黒の女

 森の静寂を破ったのはエンジンの重い唸りだった。

 トラックは両脇から張り出した枝をフロントガラスで叩きながら小道を抜け、ストーンサークルをぐるりと一周すると、小道に頭を突っ込む姿勢で停止した。

 助手席から降りてきたのは三十がらみのダークスーツの男。髪を後ろに撫でつけてフレームの細い眼鏡をかけている。落ちくぼんだ目元のせいで老けて見える。

 運転席にいた人物もトラックを降りた。細身の黒いレギンスに涼しげなタンクトップの女性。大きなミラータイプのサングラスをかけているので年齢はわかりづらいが、二十代後半くらいだろう。長い黒髪を後ろでひとつに束ねている。

 僕の隣に立っていたネイが小さく呟く。

「サナコ」

 やっぱり来たか。身体に緊張が走る。

「僕が良いって言うまで手を出しちゃいけない。わかってる?」

「ええ」

 神妙な顔をしてネイは頷くけれど、不安は払拭されない。

 男と女は短く会話を交わすと、倉庫の前にいる僕たちのほうへとまっすぐ歩いてきた。サナコはネイのほうに顔を向けると、感情のこもらない声で言った。

「ネイ、脱出したのね」

「はい。こちらの彼に手を貸してもらいました」

「そう」とサングラスの奥の目が品定めする気配。「君の名前は?」

「浅永朔です」

 しらばっくれても無駄だと思い、正直に答えた。サナコの唇の端がきゅっと持ち上がって笑みをつくる。

「……なるほど、わたしを追ってやってきたのか。ご苦労様」

「六年前、僕をさらったのはあなたですね」

「そう。だから君はここに来たんでしょう?」

 あの風の強い秋の日、僕をさらった誘拐犯が目の前にいる。僕たちから人間として生きる権利を奪った女が。

 サナコは自分の胸に手を置いて自己紹介を始めた。

「わたしはタニヅカサナコ。サナは糸偏に少ないの『紗』と安寧の『寧』。こちらは」

 と、谷塚紗寧子は傍らの男に親指を向けた。

「雀部章さんです。雀の部活に文章の『章』。……雀部さんも挨拶してください」

 雀部はふんと鼻を鳴らして二人を睥睨した。

「何で無関係のガキに」

「無関係じゃありません。彼は〈沼の人〉ですから」

「例のガキの一人か。だったら寝首掻かれないうちに瓶詰めにしとけ」

「この二人とは取引する必要があります。まだ手荒な真似はできません」

「取引だと?」

「痛覚のない生き物に拷問は通用しません。やりようによっては可能ですが、その準備はない。穏便にことが運ぶならそれに越したことはありません」

「……わかったよ」

 面倒くさそうに頭を掻いて、雀部は自己紹介を始めた。

「さっきこいつが言ったように、俺は雀部章だ。あんまり大っぴらに話せない分野の仲介業をやってる」

「……その、具体的には?」

 勇気を振り絞って訊くと、雀部は何のことでもないようにあっさりと答える。

「臓器売買」

 薄々想像していたことだったが、やはりショックが大きかった。腰の力が抜けそうになるのをこらえて言う。

「……その臓器は〈沼〉に落ちた人間から抜き取ったものですか?」

「何だ、知ってるのか」

「教えてください――〈沼〉と〈沼の人〉について。僕たちには知る権利がある」

 雀部は苛立たしげに腕を組んで黙っている。代わりに紗寧子が応じた。

「もちろん教える。口の堅いネイが教えてくれなかったことも。その代わり、わたしたちに協力してほしい。少し困ったことが起きているから」

「困ったこと、ですか」

「協力者が姿をくらましてしまった。カオリという名前の女の子」

 紗寧子は一枚の写真を渡してきた。無愛想にカメラを見つめる顔。それを一目見て、ことの真相を悟った。

「……僕たちは、あなたの期待に応えられる」

「彼女を知っているの?」

「あなたがすべてを話してくれたら僕も協力します」

 紗寧子は頷くと、僕たちを促して倉庫のほうへ歩き出した。


 倉庫の「応接間」に全員集まると、テーブルを挟んで二人ずつスツールに着いた。部屋には熱気がこもっていて暑いらしく、雀部は愚痴をこぼしながら窓を全開にする。

