決裂と爆発

 嫌な予感が現実となり、ネイは僕のゴーサインを待つことなく紗寧子に飛びかかる。だぶだぶのジーンズの内側に忍ばせていたナイフを抜き、白いタンクトップの胸元を目がけて振り下ろす。

 ごっ、と骨と骨がぶつかり合う鈍い音。

 ネイは首をありえない角度に曲げて吹っ飛んだ。ダークブロンドが虚空に舞い、身体が壁際の床に叩きつけられる。

 雀部は紗寧子をガードするように立ち、右手は固く拳を作ったままだった。スツールを蹴り倒すと、倒れたネイに向かって恫喝した。

「手間かけさせんじゃねえ。どうして俺がわざわざこいつに同行したと思ってる」

 ネイに近寄ってしゃがみこむと、ナイフを奪って金髪をぐいと乱暴に持ち上げた。砂埃に汚れたネイの顔は冷静そのものだ。

「おい谷塚。こいつ、詰めていいか」

「はい。最初からそのつもりですから」

 雀部は躊躇なくネイの胸にナイフを突き立てた。ネイの身体は煙とともに失せ、主を失ったTシャツと短パンがぺしゃりと潰れる。雀部がひょいと持ち上げたナイフには灰色の塊が刺さっていた。

 心臓を受け取った紗寧子は、ポシェットから出した円筒の容器にそれを収めた。

 行儀良く座ったスツールから僕は動けない。口だけを動かして訊く。

「……ネイを、どうするつもりですか」

「なるべく頑丈な容器に詰めてから山奥に捨てる。数万年は出られないように。……本題に入ろうか。君はカオリの居場所を知ってるんでしょう?」

「その前に聞かせてください。どうしてあなたは、ここにカオリが逃げてきたと思ってるんですか」

「ネイが復活したのは、カオリが彼女を助けたからだと考えた。ネイを埋めたことを知っているのはカオリしかいないから。……でも、ネイを助けたのは君だった。君はどうしてカオリを知っているの?」

「幼馴染だからわかるんですよ。小学校から高校までずっと同じ学校で、同じ苦しみを分かち合った仲間ですから」

 紗寧子は不可解そうに眉を寄せた。

「あなたのお友達ではなくて、わたしの部下のカオリの話だけど」

僕は頷いて、天井を見上げた。

「仄香、下に降りてきて」


 途端に跳ね上げ扉が開いて、中身の詰まったビニール袋が次々に落下してきた。ビニール袋はテーブルや床や人間二人にぶつかって破裂し、透明な液体をまき散らした。つんと鼻をつく刺激臭が立ち込める。

「仄香!」

 倉庫に残されていたポリタンクから作製したガソリン爆弾は、僕とネイが二人とも無力化されてしまった際の最終手段として使うように、と仄香には言っていた。人を殺したくはないけれどその場合は仕方がない、と。部屋の様子は扉の隙間から見ていたはずだから、明らかに仄香は先走っている。

 最悪の事態を避けようとドアを開け、慌てふためく紗寧子と雀部を外に逃がそうとした。

「こっちです。早く」

 濡れそぼった二人が救いを求める目をこちらに向けたときだった。


 爆炎と轟音。

 衝撃波を受けて身体が宙に浮き、一瞬遅れて背中に硬い平面が激突する。暖かくて柔らかな炎が全身を一瞬にして焦がす。眼球がからからに乾いて何も見えなくなったが、十数えるあいだに光が戻った。視界を白く塗りつぶしていた光は徐々に赤みを帯び、やがて黒い煙となった。

 床から身を起こす。焼けて裂けてしまった皮膚は元通りになっても、ぼろぼろに焦げた服はもとに戻らない。呻き声が聞こえて首をめぐらせると、部屋の真ん中で紗寧子と雀部が身体を丸めて倒れていた。服からは煙が立ち昇っている。

「大丈夫ですか?」

 自分でガソリン爆弾を用意したやつの吐く台詞ではないけれど、彼らにはできれば死んでほしくなかった。二人のもとへ駆け寄ってその身体を仰向けにする。大火傷を負い、意識は混濁してうわ言を繰り返しているものの、命は助かったようだ。

