逃走と転落

 いきなり真っ暗になった世界できょろきょろとあたりを見回していたら、股の下から仄香が抜け出す気配がした。はずみで後方に転がり落ちて頭を打つ。

「朔!」

 遠くで倫明の声がする。

 奪われたナイフで両眼を一直線に切り裂かれたらしい。相当深くえぐられたようで、瞬時には視界が回復しない。大型の肉食動物が喉を鳴らすような重低音とともに、タイヤが砂利を踏みしだく音がした。

 闇が晴れると、大きなコンテナが左から右に移動していた。紗寧子のトラックが小道へ走り去っていく。

 カオリはポシェットからトラックのキーを盗んだのだとようやく気付いた。

 倫明はサイズが大きすぎて袴のようになった短パンをばたばたさせて、僕に駆け寄ってきた。

「朔、どういうことだよ。仄香が何でおまえを……」

「あいつは仄香じゃなくてカオリ。もう一人の〈沼の人〉なんだ」

「はあ?」

「カオリは何かとんでもないことをしようとしてる。今すぐ追わないと……」

 眠り続ける人間を満載したトラックを運転するのは、小五の身体をした無免許高校生。たとえ仄香に〈沼〉の人間をどうこうするつもりがないとしても、今すぐトラックを止めなければ危険だ。何しろアクセルを踏むとダッシュボードに頭が隠れてしまう身長なのだから。

「あのトラックを追いかけたいの?」

 くぐもった女の声。ヘルメットの女が重そうなバイクを転がしてくる。

「追いかけたいなら後ろに乗って。このバイク大きいから三人乗っても大丈夫」

「三人はさすがにまずいんじゃないですか? っていうかあなたは……」

「じゃあ訂正しようか? バイクが大きいから、じゃなくてあんたたちがチビだからよ」

 女はヘルメットを取った。ボブカットがばさりと広がる。細筆で引いたような細い眉。

「それに、落馬したところで死にはしないんでしょ」

 世渡万由里は唇を歪めて笑った。

 訊きたいことは山ほどあったけれど、今はそんな場合ではない。

「わかった、乗せてもらうよ。倫明はどうする?」

「よくわかんねえけど、乗る」


 僕が万由里の腰に腕を回し、その後ろに倫明がつかまってから、万由里はスロットルを回した。急発進による加速は思っていたよりすさまじいもので、振り落されないように万由里の腹をぐいと握ると頭を小突かれた。

「痛っ! どこ触ってんの」

「そうしなきゃ落ちるじゃないか」

「馬鹿。自分の腕を握ればいいでしょ」

 それもそうだ。言われた通りに両手を繋いで輪を作るとずいぶん安定した。

 しかし万由里により密着した分、バイクの前方が見づらくなってしまった。首を横にうんと伸ばして背中越しに覗くと、トラックの後ろ姿が十メートルほど先に見えた。僕たちのバイクもそうだが、仄香のトラックも相当のスピードを出しているに違いない。

 トラックとバイクは県道というより登り坂の山道を突き進んでいる。山肌に沿ったカーブも増えてきた。

「ここからどうしたらいいわけ?」

 風音に負けないように万由里は声を張り上げる。僕も叫んだ。

「とりあえずトラックの前に出て。向こうに飛び移るから」

 バイクはさらに加速する。片道一車線にしては狭い道でトラックの横をすり抜けると、ガードレールを超えてきた雑草が足と腕を引っかく。

 ついにトラック前部と横並びになって、運転席が見えた。

 仄香の頭はサイドウィンドウのかなり低い位置にある。あれでは道路状況などまるで見えていないだろう。急なカーブや交差点に差しかかったら大惨事になる。

「まずは俺が行く」

 倫明はまず僕の肩をつかみながら立ち上がり、シートを蹴ってフロントドアに飛びついた。カオリは窓を叩く倫明を見て、ようやく僕たちの存在に気づいたらしい。突然右にハンドルを切ってバイクに急接近する。

 みるみる迫ってくる車体。

「前! 前行って!」

 きゃああああ! と絶叫しながら万由里はスロットル全開で加速。トラックに衝突する寸前で前方に飛び出した。

「ばっかじゃないのあいつ! あんたたちは不死身かもしんないけど、あたし死ぬんだっつうの!」

 喚き散らす万由里が気の毒に思えてくる。このカーチェイスに一番恐怖しているのはまっとうな人間の彼女だ。

 もちろん人間はトラックの中にもたくさんいるはずだ。もしかしたら僕たち四人のオリジナルも〈沼〉に浮いているかもしれない。アイデンティティの絡む面倒な問題は抜きにして、絶対に死なせたくなかった。人の命は尊いのだから。