 紗寧子はスツールで足を組み、黒革のポシェットから出した扇子でぱたぱたと顔をあおいでいる。

「それで、何を訊きたい?」

「まず、最初に確認します。僕たちはもとの身体に戻れないんですよね」

「もとの身体――ああ、そういうこと。もちろん戻れない」

「教えてほしいのは、〈沼〉と〈沼の人〉の性質について。ネイは知らないの一点張りでしたが――」ネイは心なしか冷たい目で僕を見ていた。「どうか隠さずに話してください」

「わかった」

 話が長くなりそうだと踏んだのか、雀部はシガレットケースとライターを取り出して煙草を吸い始める。吐き出される紫煙を扇子でガードする紗寧子。

「とりあえず、わたしが〈沼〉を見つけた経緯から話そうか」

 そう前置きして、紗寧子はことの発端を語り始めた――


 紗寧子の両親の会社が潰れた後、二人は幼い彼女を置いて夜逃げした。不動産を含めた資産はすべて差し押さえられて、残ったのは買い手のつかなかったこの土地だけだった。紗寧子は児童養護施設に預けられたものの、たびたび施設を抜け出してここに来ていた。工事の途中で放り出されていたので地面は荒れていたが、子供の遊び場としては十分に広かったという。

〈沼の人〉を見つけたのは小四の夏。

 石のサークルの真ん中を掘っていたら、いきなり足元が崩れ、ぬるぬるしたゼリー状のものに包まれた。いったんは頭まで落ちてパニック状態になったが、もがいているうちに手が外に出て、地面に突き刺してたスコップを手掛かりにして外に這い出した。疲れてうつぶせに倒れていたところ、後ろで泥が泡立つような音がした。振り向くと、裸の少女が〈沼〉から這い上がってくるところだった。

 自分とそっくりの少女が。

 怖くて逃げ出したかったが、言葉を交わしてみると、外見だけではなく中身も自分と同じだとわかった――


 倫明の予想は的中していた。〈沼の人〉とオリジナルの人間は、異なる自我を持った別の存在なのだ。〈沼の人〉が人間になれないように、人間は〈沼の人〉になれない。

 僕たちの意識は、〈沼〉の泡立ちの中に誕生した紛い物だ。

 こちらの揺れる心中などお構いなしに、紗寧子は続けた。

「わたしたちはあの広場で一緒に遊ぶようになった。ところがある日、状況が変わった。彼女が鋭い石で手を切って、傷がみるみる治っていくのを見たときから。痛くないのと訊いたら、全然痛くないと彼女は言った。だからわたしは実験をすることにした」

 実験、という響きに残酷な予感を覚えた。

「まずは家から持ってきたカッターナイフで彼女の身体のあちこちを切った。腕も足も、顔もお腹もお尻も、どこも傷ひとつつけられなかったから、今度は包丁で胸を刺した。すると心臓を残して全身が消滅した。そこでようやく、彼女がわたしとは完全に異なった生き物だと気づいた。わたしは彼女に新しい名前をあげることにした。紗寧子の『寧』をとって――ネイ、と」

 とっさにネイを見ると、とぼけたように小首をかしげて見返してくる。

 こんなに重要なことを最後まで秘密にしておくとは、口が堅いにもほどがある。

「……その髪、黒く染めてるんですか?」

「いいえ、小さいころは金髪だったけれど、大人になったら自然と黒くなった。髪の色の変化は白人にはありふれたことなの。わたしの母は帰化したイギリス人で、たまたま母親の遺伝が強く出た。でも――」

 紗寧子はサングラスを外した。現れたのはネイと同じコバルトブルーの瞳。

「眼の色は変わらない。だから、初仕事からはサングラスをしていた。ハーフだと知られたら犯人特定が容易になるから」

「初仕事というのは、僕たちをさらって〈沼〉に落とした事件のことですか」

「そう。前々から臓器売買に〈沼〉を活用できないかと考えていて、高校を卒業して施設を出たときに実行に移した。これには雀部さんは噛んでいない」

「あなたは、僕たちのコピーをとって家に帰すことで事件発覚を遅らせ、生きる臓器保管庫としてオリジナルの身体を手元にストックした。つまり、僕たちの本来の身体はとっくに内臓を抜かれて死んでいるんですね」

