完全にひっくり返っているとわかった。今まで走ってきた道路はほぼ垂直な斜面の上に見えて、破れたガードレールがぐにゃりとこちらにはみ出している。
「おい、おい、朔!」
コンテナ側にいた倫明が呼んだのでそちらに向かう。慎重に斜面を下りていくと、コンテナの扉が大きく歪んで開いていた。
予想に反して中身は空っぽだった。
「そっちじゃない、見ろ」
倫明が指さしたのは斜面のずっと下だった。
木漏れ日に照らされてまだらに光沢を放つ、ぶよぶよとした巨大な不定形の塊。
「〈沼〉が逃げ出した……」
紗寧子の話が本当なら、動物園からライオンやクマが逃げたどころの話じゃない。
僕は斜面を転がり落ちるように走っていったが、追いつけない。〈沼〉はナメクジのように伸縮を繰り返しながら異様なスピードで進んでいた。
十メートルほどに近づいて、ようやくその全貌が見てとれるようになる。
半透明のゼリーに浮かんでいる十数人の人影は、服を着ている者と着ていない者が半々くらいだった。金魚鉢の中の水草のように、〈沼〉の動きに合わせてゆらゆらと揺れている。
突然、〈沼〉が斜面に沈み込むように消えた。
かなりの勢いがついていた僕は止まることができず、切り立った崖から空中に投げ出された。茂みの中に頭から落下して、草いきれの匂いが鼻孔を満たした。
上下反転した視界に〈沼〉が映った。崖の中ほどに開いた亀裂にずるずると吸い込まれていく。
地中に潜ってしまえば追えなくなる。
体勢を立て直すと、一か八か、崖下からジャンプして〈沼〉に手を伸ばした。固まりかけのゼリーのような手ごたえのない感触があったけれど、手はそのまま〈沼〉を素通りして、僕は落下した。地面に尻餅をついて、手の届かない闇の中へと消えていく怪物を見上げる。そこにありえないものを見て、硬直した。
剣崎大毅が〈沼〉に浮いていた。
四年のあいだに成長してやや顔つきが変わっているが、右足の白いスポーツシューズが何よりの証拠だ。捜索の末に見つかった剣崎のシューズは片方だけだった。
僕の予想は半分的中していて、半分外れていたわけだ。
気休めに、とポケットから引っ張り出したものを投げつけると、〈沼〉はそれも貪欲に飲み込んでくれる。やがて、完全に亀裂へと消えた。
怪物は野に放たれてしまった。
崖の上に人影が現れた。カオリに見えてぎょっとしたが、カオリの服を着た倫明だと気づく。
「朔、どうなったんだよ、あの変なやつは」
「逃げられた。……人類滅亡がちょっと早めに見られるかもしれない」
崖を迂回して斜面を上がり、倫明と合流する。トラックに戻りながら、これまでの経緯をざっくりと説明した。倫明は半信半疑といった表情でそれを聞いていた。
「仄香が入れ替わってたなんて全然気づかなかった。っていうか、〈沼の人〉が二人いるなんて反則だろ。よく見抜いたな」
「でも、カオリの共犯者が剣崎っていうのは間違ってた。あいつはずっと紗寧子のもとにいたんだから」
「共犯者って、本当に修也を憎んでたのか?」
「そうじゃないと、わざわざ学校に忍び込んで殺したりしない」
「いいや、原点に戻って考えてみろよ。俺たちは最初、修也が殺されたのは〈黒の女〉について調べまくったせいだと思ってただろ。あいつの不興を買って殺されたんだと。紗寧子がずっと前に倉庫を去ってて、代わりにカオリと共犯者が住み着くようになってたんなら、動機ははっきりしてる。やつらも修也が目障りだったんだよ。隠れ家を暴かれたくなくてあいつの口を封じたんだ」
「なるほど、そうすると共犯者は誰だってありえる」
「あんなちっちゃい女の子にお願いされたら、たいていの男は一肌脱ぐもんだろ。無茶な要望だとしても、男にそっちの気がありゃ確実……」
変態男の「お願い」を実行するカオリのイメージが浮かんで怖気が走る。
「ところで倫明、部屋で刺されたときのこと覚えてる?」
「うーん、あんまり覚えてねえな。気がついたら身体が崩れてたって感じだ」
「誰にやられた?」