 ごん、ごん、と硬いものがぶつかる音がして、後ろを見る。

 ボンネットによじ登った倫明がフロントガラスに何度も右手を振り下ろしている。よく見れば小石を握っていたが、やはり小学生の腕力ではひびすら入らないようだ。

 僕は万由里に大声で訊いた。

「何か硬いもの持ってない?」

「トランクにスパナがある。……ほら、そこに取っ手あるでしょ。腰上げてるからさっさと取って」

 苦しい体勢でシート下のトランクに手を突っ込み、スパナを取り出す。柄が長くて割と重い。

「祝、今何やってるの?」と万由里。

「フロントガラスを小石で叩いてる」

「あのねえ、合わせガラスのフロントがそう簡単に割れるわけないでしょうが。事故防止とかでかなり頑丈に作ってるのよ。割るんだったらサイドにして」

 僕は上半身をねじると、トラックの上の倫明に向かってスパナを振ってみせる。

「倫明、サイドを割れ」

「サイド?」

「横の窓……ほら」

 スパナを放り投げた瞬間までトラックとバイクの相対速度はゼロだったが、カオリがとっさに反応してブレーキを踏んだので、スパナは倫明の手に届かなかった。しかし、慣性の法則により前方に吹っ飛ばされた倫明は運よくスパナをつかんだ。

 バンパーに衝突する寸前に。

 どん、と倫明の身体が押し潰される。

 倫明はスパナをバンパーの隙間に突っ込んでぎりぎり踏み止まったが、両足は紙やすりのようなアスファルトに触れていた。足首から先は削られて骨が露わになっている。じきに摩擦でトラックの底に引き込まれてしまうだろう。

 倫明は顔の右側面だけをこちらに向けて、にやりと笑った。

「車、一瞬止めるぞ」

「止める?」

「しっかりやれよ」

 倫明は僕に向かって叫ぶと、ひらりと颯爽たる身のこなしで右側のタイヤに巻き込まれていった。

 肉と骨がすり潰される湿った音を立てて、トラックはがたがたがたと不穏な振動を起こしたかと思えば、前輪右のタイヤを軸にして斜めに停止した。

 不気味な音に万由里の背中はびくんと跳ねた。

「な、何、今の……」

「世渡さんストップ。トラック、止まってるから」

 僕はバイクを降り、全力疾走してトラックに向かう。

 バンパーに挟まったスパナを抜き取ってフロントドアに上がる。必死にアクセルを踏み込むカオリが見えた。ドアレバーで身体を支えながらスパナで窓を殴る。何度も何度も殴りつけていたら、ぱあん、といきなりガラスがはじけ飛んだ。破片で手を血だらけにしながら車内に乗り込む。

「来ないで」

 カオリは両手で持ったナイフを僕の顔面に振り下ろした。刃は僕の右頬を切り裂いて顎関節のあたりで止まる。スパナを彼女の右手にお見舞いすると、ナイフから手が離れた。顎の骨に硬い金属を挟んだまま、カオリの両肩をつかんで助手席のシートに押し倒す。

「何をするつもりだったんだ。荷台には人がたくさん乗ってるのに」

 ナイフを顎から引き抜いてから訊くと、この構図は慣れっこだという感じでカオリは淡々と言った。

「みんな殺すつもりだった」

「何で……」

「だってそのほうが幸せでしょ。叩き起こされて地獄を見るより、〈沼〉の中で眠ったまま死んだ方がずっとまし。人のコピーがこの世にいるかぎり、絶対に争いは避けられないんだから。自分を勝ち取るための闘いとか、そんなものに巻き込まれて割を食うのは人間のほうなんだよ?」

「僕たちは『本当の僕たち』の複製に過ぎないんだ。偽物は偽物らしく本物に座を譲ればいい」

「だからあの子に嫌われたんだ、朔は」

 あの子――

 暑さも寒さもろくに感じなくなっていた頭が、沸騰したようにかっと熱くなった。

「誰のことだ」

「ねえ、五十川仄香の〈沼の人〉がどうして二人もいたんだと思う?」

 唐突な質問に虚をつかれて冷静さを取り戻した。

 二人の「仄香」は髪の長さも身長も等しく、腹に残った赤いスラッシュマーク以外はすべてが精巧な複製だ。

「……見た目がほぼ同じだから、ほとんど同じ時期に誕生したんだと思う。でも、理由はわからない」

「正解はね、一度〈沼〉から引き揚げられたあとにまた落とされたから。〈沼〉に制限回数は設定されてなかった。落とされた数だけ〈沼の人〉も増える」

「何のために引き揚げられたの?」

「さあ、それはネイに訊いて。……わたしが〈沼〉で誕生してすぐ、ネイがナイフを渡してきてこう言ったの」


 ――あの車で家に帰ろうとしているのはあなたの偽物です。あなたがあなたとしてこれからも生きていきたいのなら、その手で倒してください。


「わけがわからないまま、車まで走っていって『偽物』を思いっきり刺した。紗寧子は慌てて『偽物』を〈沼〉に落としたけど、結局助からなかった。ネイを金庫に閉じ込めて、紗寧子はわたしの心臓に〈チョーカー〉を嵌めた。今度からは君がわたしを手伝いなさい、って言ったの」