「一概にそうとは言えない。〈沼〉に落ちた人間は〈沼〉に栄養を供給されて眠ったまま生き続ける。そのあいだは成長も老化も継続する。そして、死ぬと身体が溶けて〈沼〉に吸収される。一種の生命維持装置と言っていいかもしれない。……臓器売買を行う際にもっともネックになるのは臓器の鮮度。購入者が現れるまではドナーを生かしておくのが望ましいけれど、大勢のドナーを閉じ込めて管理するのには手間とコストがかかる。その点、〈沼〉を使えばドナーをローコストに管理できるし、臓器の鮮度も維持できる。移殖のたびに適切な処置をすれば、ドナーを生かしたまま臓器を小分けに取り出すこともできる」

 聞けば聞くほどおぞましい話だった。脳裏に浮かんだのは、少しずつ肉体を切り取られながらどろりとした粘液に漂っている僕の――浅永朔のオリジナルの姿。

「僕たちのオリジナルは生きてるんですか?」

「生きてるのもいるし、死んでるのもいる」

 紗寧子は意味ありげな微笑を浮かべている。

「あなたたちにとっては死んでいたほうが好都合でしょう。同じ人格を持った人間が二人もいるというのは、とても気持ち悪いことだから」

 紗寧子とネイの視線がかち合った。

 もともと彼女たちは、記憶から性格まですべてが一致した鏡像だったはずなのに、今の二人は別人にしか見えない。外見年齢の違いのみならず、人格の決定的な違いが浮き上がって見える。

 ネイは紗寧子のことを「主人」と言っていた。紗寧子は自分そっくりの彼女を従僕として扱い、ネイの中の「紗寧子」を徹底的に上書きした。同じ人格を持ったネイが心底気持ち悪かったから。

 本当の浅永朔が生きているとしたら、ここにいる僕はどうすべきなのだろう。本来の立場を譲り渡すべきなのか。やっぱり山奥にこもって仙人になるしかないのか。

 なぜ僕たちはこんな過酷な運命をたどらなくてはならなかったのか。

「どうして、僕たちが選ばれたんですか?」

 指を折りつつ紗寧子は答える。

「理由のひとつは、一人で人気のない場所にいたから。もうひとつは、健康そうな男児だから」

「男児?」

「わたしは男が嫌いなの。だから、臓器を抜いても罪悪感がない」

 さらう子供を適当に選ぶとか、男は殺してもいいとか、非難すべき事柄は山ほどあるけれど、根っからの犯罪者に人権を説くのは時間の無駄だ。それより、指摘すべき大きな矛盾がある。

 五十川仄香は女だ。

「女の子もさらってるじゃないですか」

「昔のことはよく覚えてない」

 すっとぼけてみせる紗寧子をさらに追及する。

「いったい〈沼〉って何なんですか? 不死身のコピーを作ったり人を養ったり、わけがわからない。まるであなたの臓器売買のために誕生したみたいだ」

「ええ、確かにそう。都合が良すぎる存在に思えるけれど、その不可解な性質も〈沼〉の意志だと思う」

 こういう物語を仮定しようか、と紗寧子は前置きする。

「〈沼〉は人を内部で養い、観察して、自分の身体から絞り出した材料で神の作品である人間を『模写』している。神が泥からアダムを創ったように、神の真似事をして〈沼の人〉を創っているの。しかし、〈沼〉は不完全であるがゆえに人間の出来損ないしか創ることができない。そして、不死であるがゆえに死を理解できない」