 とん、と背後で誰かの着地する音がして振り向いた。

「仄香!」

 彼女はポシェットをつかんで、ドアから外に飛び出していった。

 仄香を追って僕は走り出す。幾度もガラクタに足を取られながらもスピードを緩めない。突き当たりで仄香がドアを開けた。こぼれる光に向かって床を蹴る。思い切り伸ばした両腕が仄香を捕らえた。

 絡まり合いながら僕たちは外に飛び出し、雑草だらけの地面を転がった。

 仄香はしばらく腕と足を振り回して暴れていたけれど、僕が馬乗りになって肩を押さえつけていると、やがて諦めたらしく脱力した。

「……わたしをどうするつもり?」

「どうもしない。確認したいことがあるから、ちょっとごめん」

 謝りながら、仄香のTシャツの裾をまくりあげて腹を出した。

 ひとつの可能性に過ぎなかった。あの傷はまだ血が固まっていないような新しいものだったから、そこに相違が現れるかもしれない、と思ったのだ。

 予想は的中した。

 仄香の腹はなめらかで、昨日見せてもらった傷はどこにも見当たらなかったのだ。

「君はカオリなの?」

 仄香の顔をしたカオリは冷たい目で僕を見上げたあと、視線を逸らして呟いた。

「……わたしは、あなたたちが知ってるわたしじゃない」


 傷のある仄香と、傷のない仄香――両方ともオリジナルの人間ではない。

 

 一人はそのまま「五十川仄香」としての生活を続け、もう一人は「カオリ」と名を変えてネイの後任者となった。紗寧子から一文字抜き出して「ネイ」としたように、仄香から「香」を抜き出して「カオリ」と名付けられた。


「紗寧子のもとを逃げ出して君はここに来た。僕たちが倉庫にやってくることを察知し、罠を仕掛けて僕たちを封印した。その隙に仄香の心臓をどこかに隠して、君が彼女と入れ替わった。そういうことだろう?」

 カオリの反応はなかったが、僕は続ける。

「考えてみればおかしいところはあった。君は僕のことをずっと『朔』って呼んでいたけど、それは小学校までの呼び方だ。貴司や倫明と出会ってからは『朔くん』に改めたはず。一人だけ特別扱いだって貴司にからかわれたからね」

 朔、と仄香に呼ばれたとき、時間が巻き戻ったような懐かしさを覚えた。六年ぶりの呼び名なのだから当然だ。

「そして、君は僕たちが〈沼の人〉のことを〈吸血鬼もどき〉と呼んでいたのを知らなかった。その呼称はネイしか知らないはずなのに、昨日の夜、君はうっかり〈沼の人〉と言ってしまった。なにより君は、修也の事件をほとんど知らなかった」

 昨日の夜の会話を思い出す。

 事件の日についての情報を話してほしいと頼んだとき、彼女は明らかに動揺していた。


 ――わたし、わかっちゃったかも。犯行の手口。


 あのとき彼女は、チラシに走り書きされた乏しい情報から「犯行の手口」を必死にひねり出したのだ。あの日の出来事を話せと迫られたらぼろが出てしまうので、強引に話題を切り替えることにした。

 しかも彼女の推理は、部室の窓に鍵がかかっていては成立しないものだった。それを指摘すると「そうだったっけ」と曖昧にごまかしていたが、修也の死体を発見した直後、僕たちは密室の謎について話し合っていたのだ。知らなかったはずがない。


「怪しいとは思ってたけど、髪の長さまで仄香とそっくりだから疑いきれなかった。でも、変な出来事がここまで立て続けに起こると、身内に犯人がいたと考えるのが妥当だ。貴司を消したのは君の共犯者の仕業?」

 カオリは黙って頷いた。

「君は紗寧子に飼われていたんだから、〈チョーカー〉を心臓に嵌めていたはずだ。共犯者の手を借りて心臓から外したそれを、昨日の襲撃のあとこっそりと貴司に装着させた。たぶん一番力が強そうで脅威だと感じたからだろう。それに無線機を持っていれば、〈チョーカー〉をビーコン代わりに使って僕たちの位置を把握できる。今朝僕たちがやってくるのに共犯者が気づいたのは、貴司の発する信号をキャッチしたからだ。そいつは貴司が二階に上がってくるのをベッドの下かどこかに隠れて見ていて、〈チョーカー〉を嵌めたやつだと確認すると無線機のスイッチを入れた。それから貴司の心臓を持って換気口から逃げたんだ」