 これまで仄香だと思っていた彼女は、重傷を負って死に瀕していた「五十川仄香」から生じた、二番目の〈沼の人〉だったわけだ。

「わかったでしょ? 偽物と本物が出会うってそういうことなんだよ。片方を消さなきゃ両方とも不幸になる」

「だとしても、人を殺していい理由にはならない」

「じゃあ、今〈沼〉の中で眠ってる子供たちと、臓器を抜かれて死んでいったたくさんの子供たち、全員分の〈沼の人〉をどうすればいいの? そっちは殺せないし、封じておくのも簡単じゃない。わたし、紗寧子の隠し場所を見てるから知ってるの。心臓入りの小瓶が洞窟の奥にぎっしり詰まってる。あれが見つかって、〈沼の人〉の存在が公になるのもそう遠くない。あれだけの数の〈沼の人〉が世に放たれたらどうなると思う? きっと誰もが自分を取り戻すため、オリジナルの自分を殺すんだよ」


 ぱぁぁぁぁぁっ、とクラクションの音がした。

 フロントガラスから外を見ると、対向車線に一台のバンが止まっていた。トラックが斜めに停止して道を塞いでいるので通れないらしい。

 とりあえず道を開けることにした。ナイフをカオリに突きつけた状態でゆっくりとアクセルを踏み込む。あまり抵抗はなかった。十メートルほど進むとトラックは車線に対して平行になり、バンは走り去った。

「何で心臓刺さないの?」

 カオリの言葉にはからかうような響きがあった。

「まだ訊きたいことが山ほどあるから」

「これだけ話したのに満足してないなんて、朔はわがままだね」

 かんっ、と背後で金属のステップを踏む音がした。

「そいつの話なんて聞くな」

 タイヤに挟まった心臓が転げ落ちて復活したのだろう。ガラスを失った窓枠から入ってきたのは裸の倫明だった。僕の手からナイフを取り上げると、カオリの首を左手で押し潰す。

「修也を殺したのはおまえか?」

 細い首筋に指がきつく食い込んでいる。

「どうなんだ、答えろ」

 質問に答えようにも、気管が塞がれていては言葉を発せない。血走った目でカオリを見下ろす倫明は返事など望んでいないのだろう。その姿が、剣崎に対する殺意を露わにした中学一年生の彼に重なった。

 地獄から言葉が吐き出される――あの日のように。

「おまえが人間だったらよかったのにな」

 振り下ろされたナイフはカオリの右耳を削ぎ落した。

 それからの蹂躙は筆舌に尽くしがたいものだった。血が飛び、得体のしれない液体が散る。バラ色の肉片が僕の頬にべたりと張りついた。それを指先で拭って固く目を閉じる。何も見えないように。自分とこのおぞましい世界を切り離すために――

 ものを食べることを止めて以来、ここまで強烈な吐き気を催したのは初めてだった。

 ようやく目を開けると、汚れ続ける彼の手をつかんで止める。

「倫明、もうやめろ」

 上目遣いに僕を睨んでから、倫明はふっと手の力を抜いた。

「……わかったよ。これで終わりだ」

 カオリの胸にナイフの先端が沈み込む。Tシャツの表面に赤い染みが広がる。

 こつん、と浅い位置でナイフは止まった。

「あれ、刺さんねえぞ」

 倫明はカオリのTシャツをまくり上げると、胸から下腹にかけてざっくりと切り開いた。肋骨の下から手を入れてうごめく臓器を掻き回す。数分ほど悪戦苦闘した末、ナイフでそれを抉り出した。

 幾重にも巻かれた針金の塊。わずかな隙間から赤いものが覗いている。

 最大の弱点を守る盾。

 手のひらの心臓をぼんやりと見つめている倫明の向こう側で、カオリがゆっくりと半身を起こしていた。ぐずぐずに崩れた顔が煙を上げている。

「倫明!」

 とっさに叫んだが、間に合わなかった。

 カオリは倫明の横っ面を思い切り張った。不意をつかれた倫明はダッシュボードに倒れ込む。そのはずみに心臓が運転席の下に潜り込んだ。心臓を拾い上げようとして、筋肉の層に阻まれた。すでに身体が形成されつつある。

 エンジン音が高鳴って振動が車内を満たす。トラックが動き出している。運転席の下にうずくまるカオリがアクセルを押し込んでいるのだ。

 二人がかりでカオリを引っ張り出そうとしたが、狭いスペースにすっぽりと収まった身体は容易には動いてくれない。倫明はその背中を切り裂いて急所を狙うが、カオリが激しく身体をねじるせいで心臓を捉えられないでいた。

 僕は隙間から必死に手を伸ばしてブレーキに触れようとした。指先にそれらしき冷たい感触を認めた瞬間、脳を揺さぶる衝撃が襲ってくる。

 バンパーがこすれて火花の散る音。金属がひしゃげて破断に至る音――

 重力の方向が変わったような気がした。フロントガラスを見上げると、そこには山の斜面があった。

 トラックは宙に浮いていた。

 ひとときの無重力を味わったのち、再び激しい衝撃が突き上げる。

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