〈沼の人〉の姿はコピーされた瞬間から細部に至るまで変化しない。成長や老化も、発汗や排泄も、怪我や病気も、あらゆる生理的変化を打ち消すように再生が起こる。

 なぜなら、〈沼〉が人間の自然な変化を理解できないから。

 不完全な創造主だから。


 紗寧子はぱたんと音を立てて扇子を閉じた。

「〈沼〉の話はこれで以上。質問はある?」

「〈沼の人〉の身体について聞かせてください。心臓以外に急所はあるんですか」

「ないと思う。ネイで実験を繰り返してわかったのは、心臓に小さなものが刺さっていると全身の再生が始まらないこと。半分に切断すると、わずかに大きいほうがメインとなって再生する。熱湯に入れたりレンジにかけたり冷凍したり、色々やってみたけれど変化はなかった。要するに、〈沼の人〉を無力化するには心臓を貫くしかない」

「離れた場所から〈沼の人〉を消滅させるような道具は?」

「そんな便利なものがあったらわたしが使う。心臓置き場は長らく悩みの種だから」

 嘘をついている様子はない。そもそも嘘をつくメリットが皆無だ。〈銀の銃弾〉が存在すれば僕たちに対する抑止力になる。

 それにしても、心臓置き場に困っているということは――

「〈沼の人〉を家庭に戻すのはやめたんですか?」

「復讐されるかもしれないのに不死身の子供を野に放つやつがいるか、って雀部さんに叱られたから。それからは定住を避けて、〈沼〉をトラックに詰めて常に移動している。〈沼の人〉は心臓を刺してから瓶に入れて、山奥に埋めている。この土地に隠したほうが安全なのは確かだけれど、君たちの闇討ちに遭うかもしれないから、なるべく近寄りたくなかった」

〈沼〉を移動させたのは、僕たちの追及を逃れるためだったのだ。

「闇討ちに遭うことをあなたは恐れていた。だったら、どうしてネイをずっと自由にさせていたんですか? 心臓に〈チョーカー〉を嵌めて一応の安全対策はしていたみたいですが、部下が必要だったら人間を雇ったほうがいい」

「必要なのは部下ではなくて、〈沼〉に取り込まれることなく出入りできる人材」

「もしかして――〈沼の人〉はコピーされない?」

〈沼〉に落ちると自動的に〈沼の人〉が生成されてしまうので、普通の人間はうかつに近寄れないが、〈沼の人〉は違うのだ。

 そう、と紗寧子は頷いた。

「君たちは呼吸しないから〈沼〉でも溺れないし、〈沼〉の一部に過ぎないから厄介な副産物が生じない。ドナーを引き揚げるには、どうしても〈沼の人〉の協力が必要になる」

「でもあなたは、ネイを解雇して金庫に閉じ込めた」

 終わりのない暗闇に、六年間――

 僕はネイの反応を観察していた。紗寧子に対する憎悪は今のところ感じられない。もともと表情が薄いせいかもしれないけれど。

 紗寧子は扇子をポシェットに戻し、黒い棒状のものを取り出した。柄の部分を引くと、刃渡り二十センチを超える刃先が現れる。僕たちを牽制するようにナイフを揺らして、鈍色の光をちらつかせる。

「ネイはわたしを殺そうとした。首輪をつけたところで二度と信用はできない」

「嘘です」

 沈黙を守っていたネイが口を開く。凍りつきそうな温度の言葉だった。

「紗寧子は嘘をついています。紗寧子はもともとわたしを封じて、パートナーをカオリに切り替えるつもりでした」

「でも、殺そうとしたのは本当でしょう。カオリを勝手に復活させてナイフを渡して、どういうつもりだったの? あの子がわたしを殺せばいいと思っていたの?」

「紗寧子がわたしを苦しめるつもりだと知っていました。現に、紗寧子はそうしました。砕いた〈要石〉と一緒にわたしを閉じ込めた」

 はっとした。金庫の中に敷き詰められていた砂利――あれは細かく砕いた〈要石〉だったのか。〈沼の人〉の弱点である、少し触れただけで焼け爛れたような痛みが走るあの物質に、ネイは何年も触れ続けていた。狭い空間の中、身を逸らすこともできずに。

「紗寧子はわたしを苦しめた。意味もなく、三年も苦しめた」

 色の薄い小さな唇から、呪詛が洩れる。

「わたしは――紗寧子を苦しめたい」

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