 ここでカオリは咎めるように言った。

「犯人が一階に下りる手段はないんじゃなかったの」

「倉庫に巻き取り式の延長コードがあった。あれを滑車に引っかけて、両端をつかんで降りれば安全だし、鎖の音もしない」

 カオリは何か言いたげに唇を動かしたが、結局黙っていた。

「倫明を消したのは君だ。まず君は適当な理由をつけて彼の部屋に入った。昨夜、倫明が警戒していたのはネイだけだったから、君に対してはガードが甘かったはず。不意をついて彼を刺し、復活防止のための瓶に心臓を詰めて窓から川に投げ捨てた。瓶っていうのは弱点コレクションのひとつ、稲佐浜の砂の入ったやつだ」

 僕たちが本当に吸血鬼なのかどうかを調べるため、数々の神聖なものを持ち寄ったあの実験。他の品々は袋にまとめて部室に置いていたが、倫明が持参した砂の瓶は大きすぎて邪魔だったので、持って帰れと修也に言われていた。

「中身の砂は倫明の服にぶちまけておいた。吸血鬼は死ぬと灰になるって話を利用して、事態を混乱させるつもりだったんだ」

「……でも、部屋は密室だった」

「確かに倫明の部屋に出入り口はなかったけど、金庫みたいに密封されてたわけじゃない。ドアの下に隙間があれば糸を通せる。糸を使って閂をかけるのは難しそうだから、窓の鍵をこのトリックで締めたんだと思う。まず部屋の閂をかけ、窓のクレセント錠に糸を引っかけて両端をドアから廊下に出す。それから外に出ると窓を閉めて、地上に飛び降りた。このとき川沿いのフェンスにぶつかって音を立てたんだ。……玄関ドアは音が大きいから、あらかじめ開けておいた窓からこっそりと室内に入った。そして倫明の部屋まで戻り、糸の両端を引いて窓を施錠したあと、片方を引っ張って回収した」

 こんなことを長々と話している場合ではないとわかっていた。さっさとカオリを封印し、紗寧子と雀部に然るべき処置をして、消えた三人を探さなくてはならない。それでも言葉が溢れて止まらなかった。

 僕の言動をカオリも不審に思ったのか、唇を尖らせて訊いた。

「わたしにどうしてほしいの? 『はい、そうです』って答えたらどうするの?」

「この一連の事件がすべて君の仕業だったら、修也を殺したのも君かもしれない。倫明も貴司も仄香も、隠し場所を見つけさえすれば戻ってくるけど、修也は絶対に戻ってこない。人間は死んだらそれでおしまいだ。君が〈沼の人〉三人を封じた犯人だったとしても僕は許せる。でも、修也を殺したのなら許せない。この場で君を封じ込めて、世界の終わりまで地中に埋めておく」

「……朔、それっておかしいよ。わたしは事件のことをほとんど知らなかったから疑われてたのに。真犯人だったら誰よりも事件に詳しいはずじゃないの?」

「犯人と目撃者は立場が違うから、知ってることに違いがあるはずだ。下手に喋ったら、犯人しか知らないようなことも口にしてしまうかもしれない」


 もしカオリと共犯者の男が犯人だとしたら――

 学校は基本的に開放されているので部外者が忍び込むのは容易だ。仄香のふりをして部室を訪れ、修也を殺して偽装工作を施す。この際、指紋についてはあまり気にしなくていい。カオリの涙が頬の上で消滅したように、〈沼の人〉から分離したものは身体へと還っていく。物につく指紋とは汗腺の分泌した油が描くものだから、指紋だって消滅するだろう。

 部屋を密室に仕立てたのは倫明家と同じトリックだ。

 カオリは非常階段側の窓のクレセント錠に糸を引っかけ、ドアの下まで伸ばした。非常階段に控えていた共犯者は、鉄格子のあいだにナイフを握った手を突っ込み、カオリの胸を刺して心臓を部屋から出す。男は外側から窓を閉めると、部室のドアの糸を引いて窓を施錠した。糸を抜き取ってしまえば見事な密室ができあがる。