「電気消して目つぶってたから見てない。耳栓してて足音も聞かなかったし」
「ネイを警戒してたって割には無防備だ」
「鍵してたのに襲ってくるとは思わねえだろ。あの細っちい身体じゃドアをぶち破ったりはできないって高をくくってたのに。気がついたら万由里がそばに立ってて、俺は川辺に倒れてた。砥之岬のあたりだ」
「砥之岬?」
「ああ。あいつ、何であんなところにいたんだか」
砥之岬は御八塚からは遠く離れていて海に近い地域だ。万由里がそこを訪れる理由については思い当たる節があった。
崖を登って道路に戻ると、路肩に止めたバイクの前に万由里が立っていた。腕組みをして苛立たしげに足を鳴らしている。
「遅い。早くしないと警察が来るでしょうが」
「おまえ待っててくれたのか。それは悪かったな」
ちっと舌打ちすると万由里はバイクにまたがった。倫明の服装を上から下まで眺めてにやにや笑う。
「さっさと乗りなよ、お嬢ちゃん」
倫明が悪態をつきながら僕の後ろに乗ったところで、バイクは発進する。先程までのカーチェイスのときより風が優しい。叫ばなくても会話が成り立ちそうだ。
「世渡さん」
「何よ」
「剣崎のために花を供えに行ったの?」
万由里は少し沈黙した。風の音が急にうるさく感じられる。
「……花なんか持って行ってない。ちょっと手を合わせるだけ。修也は毎年そうしてたから」
四年前の今日、剣崎は川に流されて二度と戻ってこなかった。だから今日は剣崎の命日だとされていた――実際は〈沼〉の中で生きていたわけだが。
「修也の代わりにあたしがやるの。砥之岬なんて兄貴のバイクに乗ればすぐだし、買い物のついでみたいなものよ。……変な瓶を見つけたのはそのとき。どくどく動いてる変な塊にナイフが刺さってて、引っこ抜いたら祝が出てきたの。むちゃくちゃびっくりした」
修也は毎年の弔いのことを僕たちに隠していたが、万由里には話していた。修也が毎年剣崎のために祈っていたおかげで、剣崎を川に落とした当本人である倫明は助かった。スポーツシューズが見つかったのは漂着物が流れ着きやすい場所なのだろう。奇妙なめぐり合わせもあるものだ。
「裸だったからとりあえずあたしのジャケット貸して、家まで送っていったわけ。でも、こいつ裸一貫だし家の鍵持ってなかったのね。あんたたちが鍵かけて出かけてるってのはわかったけど、携帯がなくて連絡が取れない。で、この倉庫まで連れて行ってくれって泣きついてきたから、仕方なく送ってきたのよ」
「君がバイクの免許持ってるなんて知らなかった。しかも大型二輪」
「運転技能って知識より経験を重んじるべきって思わない?」
万由里は無免許だと確信する。事故死しない体質で本当によかった。
「で、次はどうしてほしいわけ?」
「とりあえず倉庫に戻ってほしい。仄香と貴司を奪った男が戻ってきたかもしれない」
息も絶え絶えだった紗寧子と雀部はともかく、懸念しなくてはならないのはカオリの共犯者のことだ。森のどこかに潜伏している男に急襲される恐れがある。ポケットの中のカオリを奪還されては厄介だ。
僕たち三人――カオリを含めると四人――を乗せたバイクは倉庫に到着した。
あたりに人影はない。裏稼業ペアはまだ歩けるほど回復していないらしい。やっぱり救急車を呼んだほうがいいかな、と一瞬考えたがやめておいた。救急車や警察がやってきたら仄香と貴司を捜すことができなくなる。
倉庫の中には焦げ臭い空気が漂っていて、ただでさえ匂いに敏感な万由里は「鼻が死にそう」と言い残して外に出ていった。もともと嗅覚が死にかけている僕と倫明は構わず進む。
「こんなに派手に爆発させて、そいつら本当に生きてるのか?」
「怪我も表面的だったし、ショックで動けなくなってたけどちゃんと生きてたよ」
ふと倉庫の端に打ち捨てられた延長コードが目に入る。コードがドラム型の巻き取り器にきちんと巻かれているのを見て、無意識に呟いていた。
「……やっぱり、違うな」