 犯行自体は可能だが、大きな謎が残されている――なぜカオリは名前も知らない修也を殺したのか。もしかすると、動機は共犯者にあるのかもしれない。

「君の共犯者は、誰?」

 カオリは僕の質問に答えずにそっぽを向く。どこか哀しげな顔をしていた。

 修也を殺す動機を持っていて、なおかつ紗寧子に囚われていたカオリが接触できる男は誰なのか。

 昨日の倉庫で、一瞬闇に浮かび上がった男の脚を思い出した。大人だと思い込んでいたが、もっと若いような気もする。僕たちと同じ年かもしれない。

 すると、頭の中に一人の同級生の名前が浮かんできた。

「剣崎……」


 中一の夏、濁流に消えていったクラスメイトの不良少年。

 氾濫した川に流されたものの、岸に打ち上げられてぎりぎり命を保っていたとしたら、紗寧子に拾われていても不思議ではない。あの臓器ハンターが欲しているのは「いなくなっても気づかれない男児」だ。剣崎はすみやかに〈沼〉へ投入され、何年も眠り続けることになった。

 そんな剣崎を救い出したのがカオリだったのだ。

 カオリは紗寧子の目を盗んで〈沼〉から剣崎を引っ張り出すと、逃走の協力をするように頼んだ。「鍵本修也への復讐」を交換条件にして。

 橋からぶら下がって危うい状況にあった剣崎に、とどめを刺したのは倫明ではない。両手をつかまれて川辺に放り投げられたのだから、剣崎の主観からすると復讐すべき相手は修也。自殺に見せかけて修也を殺したことで、剣崎の願いは果たされた。

 そういえば、剣崎のひとつ上の兄は御八塚高校に通っていた。犯行のための情報を手に入れるのは容易い。

「共犯者は剣崎なの? 剣崎大毅」

 カオリは答えずに下唇を噛みしめている。

「凝った偽装工作をしてまで僕たちを一人ずつ暗殺したのは、最終的に君以外の〈沼の人〉を消し去るつもりだったからだ。倫明一人を怪しまれずに消し去りたいなら、怪しむやつらを全滅させればいい。でも、昨日の倉庫で一網打尽にする予定が、倫明が逃げ出したせいで予定が狂った。ここで仄香だけが生還したとなると、倫明はきっと不審に思う。一番非力な仄香が敵二人から逃げおおせたというのは変だし、何より倫明は君の姿を見ていた」


 ――暗かったし顔も隠してたけど懐中電灯の光で一瞬見えた。女子の手だよ、あれは。


「一人だけ生還した君と『襲撃犯の少女』を結びつけて考えないとも言い切れない。ネイから『仄香のコピーが二人いること』を聞いているかもしれないし。だから倫明に不信感を与えないため、全員が脱出できたことにして彼の家を訪問したんだ。みんなの口を封じるために」

〈沼の人〉は眠らないので寝込みを襲えない。瞑想して夢の世界に遊んでいても外の音は聞こえるし、目を閉じていると余計に神経が研ぎ澄まされる。

 だから、一人ずつ正攻法で襲うことにした。

〈チョーカー〉つきの貴司は後回しにして、まずは二階に閉じこもっている倫明を。

 次に、外の物音に慌てて飛び出してきた僕を。

「昨日の夜、僕を消すつもりだったんじゃないか?」


 ――いいの、わたしたちだけで行こう。


 外に敵がいるかもしれないのに、二人だけで様子を見に行こうとしたカオリ。僕を外に連れ出してナイフで刺し、消滅させようとしたカオリの目論見は、玄関の音を聞きつけてやってきた貴司に阻止された。

「仄香と倫明と貴司は今どこにいる?」

 僕はカオリの上に乗ったまま手を伸ばし、紗寧子のポシェットを探る。ネイの入った容器もあったけれど、倉庫に服を取りに行ったら人間二人と出くわして面倒だ。かといって丸裸で待機させるのは可哀想なので、もう少し眠っていてもらう。

 ポシェットに入っていた大振りのナイフを握って、カオリの顔の前で構えた。

 どんな手を使ってでも三人を救わないといけない。

「教えてくれないなら、今度こそ本当に封印する」

「……そんなの、無駄だよ」

「無駄?」

「わたし、裏切られちゃったから」

 その意味を尋ねようと口を開きかけたとき、エンジン音が聞こえたので顔を上げる。

 一台のバイクが県道に続く小道から飛び出してくると、砂埃を巻き上げて急停止した。乗っていたのはフルフェイスのヘルメットをかぶったレザージャケットの女と、ぶかぶかで袖の余った服の少年――

 倫明だ。

 突然右手のナイフの重みが消え、視界も消えた。

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