延長コードを伝って二階から脱出した犯人が、わざわざコードを巻き直して逃げるわけがない。独りよがりな推理で突っ走ってしまったことを深く後悔する。
突き当たりのドアは閉まっていた。カオリを追って出ていったとき、ドアは開けっぱなしにしていたはずなのに。
嫌な予感がした。
意を決してドアを開け放つと、視界に赤いものが映った。倒れた紗寧子と雀部を中心にして広がった、鮮やかな血溜まり。
紗寧子のそばにしゃがみこんで耳を近づけた。呻き声も呼吸音もしない。それは雀部も同じで、出血量から考えても二人は明らかに死んでいた。
「こいつら生きてるんじゃなかったのかよ」
「生きていたはず――殺されるまでは」
僕は赤く染まった二人の首元を指さした。ぱっくりと裂けている。修也のように、刃物で頸動脈を切断されたのだ。
「誰がやったんだ?」
「カオリの共犯者だ。それ以外考えられない」
殺された二人はカオリの敵で、カオリと共同戦線を張っている男の敵でもある。男が邪魔者を消したとしても不思議ではない。
カオリが僕たちの手に落ちたことを男は知っているのだろうか。男とカオリの結びつきが「利益」でも「欲望」でも、普通は仲間が捕まったら取り返しに来るはずだ。
倫明は人差し指を天井に向けた。
「その共犯者ってやつはずっと二階の部屋に潜伏してたんだよな。昨日の夜、俺たちがやってきたあとも逃げずにここで寝泊まりしてた。いつ再襲撃を受けてもおかしくないってのに。普通の神経してたら、とっとと逃げて別の場所に宿をとるもんだろ。そいつ、他に行く当てがないんじゃないか?」
男には帰るべき場所がないのだ。仲間だったカオリがいなくなってしまった今、男はどんな行動に出るのだろう。
「とりあえず、二階に上がるか。朔はここで待っとけ」
開いていたはずの天井の蓋が閉まっているのを見て、ある予感に駆られた。倫明を制止して梯子のほうへ踏み出す。
「いや、僕が行く。一度上がったことあるから」
「一人で大丈夫なのかよ。男が待ち構えてるかもしれないんだぞ。腕力だったらおまえより俺のほうが……」
「いいんだ。それに、スカートの君が梯子を上がってるところを見たくないから」
好きでこの格好じゃねえんだよ、と文句を吐きながらも、倫明は梯子につかまった僕の脚を持ち上げてくれる。
二階に頭を突き出したとき、頬に風を感じた。
窓は大きく開いていて、そこからこぼれた四角い光の中に誰かがうずくまっている。素早く残りの段を上がると、ナイフの入ったポケットに手を突っ込んで話しかけた。
「あの、すみません」
男は顔を上げた――僕の知っている顔だった。
ぎこちない動きでゆっくり立ち上がると、凍りついた表情をこちらに向けた。
「ああ……」
その掠れた声を耳にした瞬間。
倫明の家で聞いた、あの曲が頭の中で響き始めた。
――俺たちの心臓の足並みは揃わない!
男は右手に握りしめたものを差し出してきた。刃が危うい長さに伸ばされたカッターナイフ。先端には乾いた血がこびりついている。
僕がそれを受け取ると、男はその場に崩れ落ちるように膝をついた。僕の脚に取りすがる彼の手首には無数の切り傷。刻まれてからそれほど時間が経っていないらしく、凝固しかけた血が生々しく光る。
男は頭を何度も床にこすりつけた。
「お願い……僕にはできない……」
僕は開いたままの跳ね上げ扉を足先でばたんと閉じる。何やってんだおい、と倫明の喚き声がした。
部屋の隅に黒いビニール袋が転がっている。中に拍動する赤いものが覗いていた。
――殺せ! この旋律を乱す者を!
ぽたっ、と男の顔から水滴が落ちる。その涙は消滅することなく、赤い斑点の散ったリノリウムの床の上できらめく小さな円を保っていた。
男は湿った声で懇願する。
「……僕を、殺して」
深い溜息をつくと、僕は手の中のカッターナイフを見つめた。
――殺せ! おまえの明日のために!
「馬鹿なやつ」
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